黒い汚れと幼い子



 迂闊だった。まさか人体に影響が出るなんて、思いもしなかったのだ。

 ――焦りを露わにし始めるノーチェの目の前にいるのは、異常を来たした一人の男。体の殆どが黒≠ノ侵食され、目元には涙の跡のように黒い血の跡が微かに残っている。顔には生気は無く、口数もなければ自ら動くことのない終焉がいる。
 服は赤い血液や、黒いシミなどがべっとりと付着していて、見てられないほどだ。
 こうなってしまった原因を、彼は十分に理解している。自分が他の人間よりも遥かに頑丈に、そして長生きできるよう、敢えて死を選んだことが原因だ。
 彼の一族は一度死を迎えることで、初めてニュクスの遣い≠ニして生を授かることができる。そうすれば寿命の概念も最早気にすることもなく、下手に傷を負わない限りは死ぬこともなくなるのだ。
 彼がそれを選んだのは、紛れもなく終焉と共に長い時間を過ごすためだ。

 男は自らを「化け物」と揶揄する程には人とかけ離れた体を持っている。ノーチェが終焉と出会ったのはもう数年にも前の話になるが、数年経った今でも、彼の記憶の底にある終焉の元の姿でも、見た目が変わったような様子はない。年も取らず、見た目すらも変わらない綺麗なままだった。
 そんな男を彼は取り残さないよう、敢えてある種の延命を選んだ。次は置いていきはしない。捨てもしない。誰にも渡さず、手元に置いて、互いに満たされるまで愛するつもりなのだ。終焉の心にぽっかりと空いた穴を埋めるのは自分だけ。――そんな役割を背負うよう、死を選んだつもりだ。

 その結果が――この様だ。

 彼は終焉の、自分に対する感情を視野に入れ損ねていた。男は彼を「愛して」いて、ノーチェもそれを十分に理解しているつもりだった。
 それがどうだろう。一度だけ目の前で息を引き取ったノーチェに対して、終焉は酷い焦りを、動揺を見せた。いくつか負っていた傷から黒い血を滴らせ、倒れた彼の顔を見つめていた顔は驚きに塗れていた。開いている片目から落ちたのは涙ではなく、黒い液体であったのは、人を辞めようとした結果だろう。
 そうなるほど彼は愛されているとは思っていなかった。終焉はノーチェのことを知っているのだ。一度人間として死ねば、次に遣いとして息を吹き返すことくらい、知っている筈なのだ。
 それすらも忘れてしまうほど、男は動揺したのだろうか――。

 暗い顔をした終焉を見つめ、ノーチェは眉尻を下げる。こうなっているのは自分の責任だ、と確かに理解している。「ごめんな」――そう呟いて、頬に手を添えてやる。酷く冷たい肌がノーチェの手を刺すようだった。
 終焉の部屋に足を踏み入れたノーチェは、終焉自身に何かの変化が訪れるかどうかを見ていた。
 どうにも黒≠ノ侵食されている男は体が鉛のように重く感じられているようで、自分の力で動くことがない。彼が手を貸して漸く立ち上がり、歩けるようになるのだ。
 そして、どういうわけかいくつかの知性を失っているようだ。始めこそは口を開けば「うー」だの「あー」だの洩らしていたが、今では口を開くことがない。時折何かを話そうとする意志が感じられるが、紡いでいる言葉が何故か聞き取れない。
 それが終焉とノーチェの違いを指し示しているようで、彼は酷く嫌だった。

「な、痛いとこあるか?」

 意思の疎通は成立するのだろうか――。彼は何気なく終焉に問い掛けると、終焉はちらりと彼を見つめる。暗く赤い瞳の奥で男がノーチェの様子を窺っているようだ。――やがてその言葉に悪意がないと思うや否や、終焉は小さく首を横に振る。
 どこも痛くはない。そう言うような素振りに、彼はほっと胸を撫で下ろした。
 ああよかった。そう呟いて彼は終焉の頭を撫でる。相変わらずの艶やかな髪は撫でるだけで滑らかさが手に伝わり、触り心地がいい。この髪質ならば伸ばせだの、綺麗だの言われても当然だろう。
 唯一気にかけてしまうのは、伸ばす切っ掛けとなったのが自分ではない、ということだろうか――。
 ――何にせよ、ノーチェには終焉をどうにかする役割がある。現状を打破して、終焉を元の姿に戻さなければならない。そうしなければ終焉との普段の暮らしは送れないのだ。
 終焉曰く痛い箇所はどこにもない。つまり、傷の類いは負っていないか、既に完治したということだろう。例えば水に濡らしたとしても、もう問題はないのだ。

「じゃあ俺、風呂沸かしてくる」

 そう終焉に告げて彼は腰を上げた。
 理由はない。ただ何となく、ノーチェには妙な確信を抱いていた。――男にこびりついている黒≠フ侵食は、洗い流せる。体のどの部分が既に黒く染まっているのかは把握していないが、男の好きな風呂を沸かせば話は解決するだろう。
 そのあと――元に戻れば怒られるだろうから、目一杯許しを請わねば。
 多分相当怒るんだろうなあ、とノーチェは呟きを洩らす。ノーチェでさえ終焉が身を挺して庇うとするのなら、何故そんなことをするのだと終焉に言い寄るだろう。それが今回は自分であるという覚悟を持った上で、どうにかしようと試みているのだ。
 だが――

「うっ!?」

 ――何かに引っ張られたように、彼は体勢を崩した。
 白い髪を揺らしながらノーチェは再び終焉の部屋へ腰を下ろしてしまう。間一髪倒れるようなことはなかったが、片膝を突いてしまった所為で終焉を驚かせてしまったかもしれない。
 咄嗟にノーチェは振り返り、男の顔を見た。しかし、男は相変わらず暗い顔のままただぼんやりと虚ろな目をしている。そこに感情の色など見て取れないことが、ノーチェの罪悪感をただ刺激していた。
 早く戻ってほしいな。
 そんな思いを胸にしたまま、彼は自分が体勢を崩す原因を探した。動きを制するように下の方から何かに引かれたような気がして、自分の服へと視線を動かす。
 以前のような露出の多い服装ではない。胸元は隠し、なるべく肌を隠すように徹底した。動きやすさを求めて長袖を選んではいなかったが、特別寒いと思うわけでもない。――というのも、マントのお陰でいくらか和らいでいるのだろう。
 拘りのあるフード付きのマント。どうせならもう一度、「お揃い」を増やしたくて、灰色のファーを施してあるものを用意したものだ。終焉のコートのように長く、裏地は灰色に染まっている。自分でもそれなりに気に入っているものだ。
 そのマントの随分下を、白い手が強く握り締めていた。

「……ん?」
「…………」

 彼はその白い手を十分に見たことがあって、つい終焉の顔を見た。相変わらず表情はピクリとも動かないが、何らかの意思を感じさせるように手はノーチェの服を握り締めている。
 行かないでほしいだとか、手放したくないだとか、そういった意味でも込められているのだろうか。手はまだ黒≠ノ染められていないんだな、なんて思いながら、彼は「ベル」と言った。

「どうしたんだ? 今から風呂沸かしたいんだけど」

 ポンポンとノーチェは終焉の頭に手を載せた。いつの日か自分がやられたように、ゆっくりと頭を撫でてやる。滑らかな髪を指に絡めて、終焉の様子をじっくりと窺った。
 意思のない人形のように少しも動かない。目元はどこかを見つめたままだが、マントを握り締める手は離れそうになかった。
 意図が読めない。――このままでは動くこともままならないと思った彼は、マントの留め具を外す。そもそも長いマントを付けたまま風呂の掃除などしようとは思っていなかったのだ。外すタイミングがずれただけであって、外すことには何も思わない――。

「う、」
「っ!?」

 ――そう行動に出た矢先、終焉の表情が歪んだ。

 ――泣かれる!

 先入観からか、それとも泣きそうに歪んだ表情の所為か。ノーチェは思わず終焉を抱き寄せ、背中をあやすように叩く。「よしよし」なんて言って、頭も撫でてやった。子供をあやす仕草ではあるが、男は気にも留めない。寧ろノーチェの肩に顔を埋め、すんすんと鼻を鳴らすのだ。
 新鮮だと思う気持ちと、妙な既視感が胸の中で沸々と存在感を増していく。
 彼は終焉をあやしながら既視感の原因を探った。だが、いくら記憶を遡っても男が彼に直接弱みを見せたことなど、ないにも等しい。それなのに経験をしたことあるような感覚に苛まれるのは、何故だろうか。

「…………向こうのベルも、俺に縋りついてたのかなあ……」

 考えられる理由としては、もう一人の自分達が取ったことのある行動が自分にもあるということ。何気なく呟いてみた原因に、ノーチェは腑に落ちたような気がして「成る程な」と口を溢す。
 このような行動を取ったことがあるなら、既視感を覚えるのも説明がつくだろう。
 もう一人の自分はどのような行動を取り、男を説き伏せたのだろうか――。

「……なあ、ベル。風呂入りてぇだろ?」

 肩に顔を埋めていた終焉をゆっくりと離し、彼は男の顔を見つめてやる。終焉は眉尻を下げて赤い瞳でノーチェを見つめる。仄かに潤んだように見える瞳に彼は困ったように微笑んで、首を傾げた。先程の彼の問いに、男が小さく頷く。
 それにノーチェは「沸かしてくるから」と告げれば、終焉は酷く不安そうに顔を歪めるのだった。

「えぇー……」

 彼がこの場を離れることを告げると、終焉は悲しげに表情を歪めて首を横に振る。いやいや、と振っては、ノーチェのマントを――服を握る手に力を込める。泣き出しそうな目をしてくるものだから、流石のノーチェもどうすればいいのかが分からない。
 完璧を体現したような男がここまで駄々をこねる者だったか、ノーチェは頭を捻る。こんなにも子供のような素振りを見せられて、彼も対処のしようがない。
 これは俗に言う幼児退行、というものだろうか。
 大人でありながら幼子のような振る舞いを取る終焉に、ノーチェは小さく唸った。

「なあ、ベル。ちょっとだけだって」
「ん〜……」
「本当にちょっとだけ。絶対に戻ってくるってば」

 何度彼が言い聞かせようとも、終焉はただ首を横に振ってノーチェがどこかへ行くのを阻止しようとする。
 こうなった原因が、あくまで「ノーチェを失いかけた」という事実であるならば、彼は相応の誠意を見せるべきなのだろう。それも全て、男が元に戻ってから、が大前提で、彼はその対応をしようとしているのだ。

「――ベル!」
「ッ!」

 いやいやと駄々をこねる終焉に、ノーチェは咄嗟に声を張り上げた。
 驚いたように終焉は肩を震わせて、彼の顔を見る。彼が声を張り上げたことに恐れを抱いたのか、咄嗟にノーチェの服を握る手を離し、手元に残るマントをぐっと引き寄せた。
 不安まみれの酷い顔だ。
 そんな顔をノーチェは両手で包み、「大丈夫だから」と言う。

「ちゃんと戻ってくる。さっきはごめんな、俺が悪かった。信用できなかったらそのマント持っててくれ。それ、ベルのコートに似せてるから、俺気に入ってんの」

 手放したくないから戻ってくるよ。
 ――あくまで優しく。子供に言い聞かせるように紡いだ言葉は、終焉の耳に届いたのだろう。未だ不安げな表情ではあるが、終焉は小さく縦に頷く。

「ん、よかった。ありがとな……」

 ――そのまま、ノーチェの唇へ、自分の唇を軽く押し付けた。
 触れるだけの口付けを寂しそうな表情で落としてから、終焉はマントを抱き締める。彼は茫然としていたが、風呂を沸かすのだと思い出して「行ってくる」と呟き、部屋を後にした。

 赤黒い絨毯が続く廊下を歩き、浴室へと向かう。相変わらずの黒い浴槽に、汚れがひとつもないタイルや壁はカラリと乾いていた。水が飛び散らないように浴室の扉を閉めて、ノーチェは一呼吸置く。

「――……いや…………」

 先程の男の行動を思い出して、――唐突に羞恥にも似た愛しさが波のように押し寄せた。

「ああ!? なんっ…………何でそういうことすんのかなぁ!!」

 勢いのままに吐き出した言葉は終焉に届くことはなく、彼は手早く――且つ丁寧な掃除を施したあと、終焉の元へ戻ったのだった。


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