キスをするだけ



「なあ、キスがしてぇ」

 そう言って自分を見つめてくる彼を、クレーベルトはじっと見つめ返した。
 夜も更けて、さあ寝ようかと用意をしていたところ。ベッドメイキングを済ませたノーチェが、寝転がりながらクレーベルトが傍によるのを今か今かと待ちわびている。クレーベルトはそれを見つめながら、今日もまた唐突だな、と心中で言葉を呟いた。
 満月ではない。かと言って新月でもない。ただ性的な欲を満たすためではなく、赴いたままに彼はそう呟いたのだろう。

「…………何故」

 眠たげな声色で、クレーベルトはぽつりと呟いた。すっかり気の抜けた重い足取りで寝具へと歩み寄り、端へと腰を掛ける。ぎし、と軋む音を気にせずに足を乗せれば、男の傍らでノーチェが動く。
 ベルはこっち。――そう言って位置を変えさせられた。クレーベルトは壁の方へと追いやられ、ノーチェは微笑む。逃げ場もなく、逃れる術は何ひとつ取り残されてはいない。――しかし、逃げる必要のない男にとって、何の意味もなさないのは明白だ。

「そんなもん、したいからに決まってんだろ」

 ノーチェは小さくほくそ笑むと、その場に寝転がり、横目にクレーベルトを見る。どうやらこちらからしてくれと言っているようで、男は仕方なさそうにゆっくりと倒れていた体を起こした。
 絹のように艶やかな黒髪が溢れ落ちて、僅かにクレーベルトの視界を塞ぐ。それを鬱陶しそうに耳に掛ける様子を見て、彼はふと思うのだ。
 ああ、今のやつ好きだなぁ、なんて。

「……どの程度だ」

 耳に髪を掛け直すと、ノーチェに対してクレーベルトは問う。経験が少ない方ではない彼らにとって、口付けはコミュニケーションのひとつだ。軽いものから深いものまで。じゃれ合う程度のものから、満足するまで満たすまで。それらを経験しているクレーベルトは、ノーチェが求める度合いを知りたいのだ。
 クレーベルトに見下ろされながら問われたノーチェは、考え込むように「うーん」と唸る。特別悩むほどではないのは彼自身もよく分かっている。夜も更けた二十二時。月がぼんやりと浮かぶ曇り空。眠たげにとろんと蕩けるような目付きをした黒髪の男――。
 ――彼はふ、と笑って、「軽いやつ」と一言。本当ならばどこまでも深く、深く貪ってやりたいものだが、クレーベルトを想う感情が彼にそうさせなかった。
 黒く染まった片腕を見つめ、自分の理性を叩き起こす。今こうしている間にも男は魔力を消費しているのだ。仲間のために片腕を犠牲にした男に、誰が無理をさせようとするだろうか。
 ノーチェが理性を叩き起こしたのをクレーベルトは気が付いていたのだろう。男は「本当にそれでいいのか」と一言付け足すと、互い違いの瞳でじっとノーチェを見つめる。
 三日月が浮かぶ夜色の瞳が妖しげに男を見つめていて、口許は微かに弧を描く。「問題ねぇよ」そう一言だけ呟いて、男を手招いた。ほら、早く。――なんて言いたげな所作に、クレーベルトは呆れたような溜め息を吐く。
 結局彼は男の身を案じるばかりで、応えさせようとはしないのだろう。
 ――しかし、それでも満足感を得ることには違いない。視界いっぱいに映り込む、男にしては綺麗な顔立ち。澄んだ瞳も瞼の下に。形のいい唇がゆっくりと自分のに当たるのを、彼は黙って堪能するだけ。
 耳にかけていた筈の黒髪が飽きもせずまた垂れる。寝具が軋む物音も気にせず、柔らかな唇を、クレーベルトが食む。
 初めはただ当てるだけ。――それだけに飽きたらず、ゆっくりと唇を開くと、自分のものでノーチェの唇を柔く挟む。
 それが予想外だったのか、ノーチェは一度手指をぴくりと動かした。素知らぬ顔をして閉じずに開いていた目に映るのは、やはりクレーベルトの顔と黒い髪だけ。その中に混ざる青紫のピアスを見て――ノーチェは満足そうに瞼を閉じる。
 吸い合っているわけではない所為か、音のひとつも洩れない状況だ。そんな状況下を楽しむノーチェとは裏腹に、クレーベルトはどこか不服そうに薄ら目を開けた。
 上唇を挟んでいた口を開き、徐に彼の唇へと近付いていく――。

「――ん……っ」

 ――弾かれるように声を上げたノーチェの体を押さえ込み、クレーベルトは思いのままに彼を貪っていく。舌が口の端をぐっとなぞると、クレーベルトの口には鉄の味が広がった。

 ――こいつ、

 なんて、ノーチェは心中で悪態を吐く。まな板の上の鯉であるかのように、思いのままに動かされるのが酷く気に食わなかったのだろう。噛み付くように口付けを落とした瞬間、鋭利な八重歯で唇を傷付けたのだ。患部を執拗に舌で撫でる顔付きは、やけに満足げなのを彼は薄目で見やる。
 自分は理性を保っていた筈なのに、相手から誘うような行動を見せ付けられて――彼の手が伸びかけた。

「…………文句は」
「大ありだっつの」

 不意に起き上がるクレーベルトの顔を見つめながら、ノーチェは上げかけた手を下ろす。逃げられたような感覚に苛まれながらも、長い黒髪を手で軽く掬い上げた。艶やかな黒い髪にところどころ交じる赤いメッシュは、特別目立つことはない。
 その髪を何気なく口許に寄せて口付けを落とすのを、男は無表情のまま見送った。ノーチェがそのまま飛び掛かりたい衝動を抑えながらその行為に及んだことを、男は悟られないように小さく褒めてやる。
 我慢もできる可愛らしい大型犬に、褒美として何をやろうか――そう考えて、強い眠気に襲われてしまった。
 くぁ、と欠伸をひとつ。そのままノーチェの胸元へ転がるように飛び込めば、逞しい腕が背に回される。

「寝る?」

 たった一言紡がれた言葉にクレーベルトが「ん」と言えば、ノーチェは「分かった」と呟く。そのまま手をクレーベルトの背に回してやって、ぽんぽんとあやすように叩いた。
 子供扱いされているようで気に食わない。――しかし、それを好いていることは確かだったのだ。

 温かな体と、一定のリズムで聞こえてくる鼓動。ゆっくりと繰り返される呼吸に合わせ、クレーベルトは静かに眠りへ落ちた。


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