夏の暑い夜の話



「……っ……はあ……」

 詰まらせていた息を吐き出すように、やっとの思いでできた呼吸をノーチェは噛み締める。
 夜の帳が降りた頃。月も浮かばない星空の下で、ひとつ屋根の下に住む男が二人。脱ぎ捨てられた服を後目に、貪り合っていた唇を僅かに離す。
 首筋が酷く痛む。下半身よりもじりじりと、まるで焼けるような痛みに彼は指先を軽く添えた。
 根元まで深く突き刺さったかのような深い噛み跡。幸い、出血はしていないが、そう仕向けられたのかは分からない。出血がしていても不思議ではない筈の傷に、ノーチェは苦笑を洩らす。
 目の前には自らの唇を軽く舐める男が一人。使えなくなった左目を補うように、赤い瞳が彼をじっと見つめる。
 酷く冷めたような、冷静を装うような顔付きをしているが、滑らかな肌には汗が滴っていた。熱を帯びているのだろう。思わず頬に手を伸ばしたノーチェは、満足げに笑って「やっぱいいな」と呟く。

「顔立ちが綺麗。だから短くなっても、格好いいままなんだよなぁ……」

 ゆっくりと指先で頬を撫で、そのまま目元を親指で掠める。息は上がっていないが、火照る終焉は何の気なしにその手にすり寄って、「満足か」と小さく問い掛けた。

 何をしていたかなど言うまでもない。好意を寄せ合った人間がやれることなど、選択肢が絞られる。ただ日常を送るでも、敢えて距離を置くでも、出掛けるでもない。
 愛を囁き、愛を感じて、体と心を欲しがった恋愛感情を交えた行為のみである。
 ただそれを、終焉はあまりよく思っていなかった。その所為で、酷く冷めたように見えるのだ。

 ノーチェは終焉の問い掛けに笑って、まあな、と言った。

 自分がされるように唆し、主導権を得て、わざと上を取る。溺れさせない程度に緩く攻めた後、自分で念入りに準備をした結果を見せ付ければ、男は渋々折れてくれるのだ。
 始めこそ抵抗があったそれも、羞恥心をかなぐり捨てれば何てことはない。ただ欲しいものを得るための作業の一貫だと思えば、自ずと体が慣れてしまう。
 それに終焉が応えてくれるかどうかが――分からないのだ。
 ノーチェが満足そうな返事をしないのは、あくまで主導権が自分にあって、終焉を唆さなければ期待通りの結果にならないことにある。
 どうせなら一から十まで――始めから最後まで、主導権を握られたい。たった一度でいい。終焉の思うがままに動かされて、されるがまま果ててしまいたい。
 それはきっと、無造作で覚束なくて、けれど何よりも心地好くて、癖になるのだろう。
 ――そんな淡い期待がいつまでも実らないことに、小さな不満を覚えていたのだ。
 しかし、そんな無茶を言うほど彼は常識のない人間ではない。
 終焉はあくまで奴隷であったノーチェを強奪という形で救い、自分を省みず故郷まで送り届けてくれたのだ。片目を失う原因となった傷は深く、終焉の左目はもう二度と、ノーチェの顔を映すことはない。
 そんな終焉に、始めから最後まで自分を抱いてくれ、などと誰が言えようか。

 不満は残るが、満足していないわけではない。わざわざ寝室の寝具を寝取り、自分の我が儘に付き合ってもらったのだ。
 本来終焉は性に関することを遠ざけていて、自らノーチェに手を掛けることはない。男の目的は今も尚、ノーチェに殺されること――ただひとつなのだ。
 そんな終焉を組み敷くことがあれば、今日のように誘うこともある。男は始めこそは拒むものの、最終的には彼のしたいようにされるがままとなる。
 何故性に関するものを遠ざけるのか。――それは、ノーチェが奴隷時代にされたことと同じことを、自分もしたくはないからだろう。
 その強い信念を砕き、彼は自分しか見られないような終焉の顔を数えられるほどは見た。

 上から見下ろした男の顔は、それはそれは乙女のように恥じらいながら、何とか屈しないように歯を喰い縛ることが多々あった。目尻に涙を溜めて、それこそ悪いことをしている、と錯覚させてくるほどに可愛らしい表情をした。
 黒い髪が白い肌をよりいっそう際立たせ、全く別の人種であるのだと、痛感させられるほど。どうにも欲を掻き立ててくる甘い香りは、終焉から漂っているのだ。
 ――反面、下から見る男の顔は、無表情の一言に尽きる。
 楽しいだの、気持ちいいだの、そういった感情全てを置き去りにするような冷めた顔つき。時折ノーチェを見つめてくる赤い瞳は、それこそ獣のように鋭く、若干の敵意さえも覚えてしまうほど。
 喉元を唇が這うときは、そのまま喰い千切られるのでは――なんて危機感が、何度も身を焦がした。

 もしかしたら、終焉は行為が好きではないのかもしれない。
 ――何度思ったことだろう。
 それでも、彼は終焉の者を、愛してしまっていた。

 半ば強制的に寝取った終焉の寝具で、彼は身動ぎをひとつ。自分の生返事にそれとなく不満を抱いているらしい男の顔に、「あんだよ」と口を溢す。
 男はノーチェを組み敷いた形のまま、ノーチェを見つめて「別に」と言った。何かを言いたげな口調に、思わず彼は唇を尖らせてしまう。

「……ベルがこういうのすんの、好きじゃねえのは分かってるよ。感謝してるんだぜ? 俺はやっぱ、好きなやつとはこういうことしてぇからさ」

 そう呟いて、ノーチェは覆いかぶさるような形の終焉の体に手を滑らせる。
 月のない夜の中でも、男の白い肌は十分に分かった。その上に無数の傷跡があり、右肩から左の脇腹まで切りつけたような大きな跡が一番目立つ。
 鋭い刃物で切られたような跡は、いつの日にかノーチェ自身が終焉を殺したときにつけたようだが――生憎、彼にはもうその記憶が頭の片隅にも残っていなかった。
 全てを正す――その代償に捧げたのは、別の世界にいた頃の自分の記憶と、その事実。
 いまいちピンと来ることはないが、彼の体自身は、終焉の傷跡に強い罪悪感を覚えているようだった。

「この傷を見せたくねぇのも分かるけど……俺もあるんだから、お揃いだろ?」

 ちくりと胸が痛むような感覚に苛まれながらも、ノーチェは軽く笑った。終焉は相変わらず何も感じていないような、無表情のままだが、不快感は抱いていないようだ。
 ほんの少し目線を下ろして「そうか」と呟く男に、彼は「ん」と言う。少しずつ落ち着きを取り戻す鼓動に比例するように、体につけられたいくつもの傷が次第に痛みを帯びてきた。
 出血をしていないだけマシだと言い聞かせるものの、やはり痛みは慣れないものだ。
 首筋と、脇腹。どうにも食みやすい箇所ばかりを狙ってくるのは、男の中に残る野性的本能の所為だろうか。

 痛いなぁなんて思いながら、ノーチェは寝具に手を突く終焉の腕に頬を寄せる。
 男の体は体温という概念が存在していないらしく、一度熱を持ったとしても、時間が経てばすぐに冷たさを取り戻してしまう。終焉曰く「死んでしまった体だから」らしいが、彼はそれを受け入れるつもりはなかった。

 人間ではない――その事実を、彼は認めたくはない。ノーチェは終焉も同じ人間だと思っている。
 誰に何を言われようとも、どんな事実があろうとも、彼にとって男は同じ人間なのだ。

 ――だが、夏場であればあるほど、終焉の体の冷たさには救われていた。火照る体に冷えたそれは心地好く、四六時中くっついていたいと思うほどだ。
 熱を持った体が、冷えきった体に熱を奪われていく。夜とはいえ、蒸し暑く息苦しい夏の季節では、終焉の存在が必要不可欠だと言っても過言ではない。
 いくら体を密着させていても冷たさを失わない終焉に、彼は緩みきった顔を見せてしまった。
 ピロートーク、というものもすっかり内容が尽きてしまって、することもない。いくら欲が残っていようが、望みも持たない終焉に次を強情る気もなく、眠気が来るのを待つだけだ。

 夏はいい。体が冷たい終焉に引っ付いても違和感がないから。男も拒む様子もなく、大人しく受け入れてくれるから。

 すりすりと頬を寄せても抵抗を見せない終焉に、彼は安心感を胸に抱く。どこぞの人間のように、抵抗しているノーチェに無理を強いることもなく、彼のしたいままに流されるだけ。
 それが、どうしようもなく落ち着くのだ。
 終焉は特別言葉を発することはないが、何か思うところがあったのだろう。何気なくノーチェの首元に顔を埋め始め、ほんのりと唇を開く。

「……隣街の『俺』は、期待に応えようと毎年同じものを手渡すらしい」

 ぽつりと呟かれた言葉と、予想だにしない行動にノーチェの思考が止まる。傷口に柔らかな唇が掠め、ほんの少しの痛みを覚える。
 何を言いたいのか、必要最低限のことしか話さない終焉の言葉では、彼は理解しきれない。普段ならいくらか落ち着いた頃に傍を離れて、風呂の用意をするのが一連の流れだ。
 眠気が来てしまえばそのまま眠りに就いて、朝からシャワーを堪能する。
 ――その流れの筈なのだ。

「あー……えと……なん……かな…………」
「分からないか」

 終焉がぐっと顔を上げた矢先、見慣れない笑みを浮かべた。綺麗な顔立ちに雄々しい表情が見事に映える。赤く煌めく鋭い瞳がノーチェをじっと見つめて、ただ妖しく笑う。
 まるで心情を見透かされているようだ。ぐっと息を呑むと、自分がただならぬ緊張感を覚えているのが分かる。
 雄々しい終焉にどこか懐かしさを覚えているのは、恐らく失くした記憶の奥底にその面影があるからだろう。一人称も口調も、知っているものとは全く異なる様子に、体が強張る。
 自分が何かを期待してしまっているのは明白だ。
 それに男が応えてくれるような気がして、胸が高鳴るのを感じてしまう。

「悪いが俺は本能に従って、正面ではなく、後ろから攻め入るのが好みだ」

 そう言って喉を舌で掠めて、片手で胴体を撫でる。背を向けろと暗に言っているのだろう。
 終わるつもりでいたノーチェにとっては、思いもよらない褒美のようなもので、胸の奥が熱くなるのを感じる。

 思わず笑って、「マジか」と呟けば――終焉がノーチェの体勢を無理矢理変えたのだった。


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