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 辺り一面は黒い血の海だった。

 言われるがままに、唆されるがままに彼は包丁を胸元に突き立てた。男はとても嬉しそうな顔で、「有難う」と言って、床に倒れた。ドサ、と倒れる音。長い黒髪が床に広がって、男特有の黒い血液が胸元から次々に溢れ出る。元々ないような顔の血色が悪くなっていって――男の動きが、完全に止まった。
 手が震えていた。包丁を突き立てた彼の手が。そんなつもりはなかったのに、まるで誰かに頭を乗っ取られたかのように、気が付いたら男を刺し殺してしまっていた。
 動悸は激しく、息は途切れ途切れ。血の気が引いていくような感覚を覚えて、冷や汗が止まらなくなる。一番恐れていたことを、他でもない自分がしてしまったのが恐ろしかった。
 どうしてこんなことをしてしまったのだろう。彼の心に重くのし掛かる罪悪感は、まともな思考を忘れさせるに至る。
 化け物たる所以か。不思議なことに男は砂にでもなるように、少しずつ体を失って、残るのは黒い衣服のみ。あとはひとりで暮らすには広すぎる家と、雑貨だけ。肉体すらも失くした彼にできることは恩返しではなく、ただ虚無に苛まれることだけだった。
 残された黒いコートを手に取って、気を紛らせるように抱き締める。不意に、首元に違和感を覚えれば、外れることのない首輪が音を立てて床に落ちた。
 ――どうして。
 そんな思考よりも、真っ先に浮かぶこれからのこと。手始めに手に伝う感覚を拭い取ってしまいたかった。
 このまま普通に暮らしていてはこの日の出来事を思い出してしまう。気が狂いそうになるのを紛らせるには、同じように人を殺さなければならない。人を殺し続ける殺人鬼にでもなれば罪悪感も薄れるだろう。
 忘れたい。
 だからこそ、次の獲物は自分を痛め付けていた商人£Bだった。

◇◆◇◆◇

 ――可哀想な子。本当に可哀想な子達。
 大嫌いな貴方。あの子を殺したことで自分が一番嫌がっていた「奴隷」から脱け出してしまった。狂ったほど繰り返し続けるこの時間軸で、貴方があの子を救うと決めた代償は、「奴隷になること」――あの子が死んだ今、それももう、関係がなくなったのね。
 これからどんどん、あの子のことを忘れるとは知らないで――

 ――本当に可哀想な子。

◇◆◇◆◇

 ――夜。帰ってきた屋敷の部屋の一室で、彼は空を見上げる。
 いくつもの部屋がある中で、彼が選んだのはやけに薄暗い一階の部屋だ。そこには生活感が見受けられたが、当の部屋の主がいないものだから、彼は何となくそこで睡眠を貪っている。
 何故か体が覚えている料理や洗濯は、随分と頭の中に叩き込むことができた。長かった髪も切り落として、以前よりも遥かに体つきが良くなったのを自覚している。風呂には理由もなく置いてあった入浴剤を入れる日々が続いていて、肌は随分と滑らかになってしまった。
 手元の調子はいい。今日も彼は何かを忘れるように人を殺め続けた。そうでなければ後悔しそうで、胸の奥が騒ぐのだ。
 服を脱ぎ、風呂を終えて、彼は部屋のタンスを漁る。同じような服がいくつもあった。黒い七分丈の、ブイネックを着て、黒のスラックスを穿く。そうして月を見上げながら――置いてある黒いロングコートを肩に掛けた。
 不思議なことに、部屋の中にあった黒いコートを羽織ると妙に落ち着くのだ。特別なものを使っているわけではないだろうが、安心感が彼の胸に募る。部屋の妙な暗さも相まって、「今日も疲れた」と呟きながら吐息を吐くと、眠気がどっと押し寄せてくるのだ。

 それと同時に酷い寂しさを覚えた。理由もなく、表情のない彼の目元から涙が溢れ落ちる。何の気なしに「月が綺麗だ」と呟くと、胸の奥の寂しさは一気に数を増した。

 何かを忘れているが、何も思い出せない。少しずつ大切なものを失っているような気がして、思わず呟いてしまう言葉がある。

「――こんな結末は望んでなかった」


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