一年越しの



 どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
 クレーベルトが立ち尽くす先にあるのは、男が愛用している大きな寝具。シンプルな造りをしていて、特にこれといった特徴があるわけでもない、ただの大きな家具だ。
 その上に寝転がっているのは、部屋の主――ではなく、クレーベルトが居座るようにねだった相手。何故か布団をかぶり、独り占めするようにくるまって、男にそっぽを向く形で寝転んでいる。
 その様子を寝惚け眼で見つめたまま、男は小さく首を傾げた。
 どうやらノーチェは不満を抱いて拗ねてしまったようだ。証拠に多少声を掛けてみたが、返事のひとつもない。一度だけ眠っているかとも考えたが、生憎殺人鬼という立場上、人の気配には敏感で。気が付かないという選択肢がある筈がないのだ。
 何より静まった部屋に聞こえてくるのは、寝息ではなく、ただの呼吸音。深い呼吸を繰り返す眠りとは打って変わって、普段の呼吸は浅くて分かりやすい。
 だからこそ彼が起きているのは明白なのだ。
 それでも顔を合わせようとしないのは、――単純に何らかの理由によって、ノーチェがふて腐れているからだろう。

 確か、以前にもあったような、なかったような。
 風呂上がりの寝惚け眼のまま、クレーベルトは頭を捻って、腕を組んで考える。
 どうして彼はふて腐れているのだろう――風呂上がりの頭は冴えることなく、霞がかかったように思考に靄がかかる。原因を探っていた筈なのに、気が付けば大きな欠伸をして目尻に涙を溜めていた。
 体が重い。日頃の疲れが祟ったのか、足は棒のよう。瞼も重く、勝手に閉じようとする無意識に反発しては、未だ熱を保つ体に安心感を抱く。
 眠気が勝っている状態でまともな考えなどできる筈もない。
 クレーベルトは再び欠伸をすると、ノーチェの気分を害さないよう、そうっと背を向け始める。布団を独り占めされてしまっているのなら仕方がない。諦めて床で寝よう、という諦めが、男の体を動かした。
 緩みきったスラックスの裾が僅かに絨毯を鳴らす。ざり、と生地が擦れ合う音。すぐそこで眠れば、ノーチェも大人しく眠りに就いてくれるだろう。
 ――なんて可笑しな考えをしているのは、クレーベルト本人もよく分かっていたのだ。

「――うっ」

 だが、床に寝転がるよりも早く、彼はクレーベルトの体を思い切り引き寄せた。
 唐突に天井を仰ぎ、体が後方へ倒れる感覚で眠り始めていた警戒心が目を覚ます。引き寄せられるのはよく分かったが、受け身も取れないことに体が強張った。胸の奥が冷えるような感覚は、極度の緊張から来る現象だろう。
 ほんの少し焦ったように声を上げたあと、男は体に収まる感覚を得た。自分よりも温かく、それで心地のいい。「生きている」人間の体温に未だ不思議な気持ちでいると、首元に顔が埋められる。
 ほんの少しのくすぐったさを覚えたあと、クレーベルトは一度深呼吸をして、「何だ」と小さく口を洩らした。

「……寝ないのか」

 我ながら絞り出したような小さな声だと、男は思う。
 クレーベルトの体を受け止めたあと、首元に顔を埋めたノーチェは、そのまま腹部に手を回してぐっと抱き寄せる。緊張しているような様子も、特別怒っているような雰囲気も見せてはいない。
 だが、話をするつもりはないのか、男の問いに答えないまま、ノーチェはクレーベルトを離さずにいる。
 呼吸が落ち着いているのは確かだ。興奮していれば、自ずと呼吸が浅くなるもの。密着した体から伝わる動きには特に異変もなく、安定した呼吸だけが感じられる。

 それでも会話をしようとしないのは、やはり、何かが不満だったからだ。

 密着したまま動かないノーチェに痺れを切らし、クレーベルトは身動ぎをしようとした。――だが、相手は物理に特化した人間。そう簡単に動くことなどできず、ただ疲労感が押し寄せる。
 抵抗はするだけ無駄だと悟った男は、ふう、と溜め息を吐くと彼に身を委ねた。
 自分よりも遥かに温かな体が眠気を誘う。堪らずくぁ、と欠伸をすれば、目尻から涙が溢れた。どっと押し寄せてくる疲労感が、ノーチェの無反応具合に対して苛立ちを覚えさせてくる。
 何が気に入らないのかは分からないが、眠りは男にとっても重要なものだ。日頃の疲労を取り除くだけでなく、魔力の回復も備えている。魔力の消費によっては眠る時間も変わり、気が付けば昼を過ぎる――なんてこともあるのだ。
 ボスという立場上、そんな勝手は許されない。どうするべきかなど明白だ。
 ――さて、どうしようか。
 ふう、と息を吐くクレーベルトを余所に、ノーチェはただ顔を埋めている。腕は体に回されて、どうにも逃げられないように強く抱き留められているようだ。
 退かそうにもやはり力が足りない。
 夜は更けて時刻は深夜になっている。普通ならノーチェはおろか、クレーベルトも眠りに就いている筈なのだが、どうにも彼は忙しなく動いていた男の帰りを待っていたようだ。
 それほど話がしたい、ということなのだろう。

 ほう、と溜め息を吐き、男は僅かに腕を動かす。胴体こそ拘束されているが、腕は何とか動かせるのだ。
 その手を首元にあるノーチェの頭に添えてやって、軽く撫でる。相変わらず自分とは異なった髪質にほんのりと楽しみを覚えているが、彼の反応はないまま。
 男は自分の言動を振り返るが、どうも何が引っ掛かっているのか――分からずじまいだった。

「――……ノーチェ……俺は何かしたか……?」

 ぽつりと問い掛けてみるが、ノーチェからの応答はない。代わりに体に回された腕にぐっと力がこもったような気がする。それが肯定の意であることを、男は知っていた。
 良かれと思って言ったものが相手には嫌なものだった、なんてことはよくある。今日もまた何かをしてしまったようで、クレーベルトはノーチェの頭を撫でながら、「それは悪いことをした」と小さく言う。
 白い髪を指に絡めて、何をしたら許してもらえるだろう、なんて考えて。巻き付いている腕に片手を載せた。

「…………ねぇの……」

 ――何か。ノーチェが小さく呟いた。あまりにもか細くて、弱々しい声色に、クレーベルトが瞬きを繰り返す。
 自信を失ったような、拗ねたような。そんな声色に、男は眉を顰めながら「もう一度」と言う。

「…………俺が、お前に本気なの、分かってもらえねぇの……」

 ほんの少し悔しそうに。それでいて落ち込んだ様子で呟かれた。その姿で彼が一体何に対して拗ねているのか、クレーベルトは漸く分かったようで「ああ……」と小さく口を洩らす。

 何気なく呟いたのだ。「好きな女ができたらそっちにいけばいい」なんて。
 ノーチェは元々女で性欲を満たす人間だ。恐らく恋愛も元は女が対象だった筈なのだ。現在は何故かクレーベルトに想いを寄せている、という状況で、男はそれを未だに信じきっていない。
 ――と言うよりも、単にノーチェが後悔しない道を用意し続けているだけなのだ。
 人間誰しも間違いはある。生きていく上で正解を選び続けられるなど、叶う筈もない。クレーベルトにとってそれが現在のノーチェということであって、間違いを正してやろうという気遣いを用意している。
 男を好きになるなど可笑しな話だ。今からでも遅くはない――なんて、思えるように。

 ――そう呟くことはや数回。最早聞き慣れたと言ってもいいであろうノーチェは、聞く度に顰めっ面をして拗ねる。普段ならここまで引き摺るようにも見えなかったのだが、何度も言われ続けるとなると、自信もなくなるのだろう。
 好いている相手が実は自分のことを好いていない。
 そんな不安が押し寄せた結果、彼はクレーベルトの寝具を独占して、布団をかぶって丸くなっていたのかもしれない。
 ノーチェは泣くような人間ではない。男の首元に顔を埋めたまま微動だにしないが、涙を流しているような素振りは一向にない。
 ――しかし、男の手に何の反応も示さなければ、男を離すつもりのない腕は健在だ。

 そんな彼を、クレーベルトは確かに愛してしまっている。人懐っこいようで、悪人のような笑みも、好戦的な性格も。初めて自分に愛を返してくれた唯一の人間として、誰よりも愛してしまっている自覚がある。
 ――だが、時々それが本当に正しいのか、分からなくなるのだ。
 クレーベルトが知っている限り、ノーチェはしょっちゅう女遊びをしている筈だ。二十歳という若さも相まって、三大欲求――特に性に関しては、人一倍求めるものがある。それを後腐れのない女との関わりで発散しているのだから、つい考えてしまうのだ。

 こいつに相応しいのは自分ではないと。

 それも、この様子を見るに間違いだったのだろうか。
 ノーチェの頭に手を置いたまま男は天井を見る。見慣れたそれには何の変化もないのだが、考え事をするときは大抵頭上を見上げてしまうのだ。
 時折天井の四隅を何気なく見つめたり、窓から見える青い空をぼんやりと眺めたり。そうこうしている間に、ふと考えがまとまることが多い。
 例えば今。ノーチェが返答を待っていると知りながら、天井を仰ぐクレーベルトは彼をそう信頼していないのだと、気が付いてしまった。

「…………そうだな……あまり、信じていない」

 静かにクレーベルトが言葉を洩らすと、抱き留める手に僅かな動きを感じる。脇腹を包む手のひらがほんの少し離れたと思う。一瞬だけ首元を掠める呼吸が止まったような気がして、小さな動揺を覚えたのだと男は理解した。

 ノーチェにとってクレーベルトに信用されていないということは、それなりに傷付く事実である。息が詰まるような感覚に加えて、胸の奥に針を刺すような痛みを覚えた。
 好いている相手に信用されていないという事実が、どの程度傷を負わせてくるかなど、男は知る由もない。
 ――だが、そう思われる理由は確かに解っている。
 彼は女で性欲を満たすことが専らだから。いくらクレーベルトのことが好きだと言っても、若さゆえの性欲の全てを相手にぶつけるわけにもいかない。そして、クレーベルト以外の男に劣情を抱くこともない。
 身に余る性欲を女で適度に発散させて、クレーベルトに無理をさせないことが彼の基本だ。
 それが、この関係にとっていいものではないということは、ノーチェも気が付いている。
 だからいくら「好きだ」と伝えても、それらしい露骨な関係は築けないのだ。

 落胆と、悲しみ。負の感情が、ゆっくりと男の体を這う。

 眠気による思考の低下。包み隠さず伝えたことで、ノーチェを傷付けたという自覚をした。体を抱き留める腕に少し力が抜ける。
 ああ、やっと動ける――。
 クレーベルトは体を起こしてから再びノーチェへと向き直ると、彼は項垂れたままゆっくりと男の胸元へ倒れた。
 とん、とノーチェの頭がクレーベルトの体へぶつかる。
 ――しかし、彼は顔を上げることもなく、腕を下ろしたまま。あまり良くない状態であることは明白で、男は下手に声を掛けることはなかった。

 ――ノーチェは泣くことはあるのだろうか。

 ぐるぐると胸に募る不快感を他所に、クレーベルトは恐る恐る「ノーチェ」と呼ぶ。
 外は暗く、夜も既に更けている。恐らく日を跨いでしまったであろう時間帯の部屋に、クレーベルトの低い声が僅かに響く。闇に溶け込みそうなそれは、聞き続けていれば眠れそうなほど大人しくて。
 彼は返事をすることはなかったが、漸く動いた手が、男の服を掴む。掴んで、ぐっと握り締めていて――少しだけ震えているようだった。
 少なくとも悲しいとは思っているのだろう。
 クレーベルトは項垂れたままのノーチェの頭を撫でる。すると、ノーチェは蚊の鳴くような声で、ごめん、と呟いた。

「……何を謝ることがある? それがお前が今までしてきたことだろう」

 くしゃくしゃと白い髪を乱してやるものの、彼はろくに頭も上げない。ただ、泣きそうな声色で「そうだけど、」と言う。

「それでも、俺……ベルのこと、好きで……」

 それを信じてほしい、など、紡げる筈もないまま彼は口を閉ざした。
 言葉を続けるつもりはないが、服を離すほど諦めきれないノーチェに、クレーベルトが撫でる手を止める。

 愛が重い。重くて、息苦しくて、少しずつ「なくてはならないもの」に変わっていく。
 甘いものを食べていなければ落ち着かなかった体が、ノーチェから与えられる愛情だけで満足してしまう。
 好きだと言われる度に蕩けるような甘さが。頭の先から足の先まで、彼の色に染まるような。
 それを時折突き放そうとしてしまうのは、いずれノーチェが自分以外を愛してしまったとき、傷付くのを恐れているからだ。

「なあ、ノーチェ。お前のそれは……いつか俺以外に向けられるんじゃないか……?」
「――そんなわけねぇだろ……!」

 ほんの少し小さく呟かれた言葉に、ノーチェが勢いよく顔を上げる。
 今にも泣き出しそうな顔がクレーベルトを見た。
 怒りというよりは、ただ信じてもらえないことに対する悲しみと、後悔が折り混ざったような表情をしている。もう少し追い討ちを掛けてしまえば、泣いてしまうのではないかと思うほど、酷い顔だ。
 それを可愛らしいと思うクレーベルトも、存外彼を愛してしまっているのだろう。
 今にも泣き出しそうなノーチェの頭を、男は再び撫でてやる。ここまで真剣な表情をされるのは珍しく、「分かってる」なんて言って宥めてしまうほど。
 人よりも遥かに冷たい手がぽんぽんと頭を撫でて、元のあるべき位置へと戻る。
 ノーチェの感情を今更否定する気はないが、いつか自分を振ってしまうときのために用意した逃げ道だ。それを撤回しようとは思わないが――、如何せん、心地いいと思う自分がいるのは確かだった。

 ――恐らくこれが、幸せというやつだ。

 ほんの少し口角を上げて、クレーベルトが微笑む。
 その表情にノーチェが面食らっていると、「じゃあこうしよう」と男が言う。

「一年……どんな形でもいい……一年間ずっと、絶えず、俺がノーチェに愛されていると、証明をしてくれ」
「……証明?」
「……難しいことじゃない。ただ……お前が俺を愛していると、俺が解るように示してほしい。そうしたらもう二度と、ノーチェを手放すような言葉は言わない。――信用しよう」

 自分自身が「幸せ」を感じてしまえば、良くないことが起こるのは分かっていた。だから、いつの日か彼に捨てられたとき、自分が傷付かないようにと懸命に逃げていただけに過ぎない。
 それももうやめようと、男は誓う。
 クレーベルトの提案を聞いたとき、沈んでいたノーチェの表情が明るくなったのを男は見た。「本当か」と恐る恐る訊ねてくるものの、滲み出る喜びが隠しきれない。
 「ああ、本当だとも」そう返してやれば、彼の表情がよりいっそう綻ぶ。

「一年…………ははっ、俺がどれだけお前のことを愛してるのか、ちゃんと分かってくれよな」

 軽く笑って、ノーチェはクレーベルトを抱き寄せると、倒れるように寝具へと寝転んだ。彼なりに満足したのだろう。腕の中でも漸く眠れると、男はゆっくりと目を閉じる。
 明日からの言動がどう変わるのか、楽しみに思いながら意識を手放していった。

 ――露骨に言動が変わってしまったのはノーチェではなく、クレーベルトであると知るのは、一年経ってからのことである。


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