惚れた腫れたの話



 幸せだなあ。
 そんな言葉がクレーベルトの耳を擽り、男は瞬きをした。
 鈴虫が鳴く秋の季節。天気の不安定さがまた秋の象徴にも思え、月が隠れてしまう夜の曇天さえも、多少は大目に見てやった夜の刻。いつの日かと同じように、さあ寝ようかと準備を整えたあと、ノーチェが何気なく呟いたのだ。
 その何気なく呟かれた言葉にクレーベルトは反応してしまって、驚いたように彼の顔を見る。
 ノーチェは相変わらずの澄ましたような顔をしていた。普段の悪人を彷彿とさせてくる表情とは裏腹に、男といる間の時間は特に柔らかな表情を浮かべる。挑発的な笑みを差し置いて出てくるのは、あどけなさを残した愛らしい微笑みだった。
 「ベルはいつもそんな顔をするよな」――そう言ってノーチェが手を伸ばした先。指先から手のひらでゆっくりと触れた顔には、信じられないような、それでも嬉しそうな、妙な表情がある。泣き出しそうだと言っても過言ではないだろう。
 そんな表情を浮かべたクレーベルトは、彼の手のひらにすり寄る。ノーチェの親指が微かに目尻に触れて、堪らず泣き出してしまいそうなのを男は堪えた。

「…………ノーチェは、俺の正体を知っていながらも、そう言ってくれるんだな」

 クレーベルトの体の殆どは闇でできているという事実がある。それは、ある意味負の感情を指し示すことがあり、それらは他者からも伝わることがあれば、他者への影響を与えることもある。その結果、男は裏切られることがあれば、他者を不幸へ陥れてしまうという事実がある。
 ――しかし、そんな事実を覆してしまうかのように、ノーチェの存在は大きかった。彼はいくらクレーベルトと傍にいようとも、何の影響も受けたことがない。クレーベルトを好くことがあれば、男を守りたいとさえ思ってしまうほど。体内を巡る赤くもない血液は彼に旨味と治癒を与え、ゆっくりと、確かに変化を与えているのだ。
 そんな彼の言葉にクレーベルトは確かに喜びを覚えていて、ぐっと唇を噛み締める。すると、ノーチェは「傷になるから駄目」と言って指を口許に寄せると、仄かに赤みが増した唇を指の腹を添えた。
 艶やかではないが、荒れているわけでもない唇をつぅ、と撫でる。後に「傷になってないな」と笑うと、ノーチェは寝具の上で大きく寝転んだ。

「当然だろ。お前は俺の初恋で、大本命で、恋人なの。傍に居られるだけでも嬉しいのに同棲してんだぜ? 幸せ以外の何があるんだよ」

 うつ伏せになって組んだ腕に顔を軽く埋めながらノーチェは男を見やる。
 細部に至るまで綺麗な黒に彩られた長い髪。とろんと眠たげな瞳の色は赤と金。七分丈のブイネックから覗く白い肌。女にも劣らない整って綺麗な顔立ち――どれを取っても彼にはクレーベルトが最愛の対象でしかないのだ。
 そんなノーチェから与えられる愛はあまりにも心地好く、クレーベルトの心もすっかり絆されてしまった。

 クレーベルトは転がっているノーチェの隣に身を寄せると、暖を取るようにするりと体を絡ませる。自分よりも逞しく筋肉のついた腕に見とれるよう、ほう、と吐息を吐いた。
 彼の愛情は甘いものよりも男の心を満たしやすく、胸がすぐに満たされてしまう。これが恋をする女の気分なのだろう――。
 猫のように絡み付く男に彼は頭を撫でてやる。艶やかで、女のように滑らかな髪を軽く掬ってやって、口づけをひとつ。そうして思い出したかのように瞬きをしてから、「そう言えばさぁ」と話を切り出した。

「ベルは俺のどこが好きなんだ?」

 じぃっと彼が見つめる先にある、クレーベルトの表情が呆気に取られたようにきょとんとした。ノーチェの質問の意図が理解できなかったわけではないのだろうが、なぜそう唐突に訊かれるのかが不思議でならないのだろう。もしや愛が疑われているのではないか、とクレーベルトは微かに顔を顰めた。
 疑っているのか――そう言いたげな表情に、ノーチェは「勘違いすんなよ」と呟く。単純に自分のどこを好いてくれたのかを彼は知りたいだけなのだ、と告げる。

「俺は……まあ、多分、一目惚れだったんだろうけど」
「ノーチェは一目惚れで喧嘩を売るタイプなのか?」
「違う、そうじゃない。あのときはそれくらいしかお前の気を惹く方法が見付からなかっただけ……」

 ぎし、と寝具を軋ませて、ノーチェはうつ伏せから仰向けへ。天井を仰いだあと、傍らに横たわるクレーベルトの顔を見て、「例えば顔」と口を開く。

 例えば顔。頬に模様があっても気にならないほど綺麗に整った、女顔負けの美人なところ。黒い睫毛は長く、赤と金のオッドアイはガラス玉のように透き通る。赤メッシュが交じる黒い髪は一本一本が絹糸のように滑らかで、さらさらと流れる心地のいい髪質だ。
 その次に来るのは白魚のようにすらりと伸びた長い指。父のように厳格で、母のように優しく、時には上司のように面倒のいい性格。誰よりも最愛を一番に考えて身を呈してしまうほどの忠誠心。人間になりきろうと奮闘して家事を覚える努力家的な一面もあれば、どんな男よりも女心を理解できるところ。
 戦闘における技術も幅広く、魔力保持についてはノーチェすらも凌駕してしまう。

 ――そういった点を述べてみて、挙げたらキリがないなとノーチェは言う。それは初めから好きであった部分ではなく、徐々に好いていったものばかりだ。恐らくノーチェの言う「どこが好き」は、初めから好いていたものだけではないのだろう。
 それで、お前は、と彼は目配せをした。期待に満ちたような、子供のような視線にクレーベルトは小さく唸りながら目を泳がせる。
 好き。好きと言えば――

「…………匂い……」

 ――咄嗟に男の頭によぎったのは、その一言だった。

「あー、ベルは結構前からいい匂いがするって言ってくるよな。どんな香りなんだ?」

 ノーチェは初めから知っていたと言わんばかりに自分の腕を顔に近付けて、すん、と鼻を鳴らす。
 しかし、男の言う「匂い」なんてものは彼には分からない。漂ってくるのは普段から気休め程度につけている香水の香りで、クレーベルトの言う好みがノーチェには理解しきれなかった。
 少なくとも香水が好みなわけではない。その証拠にクレーベルトは汗まみれのノーチェによくすり寄ってくる節がある。恐らく男の言う匂いとは、彼にとっては「体臭」に分類されるものであり、生まれつき持っているものなのだろう。
 それを裏付けるよう、クレーベルトはノーチェへと顔を寄せた。「いい匂い」とだけ呟いて、柔らかな雰囲気をまとい始める。まるで花を降らせるような綻んだ様子に、匂いだけか、と何気なく思えば、クレーベルトが話を続けた。

 顔も好きだ。彼の挑発的な笑みと、子供のように笑う姿が何よりも愛らしく思える。瞳はまるで夜空を切り取ったかのように月の満ち欠けを反映する夜の象徴。白い毛髪は癖が目立ち、クレーベルトとは異なる髪質に男はつい動物を愛でるのと同じように、彼を撫でてしまう。
 そのくせ体つきは他の誰よりも立派で、力強く逞しい腕に何度抱えられたことだろうか――。

 ――そう言って、男は余計なものまで思い出してしまって、口を閉ざした。自分ではない自分を探し当てられてしまって、更にノーチェへと溺れる感覚は、惚れた弱みとでも言えるのだろう。何をしても、何をされても構わないと思うほどなのだから、余程のことだ。
 口を閉ざしたクレーベルトの様子を見かねて、何を思い出したのかを彼は気が付いたのだろう。悪巧みをするようににやりと口の端を上げて、「やぁらしい〜」と言った。
 その様子が癪に障ったようで、男は小さく頬を膨らませる。むぅ、と唸って、逃げるように布団へ潜り込んだ。

「わりぃ、冗談だよ。俺だって好きだよ、お前とやんの」

 潜り込んだクレーベルトの頭を布団越しに撫でてやれば、男は隙間からちらりと顔を覗かせた。
 ああ、可愛らしい。ノーチェはクレーベルトの些細な行動のひとつひとつを目にしては、自分がいかに一人に対して本気なのかを実感させられてしまう。些細な行動ですら可愛らしいと思えてしまうのは、重症なのだろうか。

「……それでいてお前はかっけぇんだから、ずりぃよなあ」
「何の話だ」
「こっちの話」

 クレーベルトと同様、ノーチェは布団の中へと体を押し込んで、男の体をぐっと抱え込む。どういうわけか、彼はクレーベルトを抱き枕にするのが好きなのだ。
 背の高い男よりも高い位置で寝転んで、頭部を両腕で包み、胸元へ引き寄せる。彼の腕の中でクレーベルトは「腕が痺れるだろう」と言ったことがあるが、ノーチェ自身は気にも留めなかった。

 愛したものほど手放したくない。

 ――そう思うのも両者共に惚れ込んでしまったからなのだろう。
 「こういうところも可愛いんだよなあ」と呟くノーチェに対し、クレーベルトは「うるさい」と小さく反抗した。


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