貧血に対策
血液魔法――自分自身の血液に魔力を流すことによって、扱える魔法について、懸念すべき点があることに、男は頭を悩ませていた。
心地のいい風が肌を撫でる昼時に、執務室の扉を開けた男は溜め息をひとつ。はあ、とあからさまに吐いてみせて、赤黒い絨毯を踏みながら、二人掛けのソファーへと向かう。
その足で抱えている大きな荷物をソファーへと投げ付けると、「うっ」と鈍い声が溢れた。
酷く――酷く顔色の悪いノーチェが、投げ出されたソファーに寝転んだまま、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。熱いのか分からないが、色の悪い頬から汗が滲んでいることをクレーベルトは見ていた。
ところどころ傷付いた肌から見える赤い血液に、無意識に喉を鳴らすのを抑えて、男はコートを脱ぐ。徹底的に露出を抑えた服から白いシャツと、黒地に白いラインのあるベストが現れた。その後、首元にあしらわれたネックウォーマーのようなものを取ると、漸く素肌が露わになった。
その肌は白く、まるで女のようだと揶揄されても可笑しくないほど、焼けてもいない綺麗な肌だ。
流石日の光を避け続けているだけある。
敢えて露出するために脱いでいるわけではないが、いくらかラフな格好をしたあと、男は再び溜め息を洩らした。
血液魔法を扱う人間に対する制約を設けるべきだろうか。
――そんな考えが男の脳裏によぎる。座り心地のいい椅子にコートを掛けながら、ちらりと横目でソファーを見た。視線の先には、相変わらず気分が悪そうに仰向けに寝転がるノーチェが懸命に呼吸を繰り返している。
彼が苦しそうに呻いているのは、紛れもなく与えられた「血液魔法」そのものが原因だ。
血液魔法はその名の通り、血液を媒介に様々な武器を造り上げることのできる魔法だ。他者の血液を扱うことは不可能である他、自分自身の血液の量によって強さが変わることがある。
武器を造るために必要な血液は、その武器に見合った量になる。最小限に抑えたければ、弾丸を模した小さな玉を造ることで可能になるだろう。
一度外に出ていった血液が体内に戻るなど有り得る筈もなく、その間はただ出血をしている、というのが一番の懸念点だろうか。
――そんな魔法を所持しているノーチェは、酷く好戦的な性格をしているのだ。自分より弱いと判断すれば、戦いを挑むことはないのは明白。厄介なのは、自分より強いと思った存在に対しての彼の行動である。
好戦的、ともなれば自ずと戦いに身を投じることも多く、魔法を何度も駆使することがあるだろう。いち早く血液魔法自体に慣れるためか、それとも使い勝手がいいからなのかは判断できない。
ただ――、ノーチェがやたらと自分を傷付けて血液魔法を多用しているのとは明らかだった。
クレーベルトはボスとして、彼に何らかの制約を課しているわけではない。自分の魔法をどのように扱うかなど、ノーチェ自身が決めることであって、自分が口を出すことではないと思っている。
だが、それも一定の限度を超えるとなると、話は別だ。
男は執務室の窓に近付いて外を一瞥してから、カーテンを閉める。カーテンレールが走る軽い音。日の光を遮ったことでほんのりと暗くなる部屋の中。少しずつ落ち着いてきた呼吸音に、クレーベルトは足を進める。
彼は今、魔法を多用しすぎて貧血の傾向にある。著しい体温の低下に、視界の不良。頭に向かうべき血液が足に留まっている所為で、まともに体を動かすこともままならない。
そんなノーチェのための血液供給者である筈の人物も、今はこの場にいないのだ。さて、どうしたものか、と男の独り言が部屋に溢れ落ちる。
ソファーに投げ捨てたノーチェへと近付いて、本で得た知識の通りに、足を高く上げさせるために膝掛けへと足を載せてやる。これで足元にある血液が、少しでも頭へと向かうことだろう。
かろうじて傷口の出血を抑えるための力は残っているようで、ソファーには一点の汚れも存在しなかったのは、褒めるべきところだった。
「――……わり……俺……」
足を膝掛けに載せてやった直後、意識朦朧としていた筈のノーチェが徐に口を開いた。開きたくもない瞼を押し上げて、ゆっくりと自分の上司を見る。
普段なら黒一色に色付いている筈の強膜が、目頭のみ僅かに白く晴れているのを見て、クレーベルトが少し眉を顰めた。
ノーチェの貧血の状態を、男は教えてもらっている。反転して黒に染まる強膜が、目頭から徐々に白くなっているかどうかで、彼の容態は変わるのだ。
ほんの少しの出血程度ならば白くならない強膜が、脱色しているのだから、余程の事なのだろう。一体何をやらかしてそこまでの血液を失ったのかを、クレーベルトは報告を受けていない。ただ倒れてしまったそれを脇に抱えて、持ち帰っただけに過ぎないのだ。
生憎彼の部屋を知っているわけでもないクレーベルトは、彼を自分の仕事部屋に運び入れるしか他なかった。道中で彼の知り合いに会えればと思ったのだが、何の悪戯か――その知り合いに会うことは叶わなかった。
結局男は、頭を悩ませたままノーチェの容態を見守るしかできないのだ。
「気にするな――と言いたいところだが、こればかりは気にしてもらおう。お前は加減を知らなすぎる」
労いと、身を案ずる言葉を掛けてやるつもりが、自ずと責め立てる言葉へと変わった。
自分がへまをしたことを重々承知している所為か、ノーチェから反論されることはない。寧ろ軽く笑って「そうだな……」なんて小さく呟くものだから、余程堪えているのだろう。
ぼんやりと向けられているノーチェの瞳に、活発的な意思は見られない。いくら欠点を述べたところで、クレーベルトに反抗する気力も今は残されていないのだろう。
――やはり、今一度思い直すのも手だろうか。
そう思いながら男はノーチェの前に屈み込み、腕に刻まれた傷の様子を窺う。
自分も血肉を求める獣の一人だとしても、弱り果てた部下を手に掛けるほど理性は捨ててはいない。手当てを施してやろうかと考えて、傷の度合いを見ては頭を捻る。
包帯と、消毒液。ガーゼと脱脂綿。小さな傷には絆創膏が必要だと吟味して、微かに瞼を下ろす。伏し目がちの瞳が更に細められて、睫毛が存在を主張していた。
手当ては恐らくできる筈だ。本で得た知識程度しかないが、感覚で手当てを施せることもできるだろう。
――そう考えをまとめて、男は再びノーチェの顔を見た。依然として顔色は悪く、言葉を発することはないが、その目だけは何故だか必要以上にクレーベルトの顔を見つめている。どこか眠たげで、気力も湧かないような瞳だ。
――いや、正確には露わになったクレーベルトの首筋に目を向けているのだろう。
何気なく男が自分の首に手を添えれば、ノーチェは小さく喉を鳴らす。ぐっと生唾を飲み込み、衝動を抑えようとする意識が汲み取れる。
自分が手を出してもいい人物ではない――なんて言いたげな我慢強さに、クレーベルトはふと唇を開いた。
ほんの少し洩れた吐息。ふっくらと膨らんだ唇から、言葉が紡がれる。
「俺でいいなら分けてやろうか」
確かお前は、拒まれなかった筈だから。
そこまで呟いて、彼の反応を窺う。
軽く見たノーチェは、僅かに目を見開いて驚きの色を湛えていた。まるで「そんなことを言われるとは思わなかった」と言いたげな表情だ。驚きと、動揺が全面的に出てきてしまって、口をついて出た言葉が「……え……?」といった間抜けな声だった。
もちろん選ぶ権利がお前にはある。そう言って横たわるノーチェの頭を撫でて、男は小さく微笑んだ。
普段は己の立場を示すために表情で飾ることはないのだが、身内の――それも自分と近しい立場の人物には表情を崩すことがある。
上司、あるいは父親のような笑みは、クレーベルトが「ボスである」という事実を覆すのに十分だった。
態度が悪かろうが、口が悪かろうが、男は身内を責め立てるつもりはない。寧ろ自然体で来られることに親しみさえも抱いているほどだ。
クレーベルトにとって身内とは仲間であり、子でもある。――そんな考えを肯定させるほど、男は親しみやすかった。
特に控えめに微笑む程度の笑みは、時折寂しさを覚えさせてくるものだから、本当にボスでいていいのかを疑問視させてきていた。
そんな微笑みが、今ノーチェの前に現れている。哀愁は感じられない。言葉の通りに男に手を掛けたとしても、ノーチェは咎められもしないだろう。
――しかし、彼が反応に戸惑っていると、クレーベルトはゆっくりと手を下ろしてしまう。「冗談だ」そう言って再び彼の頭を撫でて、ぽんぽんと軽く叩く。
まるであやされるような行動に呆気に取られたが――それ以上に思うところが、彼にはあった。
余計なお世話だったかな、とクレーベルトが立ち上がろうとした瞬間――男の視界が反転する。それほど高くもない小振りのテーブルに背中を打ち付け、うっ、と声を洩らすと同時に痛みを覚えた。
鈍い音と重くのし掛かる体重に、乱暴に掴まれた襟が力任せに開かれる。ブツ、と何かが切れるような音がして――男は小さく眉を顰めた。
ボタンを留めていた糸が切れた。――そう気が付くや否や、この後の予定に修繕を入れないと、と思考が働く。魔物の調子を確かめて、書類を片して、主人の相手をして。手掛ける頃には夜も更けているだろうか、と溜め息を吐いた。
首元に微かに吐息がかかる。普段から露出を避けている分、その熱でさえもくすぐったくて、クレーベルトは小さく身動ぎをした。抵抗ではないが、どうにも迷っているような彼は、男を押し倒してからの行動に出られずにいる。
無造作に開かれた首元に白い歯を突き立てて、血を啜ろうという衝動が彼を突き動かした。
――しかし、相手が自分の上司であることを懸念して、歯を立てられない。
理性と衝動の間で葛藤している様が、あまりにも人間じみていて――堪らなく愛しく思えた。
「ボス……」
――と呟いてくるノーチェの意図を、クレーベルトは汲み取れない。何に対して遠慮をしているのか、どういった意味で次の行程に進めないのか、男には分からなかった。
以前は寝込みを襲ったくせに。
――なんて言葉を呑み込んで、クレーベルトはノーチェの呟きに「何だ」と応える。
すると、彼は震えるような声色で「ベル」と呼んだ。
数少ない男の愛称に、クレーベルトが小さく笑う。名前で呼ぶ間は誰も彼も自分を「ボス」として見ているわけではない。かろうじて形を保った一個体を「人間」として見ようとするノーチェに、クレーベルトは手を添えてやる。
「おいで」
――そう呟いた言葉にはボスの威厳などどこにもなかった。
男の言葉を切っ掛けに白い肌に歯を突き立て、皮膚を突き破る。一時的に襲ってくる鋭い痛みに男は呻く。傍らで喉を鳴らすノーチェに肩を掴まれている所為か、首の痛みよりも肩の痛みが酷く気になってしまった。
自分よりも遥かに強い力に、体の安否が不安になる。
ノーチェは物理に特化した種族の人間だ。クレーベルトには何かひとつが特化しているわけではなく、彼のような一族を他にも知っているわけではないが――時折見掛ける力の振るい方に、不安になることがある。
例えばノーチェが反抗したときに、片腕を折ってきたらどうしようか――なんて。
ある筈のない妄想を働かせて、あまりにも人間じみた思考に溜め息さえ洩れる。人間と関わることで思考までも人間に近くなるなど、あまりにも「自分らしくない」の一言に尽きた。
首が痛いだとか、肩が痛いだとか、そんな考えも混ざる中、これからノーチェに対する制約をどう設けようかと考える。彼の性格は、戦闘力は悪くはない。ただ、加減を知らないだけで、自制さえ利けば血液魔法を十分に扱いきれるだろう。
ただし、彼が素直に言うことを聞いてくれるものだとは思えない。今日のように用事があって探したのに、道端で倒れられては困るのだが――真面目に話を聞いてくれるだろうか。
ぐるぐると頭を巡る数々の考え。これからの予定を終わらせるには、少し無理をしなければならないかと考えながら、クレーベルトはノーチェの頭を軽く撫でる。
――暫くしたら体に異常がないかを確認しないと。
そう思いながら、肩が痛いと小さく呟きを洩らした。
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