主従の日



 時折どうしようもなく恋しく思ってしまうときがある。
 意図しない高圧的な態度。獲物を逃がさない鋭い眼光。警戒するように低く紡がれる言の葉。自分の立場をはっきりと示すような立ち振舞い――。
 どれをとっても彼にはそれが、男の存在を証明するための大事な要素だと、思ってしまうのだ。

 春の日差しが舞い込む昼の刻。桃色に色付いた花がはらはらと街に降り注ぐ。一見平和に見えるそれも、裏を捲れば本質が見えるというもの。この街の外や、他の場所では争いが起こることもあるのだろう。
 さく、と若草を踏み締める足音が鳴る。漸く森を抜けたノーチェは眠たげに欠伸を溢して、白い髪を掻く。黒く色付いた強膜の上に浮かぶ夜空の瞳が軽く瞬いて、ちらりと自分の隣を見上げた。
 目線の先には、冬よりも日差しを強めた太陽が燦々と降り注ぐ。時折白い雲が光を遮ってくるが、風が強い所為か、雲の流れも早い。天気が荒れることはないだろうが、少し居心地が悪く思えるだろうか――。
 ――なんてことを考えながら「着いたぞ」なんて呟けば、何もない場所から、風が巻き上がる。くるくると何かを中心に巻き上がっているようなそれは、次第に黒く移り変わり、影のように存在を増していく。
 そうしていくうちに、端から少しずつ、四肢が顔を出した。

「――ん、ご苦労様」

 無愛想に低く紡がれた言葉。笑みも溢さない、無表情に飾られた小綺麗な顔。女を彷彿とさせてくる長い睫毛に軽く隠れる瞳は、まるで血のように赤く――いや、ほんのり赤紫に染まっている。
 そんな男が、まるで虚空から現れたかのように、そっと大地に足を着けた。

「んー……ベル、まだ向こうはキツいのか?」

 ほんの少し、気怠そうに首を鳴らした男に、彼――ノーチェが問い掛ける。心なしか不機嫌そうに歪められた表情に、ベルと呼ばれた男は瞬きをひとつ。伏し目がちの目を軽く下に向けて、彼を見た。
 夜の瞳が不機嫌そうなのは、強ち見間違いでもないのだろう。ふて腐れたように尖らせた唇から、「実家に顔出せねぇな……」と言葉が紡がれる。

 何かと生家に顔を出したがる理由が、あくまでクレーベルトの紹介であることを露知らず。男は「家族思いなんだな」なんて、心中で言葉を洩らした。自分には決して向けられることのない感情に、ほんのり嫉妬すら覚えることがある。

 ――そんな感情を押し退けて、クレーベルトは首を横に振ってから「まあな」と問い掛けに返事をした。

 いくらある程度外に慣れたと言っても、街の外まではどうにも体が保たない。まるで陽炎のような不確定な存在は、あまり日の下にいすぎると不調を来すことがある。
 目眩、立ち眩み、吐き気――など比較的軽い症状から、失神や目が覚めないなど、重い症状に苛まれてしまう。
 そんな不便な体を持っている所為か、男はノーチェの行く先々にまともについて歩くこともできない。ただ、人間ではないという点を活かして、影に潜むことは可能だった。

 クレーベルトは「人間」と称するよりも、お伽噺にでも出てくる「聖霊」などの一種に最も近いのかもしれない。

 あくまで男を「人間」として扱っているノーチェとしては、あまりにも気に食わない事実なのだが――現状、対処法も分からないのだから、手の出しようもない。いつか、クレーベルトの体が外に慣れることを、祈るしかないのだ。

 む、と唇を尖らせたまま、ノーチェはクレーベルトを見上げた。数十センチ高い顔を見上げた先には、燦々と照る太陽がこれでもかと男を照らしている。
 何食わぬ顔で、コートのフードを目深にかぶっているものだから、彼の胸の奥に蟠りが募る。

 ――こいつとはやっぱり、違う人種なのだと。

 ――その顔が、酷くふて腐れているように見えて、クレーベルトは遂に唇をへの字に曲げた。柔らかな膨らみを持つ唇が、可愛らしく歪む。
 まただ。また、彼は自分の知らないところで頭を悩ませている。何を考えているのか、何に悩んでいるのか、クレーベルトには知る由もない。ノーチェは打ち明ける素振りを見せてはくれない。
 彼にとって自分は頼りない存在に成り下がったのだろうか。何度も頭を掠める不安に、男の表情が少し歪む。太陽の光なんて比べ物にならない。ノーチェが何も打ち明けてくれないことが、何よりも苦しかった。
 その事実をひた隠すように、男は徐に手を伸ばす。自分とは違う癖のある白髪に、手袋を着けたままの指を絡ませて、頭を撫でる。柔らかく、黒地に映えるそれに、愛しささえ覚える。

「何をふて腐れているんだ」

 試しにそう呟けば、ノーチェの目が軽く泳いだ。
 ふて腐れてるわけじゃねぇよ。そう言って撫でる手を取り、その手をじっと見つめる。
 何か汚れがついているわけではない。不具合があるわけでも、異常があるわけでもない。ただ、ほんの少し懐かしく思ってしまう気持ちが、ノーチェの胸を掠める。

 今では遠い記憶。クレーベルトが、対等に接してこれるわけでもない頃の記憶。己の立場を相手に見せ付けるような振る舞いと、それに見合った力を持って、ノーチェと対面した頃の話。
 あの頃から撫でる手は、表情は何ひとつ変わることはない。今でも時折撫でてくることがあるが、覚えているものと何ら変わりのないことに、彼は懐かしさを覚えてしまう。
 あの頃はまだ少し、自制が利いたような気がする――と心中で呟いたのは言うまでもない。

 取った手を軽く握って、ノーチェはクレーベルトを見上げる。その目付きは柔らかく、ボスのような威厳はとうに失っている。それが環境の所為なのか、ノーチェ自身の所為なのかはまるで分からない。
 けれど、はっきりと言える。
 ――彼は、どちらのクレーベルトも、好きで仕方がないのだと。

◇◆◇

 懐かしい香りがした。何か食べ物や、香水が撒かれているわけではないが、感覚的に懐かしい香りをその部屋で感じたのだ。
 今日一日だけでいい、俺だけのボスになってくれ――と彼の言葉がクレーベルトの頭の中で反芻する。酷く真剣そうにこちらを見上げるものだから、断る言葉など紡げる筈もない。
 彼の言う「ボス」は、簡単に言えばノーチェの上司にあたる存在になる。命令を下し、報告を待ち、失敗があればほんの少しの文句を溢して尻拭いをする――そんな存在だ。
 時折彼に対しても高圧的な態度を取ることがあった他に、恋愛感情を抜きにするのが今との決定的な違いだろうか。もうひとつ挙げるのならば、慕う対象が全く異なっていた、という点もある。
 クレーベルトが命を捧げるべき対象を、彼は変えろと言っているようなものだった。
 ――もちろん、本当に命を懸けるべき対象を変えろと言っているわけではないのは明白だ。時折思い出す小さな存在を打ち明けると、ノーチェは決まって不機嫌そうに眉を顰める節がある。
 俺がいるのにまだそいつのこと考えるのかよ――なんて言いたげな瞳を、男は何度可愛らしいと思ったことだろうか。
 ――そう告げれば、更にふて腐れるのも目に見えている。故にそれらを打ち明けたことはないが、それでも自分の上司でいてほしいと願うのだ。

「まあ、別に無理強いはしねぇけど」

 二人で住むにはあまりにも大きな家の扉を開き、エントランスで靴を脱ぐ。トン、と石を軽く叩くような音。二足の靴を並べて、自室へと向かう足取りはほんのりと軽く。フード付きのマントが動きに倣ってなびく。
 くるりと振り返れば、フードを外しながら思案を繰り返しているであろうクレーベルトと目が合った。赤の中にほんの少し紫が混ざったような、躑躅色に近い瞳を見て、ノーチェは「好きなんだよ」と笑う。

「俺にとってボスも、ベルも、同じだから」

 なんて当たり前のことを呟いて、何気なく部屋の椅子を引いた。ノーチェ自身がその椅子に座るような兆しはない。ただ椅子を引いて、クレーベルトの顔を見つめるだけだった。
 何をすべきかなんて、言葉にしなくても手に取るように分かる。
 あくまでノーチェは、ボスとしてのクレーベルトと今一度接したいと考えているのだ。初めて顔を合わせたときが丁度上下関係ができていた所為か、それとも、今の態度が気に食わないのか。――生憎男には理由は分からないのだが、ほんの少し思うところがあるのもまた事実。
 座ってくれと言わんばかりに用意された椅子に、軽く視線を向けてから、クレーベルトは目を閉じる。

 最近の自分は甘くなった。自分が立場を忘れて過ごせているからだろう。こんなことが許されるとは思っていないが、どうにも癖になる味をやめられそうにない。
 これではいつか、ノーチェに嫌われかねない――。

 ほう、と吐息を吐いて、男は足を踏み出す。赤黒い絨毯に足を滑らせてから、引かれた椅子に腰を下ろして深く息を吸った。肘掛けに手を置いてから流れるように頬に杖を突き、足元を眺めていた目を徐に上げる。
 足を組んで、強者のような雰囲気をまとえば、自ずとノーチェが男の眼前へと躍り出た。その表情は真剣でありながらも、どこか喜びを湛えている。

「やっぱりボスはこうだよなぁ」

 ――なんて独り言を呟いて、恭しく腰を折る。白い髪が流れ落ち、姿勢を戻す頃には流れた髪も元の位置に戻る。白髪に映える紫の髪紐が少しだけ気になったが、クレーベルトはすぐに視線を戻した。
 満足げな表情。本人は気が付いているのかも分からないが、軽く弧を描く口許に、男さえも僅かに笑みを浮かべる。
 犬のように随分と可愛らしい男だと、思ってしまったのだ。

「――それで、俺に何を求める?」

 しん、と静まり返った部屋の中に、男の声が響く。まるで冬の静けさの中で聞こえるような声色に、ノーチェは問う。「何を求めてもいいんだ」と。
 その問いに、男が返す言葉は決まっているのだ。

「好きなだけ求めるがいい。この命、主に捧げた身。欲しいなら欲しいだけ欲しがれ。俺の全ては貴方の御心のために」

 ――これが、上司、或いはボスの言葉として正しいのか、彼にはよく分からない。ただ、何にも替えがたい優越感が身に染み渡るのはよく分かる。
 自分はあくまで二の次で、別のものを最優先していたあの頃が酷く懐かしかった。
 ノーチェは大それた何かを要求するわけでもなく、

「俺だけのボスでいてくれ」

 ――とだけ、クレーベルトに呟いたのだった。


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