いいこ、悪い子



 目に見える劇的な変化だった。辛うじて自分を保てていたであろう、黒衣を纏っていた男が茫然としたまま死んだような顔付きで壁に凭れ掛かっている。泣いたのか定かではないが、目元に残る擦った痕は時間が経てば消えてくれるだろう。投げ出された四肢は力が入らず、呼吸を繰り返している胸は浅く――意志を捨てたがる瞳は酷く薄暗かった。
 当初は疑いながらも外をひたすら強請っていた。その割に自分が行ってしまった事の重大さを実感したようで、「駄目だ」と言い聞かせれば大人しく部屋の片隅に踞るように居座った。慣れない部屋に戸惑いを覚えていた様子はまるで初めての場所に訪れた動物のようで、一通り部屋を巡回しては落ち着ける場所を見付けたように座るのだ。
 外を求めれば何度も駄目だと言った。すると、次第に学習していったようで、外を強請る事は今では全くない。その代わりというには曖昧ではあるが、男の体温は急激に低下し、子供のように寂しがる事が多くなった。帰って「ただいま」と言えば、漸く生気を得たように顔を上げるものだから、余程心に余裕がないのだろう。
 そんな様子を見て、本当にこれでいいのかを考えることが多々ある。

 彼が愛したのは、ここまで糸が切れた人形のように四肢を投げ出す男ではなかった。表情こそは乏しかったが、死んだようにただ虚空を見つめるだけの顔をしていなかったような気がする。口数も多くはなかったが、ある程度はしっかりと語る存在だった。
 何より、たった一人の部下の手によって丸く収まる筈のない存在だったのだ。
 男は強かった。勿論、実力的な意味合いも込めてだ。一度決めたことは曲げることもなく、人の上に立つほどの重役を担っている。彼はそんな男に惚れ込んだ筈で、操り人形のようにしたいとは思っていなかったのだ。
 思っていなかった筈、なのに――。

「ん…………ぅ……」

 絡まる舌に唾液を絡ませて、ちゅ、とリップ音を鳴らしてから唇を離す。舌先に伝う糸がプツンと途切れたあと、ぐっと口許を拭った。死んでいると思わせるほどに暗かった男の目は、とろんと蕩けたように熱を帯びている。潤んだ瞳と上がる息に、彼は確かに満足感を得た。
 男の首元で存在を主張する紫色は、未だに取られる兆しもない。それどころか赤黒い鎖を繋いで、男の行動を制限している。首元が空いた格好で、紫の首輪は酷く目立ち、白い肌に浮かぶ鎖骨がちらりと顔を覗かせている。
 何の痕跡もない。ただそれだけが彼の気持ちを穏やかにさせるのだ。

「今日もいいこにできてたな……」

 そう言って彼は黒い髪を撫でる。手入れを怠ることのない黒髪は、指の隙間からぱらぱらと溢れ落ちた。ストレスや何やらで傷む様子は未だ見られない。それだけが今はまだ救いだろうか。
 ――いや、この黒い髪も、彼以外の人間が褒めたものを、男は伸ばし続けているのだ。ただもう一度、同じように褒められたいが為に。
 そう思えば不思議と胸の奥が騒ぐような感覚を覚えて、奥歯をぎり、と噛み締める。対する男はほんの少し感覚が鈍ったのか――それとも、彼を目の前にして警戒心を忘れたのか――、蕩けるような瞳のまま、「もっと、」と小さく呟くのだ。

「もっと、ほめて……」

 幼児退行の一種なのだろうか。
 小さく呟いたあと、男は彼の胸元へすり寄るように顔を埋めた。じゃらじゃらと音を立てる鎖も気にせず、ゆっくりと頭を差し出す。何の気なしに拘束で自由の利かないようにした手は、項垂れたままだった。
 褒めて男の体温が戻るのなら、いくらでも褒めてやれるのがノーチェという男だ。
 彼は拘束を解いてやって、寄せられた頭を逞しい腕でぐっと抱えてやる。すると、自由になった男の手はそのまま彼の背に回って、フードつきのマントをぎゅっと握り締めた。「よしよし」と頭を撫でてやれば、男の表情が綻ぶ。この時間は甘えてきた猫を愛でているようで、僅かながらも癒される時間となっていた。
 ――しかし、男を部屋に閉じ込めているのは紛れもなく彼自身だ。癒されている余裕がないことは明白だ。
 それでも男は彼を咎めるつもりはないようだった。尻尾を左右に大きく振って喜びを表す犬のように、男は次第に生気を取り戻していった。何気なく顔を見合わせてみれば、目元には満たされたように光を灯す瞳が彼を見上げる。褒められることが何よりも嬉しいようで、口許は僅かに弧を描いていた。

 ――かわいい。

 たった一言、頭に浮かぶ言葉を彼は喉の奥へ流し込む。言うのはもう少し、自分の緊張を外へ切り離してからの方がいいものだ。入念に洗い流しはしたが、男にはもう気が付かれているに違いない。それでも触れてこないのは、男なりの優しさなのだろう。

「よっし、じゃあ風呂でも沸かすか」
「…………!」

 これで少しは満足した筈だ、と彼は立ち上がる。すると、驚いたように男は彼のマントを握り締めたまま、咄嗟に顔を上げた。不安に塗れる表情に甘やかしたい衝動を堪え、「風呂沸かすんだって」と告げてやる。独りきりが嫌いな男はもう、離れる少しの時間でさえも許しがたいのだろう。
 彼は男の頭を撫でてやると、男は口をもごもごと動かして何かを言いたげにしていた。思わず「どうした?」と問い掛けてやれば、おずおずと男は小さく口を開く。

「……俺も、お手伝い…………」

 家にいる以上、彼一人に全ての負担を掛けたくない、という男なりの気遣いだった。

「ああ……でもそんな手間じゃねぇよ」
「でも、あの……俺も……何か……」

 ――そこに、外へ逃げ出そうという気持ちは感じられなかった。純粋な、彼への思い遣りを、彼は犇々と感じる。今まで言い聞かせてきたお陰だろうか。今では抵抗も示さない男に、彼はうぅんと唸る。
 本当に逃げ出さないのなら構わないのだ。ある程度の自由が利く状態なら、男もほんの少し、この日常に楽しみを見出だせるかもしれない。「ただいま」と言って帰ってきたのを、「おかえり」と言って出迎えてくれることもあるかもしれない。
 しかし、男はまるで気が付いていないのだろう。人間ではないという男に、日に日に奇妙な力が働いているのだ。どういうわけか、時間が経つにつれてどんどん体を求めるようになってしまう。酷く白い体に歯を突き立てて、口許を押さえ付けて、服を剥いて、欲という欲をぶつけたくなるのだ。
 これは一体何の作用が働いての結果なのだろう。――それらを含めて、彼は男に外に出られるのは酷く困るのだ。
 薄汚れた外気に晒すくらいなら、いっそのこと――ここで飼い殺した方がマシだ。

「…………んー…………じゃあ、ベル。この鎖、部屋を歩き回れるくらいの長さにするから」

 そう呟くと、男は目を丸くした。後に不安そうに彼を見る。
 男の首輪に繋がれた鎖は、彼の血液からできたものだった。

「そんな顔すんなって。手伝ってくれんだろ?」
「…………ん……」
「俺は何もしなくていいし、外に出したくないと思ってるからさ。正直鎖なんて伸ばす意味もないって思うけど、ベルは回りのことしたいって思ってくれてんだろ」

 それなら血なんて安いもんだって。
 優しく、そう告げてやれば、男が泣き出しそうな顔をする。「ごめんなさい」だなんて小さく呟いて、男が顔を下ろしてしまった。
 閉じ込めてしまってからというものの、男がすぐに不安そうにこちらの機嫌を窺うことを、彼は理解している。恐らく、男自身、自分が必要とされることこそが、存在価値と結びつけられていると思っているからだ。
 必要とされていない自分は生きている価値がない。死んだ方がマシだ。――そんな思考回路に囚われているのを、彼は重々承知しているのだ。

 その思考を少しでも緩和させてやろうと思ったのが、今の提案だった。勿論、鎖が伸びる分、男の行動範囲も広くなる。もしかしたら外に出ようと奮闘するかもしれない、なんていう懸念すらもある。
 それでも、彼は男を甘やかすことをやめられないのだ。

「……ま、取り敢えず今日はそのまんまで。明日からな。風呂沸かしてくるから、いいこで待っていられるな……?」

 甘く、低く、囁くように問い掛ければ、男は小さく頷いた。

 男を置いた寝室を後にして、彼は浴室へと足を踏み出す。黒光りする浴槽。一人で使うにはあまりにも大きい浴室。他とは違う造りの良さに、相変わらず感嘆の息を洩らし、ぐっと袖を捲り上げる。
 風呂が好きな男のために入念に磨いてやった。入浴剤も手の届く範囲に置いた。けたたましい音を立てながらお湯を溜めていく浴槽を見て、これからのことを考える。
 今日もまた男を目にして欲が目を覚ました。好意が体を求めるように呼び起こされているような気分だ。日に日に増していく深い欲望はまるで底無し沼のようで、今日はどうしてやろうかと頭の隅で考える。
 長い風呂の後は決まって長い夜の時間が用意されているのだ。その中で男をどう可愛がってやろうか考えて、じりじりと胸の奥が焼けるような不快感を覚えているのに気が付く。
 相変わらず吐かない。吐いてはくれない。男の体を汚した存在の特徴を。
 身内を殺すことだけは望んでいないからだろうか。決して答えることのない男に、彼は長い時間を費やしている。

「……素直に言えばずぅっと甘やかしてやるんだけどな……悪い子だな、ベルは」

 今日の夜も綺麗にしないと。
 そう呟いてノーチェは、クレーベルトが待つ寝室へと戻っていった。


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