逆吸血



 クレーベルトの吸血行為は、ノーチェのそれとは異なった意味を含んでいることが多い。男の正体は一頭の黒い獣だ。食欲に理性が押し負けて、単純に血肉を求めることもある。
 そんな中で彼が久しぶりに直面した男の瞳は、ただ一直線に首元へと視線が向けられている印象を受けた。

 見慣れた天涯付きの寝具。上物を使っていると思わせてくる柔らかな布団。頭を包み込むような低反発の枕に、真っ白に染められたシーツがよく目立つ。
 ――そんな寝具の上に押し倒された形で寝そべるノーチェは、ただぼんやりと首元を見つめ続けるクレーベルトの顔を見た。
 真昼の空のように澄んだ青い瞳。一点の曇りもないその瞳は、ノーチェの首元だけを一心不乱に見つめている。未だに理性が起きているのか、動物のようにかじりつく衝動には駆られていない。ただじっと、露出した齧り甲斐のありそうな首を見て、漸く瞬きをする。
 以前男が教えてくれたその『暴食の証』は、彼に対して選択肢を狭めることになった。
 押し倒されたノーチェに跨がるクレーベルトの体は、一部が欠けている。黒いブイネックの袖に収まっている筈の右腕がなく、黒い生地がゆらゆらと風に揺れるように僅かに揺れる。元々あったそれは、吹き飛ばされた拍子に跡形もなく消えてしまって、今では魔法で補う状態だ。
 そんな補いすらもまともにできていない男の体に、ノーチェは人知れず小さな舌打ちを溢した。

 ――またギリギリまで魔力を磨り減らしやがって。

 たった一言。言葉にしてやろうかと思った悪態を喉の奥へと押し戻し、ノーチェはクレーベルトの頬に向かって手を伸ばす。
 ――しかし、それを見た男の瞳が小さく揺らめき、避けるような素振りを見せた。
 それを拒絶と認識して、心中で傷を負いながらも「しゃーねーなぁ」と彼は呟き、横たわりながら首元に掛かる髪を払った。

「――……」

 途端にクレーベルトの目の色が変わる。
 ――目の色が変わる、といっても単なる比喩表現であって、実際には男の瞳は青いまま。言うなれば静かだった青にほんの少し、獣の片鱗を見た。
 ぎっ、と寝具が僅かに軋む。幸い今は人が訪れるような時間帯ではなく、窓辺の空には星が瞬く夜が広がっている。そこに月の面影は――ない。月明かりの代わりにあるのはテーブルランプのみで、その明かりすらも点けず、ノーチェはクレーベルトと対面していたのだ。
 特別不自由はない。夜目が利く二人には、夜に明かりなど星の瞬き程度で事足りる。夜では騒音はなく、聞こえるのは虫達の鳴き声は梟の囀りのみ。お互い求めるには丁度いい時間に、クレーベルトはそうっと、顔をノーチェの首元に寄せる――。

「――あ、タンマ」
「……!」

 近付いてきたクレーベルトの肩を掴み、引き離すとクレーベルトがやたらと不服そうに眉を顰める。その様子が妙に人間染みているような気がして、ノーチェはくっと笑みを浮かべたあと、自分の左側の髪を払う。
 その髪は非対称の、胸元まで伸びた癖のある白い髪だった。
 髪の下にある首には動脈が通っている。その首元を晒すということは、相手に急所を晒すものと同義であり、命を脅かす行動とも取れる。
 ――しかしそれを容易く行うノーチェの瞳に、畏怖の念は見られなかった。

「噛むんならこっち」

 そう言って彼はクレーベルトの後頭部に手を伸ばして、男の顔をぐっと首元に近付けてやる。露出した首筋には傷なんてものはなく、ほんの少し日に焼けたような健康的な肌が男の視界に映る。
 近付いた首筋に、クレーベルトが堪らず生唾を飲み込み、喉を掻き鳴らした音が聞こえたような気がした。
 ノーチェが差し出した首筋を、クレーベルトの唇が静かに当てられる。ふっくらと柔らかな触感のある唇が、首筋に当たって、呼気が彼の肌を撫でる。ほんの少しくすぐったく思えるそれに、ノーチェは少なからずゆっくりと笑みを溢した。
 何せ彼は、クレーベルトに付ける傷跡と同じ箇所に傷跡を残そうとしているのだ。

 深く歯を突き立てて差し込み、溢れた血液を喉の奥へ流し込む。鼻の奥をつんと差すような鉄の香りを口一杯に含んで、自分の中へ相手の一部を流すこの行為を、彼はクレーベルトにも行っている。
 意図的か、無意識からか、歯を突き立てる箇所は決まって動脈に近い左側の首筋だった。

 ――それを彼は同じように自分にも残そうという魂胆。傷跡さえ残ればお揃いになることを考えて、ノーチェは首を差し出す。ほんの些細なことでも構わない。自分と男に共通する何かを体に刻み込み、周りに示すのが彼の目的だった。
 クレーベルトの体はノーチェに寄り掛かり、体重の殆どを預ける形になっている。それもその筈――男の片腕は造形魔法によって産み出されたもの。魔力が底を尽きて、一刻も早く魔力を蓄えようと暴食の意志が芽生えている分、クレーベルトの片腕は存在しないのだ。
 そんな男を抱き抱えてノーチェは今か今かとそのときを待つ。白い歯がゆっくりと肌に突き立てられ、ひと思いに皮膚を突き破った感覚は、僅かに顔を見せていた眠気を掻き消すには十分なものだった。

「――ッ」

 ちくり、なんてものではない。根本の奥深くまで突き刺さるような異物感と、びりびりと電気が走るような痛みにノーチェは思わず顔を歪める。容赦のない吸血行為に微かに笑みを浮かべて、首元にある頭をゆっくりと撫でる。
 滑らかな黒髪が手のひらを滑り、指の間にぱらぱらと髪が垂れる。ほんのり赤が混ざるそれに愛しさを織り混ぜながら、彼は喉を鳴らす音を聞いていた。
 片腕がない男の体を支えながら、ノーチェは体から抜き取られていく喪失感を得る。――同時に男の体内へ自分の一部が流し込まれるのを感じて、止めどない優越感が胸の奥から沸々と沸き上がる。
 ぐるぐると喉を鳴らしながら血を飲むクレーベルトを横目に、ノーチェは後頭部に添えた手に力を込める。

 ――これは、俺のもの。

 口許に現れる笑みを抑えることもなく、ゆったりと頭を撫でると――首元にあった違和感が抜け落ちる。思わず「お、」と言葉を洩らすと、生温かくざらりとした何かが肌を撫でる。
 擽るような感覚に彼が手指を僅かに動かしてしまう。――だが、それでも傷口を舐めることをやめない男に、「何だよ」とノーチェは言った。

「手当てでもしてくれてんの? 気にしなくてもいいんだけど」

 傷口から絶えず溢れる鮮血を拭うように、クレーベルトが舌で掬う。
 食欲が勝っている筈の現状で、ノーチェの身を案じていることがどれほど珍しいことか。男は唸るように「うー」と言葉を落として、ノーチェの首元に顔を埋める。
 傷跡が深く残りそうなそれに、ノーチェは満足そうに微笑んだ。


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