「好きか嫌いか」



 ただじっと考えていた。する事のないこの居心地の良い部屋の中で、俺は何故身内を無差別に愛しているのだと考えていた。物音一つ立つ事のない静かな部屋ではやる事も無ければ、出来る事も数少ない。――出来る事が限られているなんて、それこそ生きていても良いのかをつい考えてしまう。鎖に繋がれた以上、存在意義の有無もまた見えないままだ。
 そんな不安に苛まれながら何気なく横たわってみたそこから、落ち着く香りがした。ああ、何だ。ノーチェはソファーが好きなのか、と目を閉じる。鎖で繋がれた犬だと称してくれて構わない。首に巻かれた紫の首輪に愛しさを感じながら思考の沼に落ちるのと、次第に募る寒さにはいやでも慣れてしまいそうだった。――それを振り払うために再び深い思考へと潜るのだ。
 愛していた理由は簡単だった。深く、何でも食い潰す程の闇は俺の何かをひたすらに開けていった。傷を治そうにも気になって、気になっていじっては、いつまでも傷口が塞がらないのと同じようなものだ。渇望は深く、それに対する見返りを求めていただけに過ぎないのだろう。元々主だけを救う筈が、気が付けば自分まで愛されたいと願ってしまっていたのだ。

 ――不意に扉が開いた。ふと目を動かせば、澄ました顔のノーチェがこちらを見て、一度笑う。俺はその顔が好きで吐息を吐くと同時に、体中を走るぞくぞくとした感覚が這い上がるのを感じる。恍惚としてそれに魅入られる不可思議な現象だ。それもノーチェから与えられているものだ、と思えばやけに心地良くて、徐に体を起こした。
 立ち上がるのはいつ振りだったか――それはどうでも良い。覚束無い足取りで微笑んでいるノーチェに向かって歩み寄って、不意に伸びきった鎖に動きを制限される。首輪を外そうかと思ったが、ノーチェの私物であると再認識すると取り外す気も起きなくて、半ば諦める気持ちになりながら小さく手を伸ばした。

「どうしたんだ、ベル……お前俺が帰ってくるといつも冷たいよな。そんなに寂しいのか……?」

 するりと伸ばした手に絡められる指は温もりを帯びていて、「欲しがるところも可愛いなぁ」と元の場所に押し戻すように一歩一歩と足を運んでくる。軈て壁に押さえられながらずるずると座らせられると、空いた片手で頬の輪郭を、唇をゆっくりと撫でられる。
 触れられた所が焦らされるように痺れる感覚に苛まれた。同時にやっと温もりを感じられたような気がして、ほう、と吐息を洩らす。そして、徐に迫る端整な顔立ちに思考を、目を奪われる。普段は月のように輝く光があるというのに、今日は一変して全面紫色に彩られている。
 そう、寂しい――その言葉を塞ぐように生温い舌と共に唇が塞がれる。俺もそれを当然のように受け入れ、口の間を割って口内に入り込む舌の上に自分のものを絡ませていく。いやに慣れた様子の深い口吻に縋り付くように手を強く握ると、呼応するように握り返してくれる。唾液が絡んで滑り気を帯びたノーチェの舌の先が俺の舌の裏筋を、口蓋を順に、丁寧に舐めていくのだ。人間というものは性器の他に、口内が性感帯らしい。俺もまた例外ではないようで、慣れている様子のノーチェには敵わないものだ。時折当たるノーチェの舌に付いたピアスが与えてくる刺激にも耐え難い。

「ん……は、ぁ……っ……」

 時々顔の角度を変える所為か、稀に隙間を与えられる俺の口から洩れる吐息混じりの喘ぎに俺は妙な恥ずかしさを覚える。上に立っていた者が部下の手によってこんな目に遭っている、という事が馬鹿にされないか――そんな可笑しな不安があるのだ。――しかし、そんな俺を余所にノーチェは時々満足げに「ん」と声を洩らす。
 唇に吸い付いて来る度に鳴る音が耳に心地良くて、思わずノーチェの頬を離さないように手を動かした瞬間、それを制するように再度手を強く握られ、唇が離れる。俺はそれが酷く名残惜しく、離れたくはなかったのだが――満たされる感覚はあった。ノーチェは俺の頬に触れて「少しは温まったな……」と言葉を紡ぐ。

「……なあ……なあ、ベル」

 俺の感覚を狂わせるような甘い言葉と呼び掛け。与えられる褒美に気を取られて気が付かなかったが、漂う鉄の匂いにほんの少し眉を顰める。それに気が付いたかのようにノーチェは瞼に口吻を落として、そんな顔すんなよ、と呟く。

「今日はいつもより気分が良くねぇんだ。お前を半ば無理矢理抱いた……そいつが生きてるってだけで、凄ぇ不快だったんだ」

 ころころと鈴が鳴るように軽く微笑んでいるが、罪悪感の欠片も感じさせない雰囲気がどこか不安を誘い込む。頬を撫でる手は優しくて、相変わらず握り続けている手は俺を離さないというように解く事も難しく思えた。あまりにも普段とは違う様子と匂いに微かな不愉快な印象を抱いていると、再び「なあ」と声を掛けられる。それは、俺の機嫌を窺うような小さな呼び掛けだった。
 薄々気が付いている。血の匂いと、言動がそうだと俺に訴え掛けている。ならば俺は許さないべきで、それなりの罰を与えなければならない筈なのだ。

「俺が……俺が身内を殺したって言ったら、お前は俺の事嫌いになるか……?」

 ――それは、望んでいなかった言葉で、出来ればノーチェには犯して欲しくない罪であった。不安そうな言葉とは反し、表情は酷く愉快そうに孤を描いて俺をよく見つめている。試しに「本当に殺したのか」と口を洩らせば、ほんの少し考える素振りを見せ――、「さあ、どうなんだろうな」と言う。
 話を聞くにノーチェは殺した訳ではないのだ。今日という今日は気分が悪く、俺に手を出したであろう人間を見掛けて半殺し程度にしたのだという。実際は手を出す事が俺にとって許せない行為であるのだが――如何せん、俺も今日という今日は怒りを感じられないのだ。理由は簡単、光を感じられないからだ。今夜は新月――ノーチェの瞳が全面紫色に染められれば、俺は闇が深まる感覚に陥る。全て冷めてしまうような、無に還るような深い黒が、俺の感情を呑み込んでしまうのだ。
 だからだろう、酷く愉快そうに語るノーチェに俺は「少し、考えたんだ」と小さな呟きを洩らす。ノーチェが帰って来る前に考えていた事を。何故、無差別に人間を愛しているのかを。

「……ただ……自分の中にある穴を、埋めたかっただけなんだ。きっと……。大切にすれば見返りがあるだろう……? それで、俺は――」

 ただ愛されたいだけなんだ、そう呟こうとして口を開いていた。すると、突然勢い良く唇を塞ぐような口吻が一つ。先程に比べれば浅く、ただ塞ぐだけのもののようで、すぐに離れてしまう。そして、「そんなのが聞きたいんじゃねえんだよ」とほんのり目を細めて、不機嫌そうに顔を歪めている。

「俺が好きか、嫌いか。そんだけ答えてくれ」

 つい、と指の腹で撫でられる唇に、じわじわと痺れるようなくすぐったさを感じる。血の匂いと共に迫る柔らかな唇の感触が心地良い。艶めかしく滑る指の腹に鼓動と、ほんの少し体温が上がるような感覚に陥りながら「……ああ……」と呟く。

「……好き…………もう……ノーチェだけが、俺を埋めてくれるんだろう…………お前の、」

 そこまで来てまた何度目かの口吻が落とされた。次は最初のものと同じように深く甘いもの。一度唇をゆっくりと味わうように舐めてから、また口を割って舌で中を犯して、頭の中を真っ白に染め上げようとしてくる。ざらつく舌の表面と、相変わらず当たってくるピアスの硬さ――ほんの少しずつ温もりを帯びる所為か、妙な快楽が全身を駆け巡る。
 離れていくと同時に見上げるような目で俺を見て、「ベルは本当に良い子だな……」と吐息混じりに言葉を洩らしている。快楽の所為か、俺は茫然とする頭と切れる息に頭の処理が追い付かなくて、紫色に染め上げられた瞳を見ながらふと、顔を近付ける。艶やかな白髪に隠れそうにない目元の傷痕に何気なく口吻を落とすと――少し驚いたように目を見開いてから、ノーチェは徐に俺を抱き寄せた。離れた手のひらに残る温もりがいやに愛しい。

「ああ……愛してるぜ、ベル……なあ、風呂入って体中に痕、残して良いよな? それくらいしねぇと今日は少し、意地悪しそうなんだ」

 耳元に囁かれる甘い言葉に考えもままならず、外される首輪に名残惜しさも感じながらノーチェの背中に手を回して――俺も付けたい、と小さな我が儘を呟いた。


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