新月は独占の色



「……なあ、お前は目の色が変わるのか」

 ぽつりと呟いたクレーベルトの言葉は、ただぼんやりと窓の外を眺めていたノーチェに届いた。
 大量の書類を目の前に、机に頬杖を突いたクレーベルトは溜め息がちにほう、と吐息を吐く。黒い羽があしらわれたペンをペン立てに戻し、座り心地のいい椅子の背凭れへと体を預ける。仕事の合間に設ける休憩、というやつだろう。両手を組んで裏返し、伸びをする様は誰がどう見ても普通の人間だ。
 仕事の報告を済ませたノーチェは、何気なくクレーベルトの仕事部屋でぼんやりと過ごしていたところ、唐突に男に問われる。「お前は目の色が変わるのか」と、普通であれば問い掛けることもない台詞だ。
 それをノーチェは聞き入れた後、黙ってクレーベルトの方へと振り返り、女のように艶やかな髪をじっと見つめながら「あれ」と口を溢す。

「言ってなかったんだっけ?」

 ――そう言って背凭れに寄り掛かるクレーベルトへ静かに腕を回した。

「……? 何だこの腕は」

 緩く首回りに回された腕をクレーベルトは撫でて、微かに眉を寄せる。普段なら取りそうもない彼の行動に、多少の違和感を覚えたのだろう。肉付きのいい筋肉質の腕が胸元にあるのを見て、そうっと彼の腕に触れた。
 「別に、何でもねえよ」そう言ったがノーチェは腕をほどくこともせず、困惑に満ちた表情を浮かべる男の頭にトン、と額をつけた。気を抜いていたクレーベルトはびくりと肩を震わせる。
 彼の体温がゆっくりと男に移るように、ノーチェは小さく唇を開く。

「――ニュクスの遣いはさぁ……月の満ち欠けに連動して目の色が変わるんだよ」

 ゆっくりと、脳髄に染み込ませるように呟かれた言葉は、クレーベルトの耳と好奇心を擽った。
 ほう、と男が呟きを洩らす。小さくノーチェの髪を引いて「顔を見せろ」と言葉で示してやる。それにノーチェは応えるように徐に体勢を変えて、背凭れに寄り掛かるクレーベルトを見下ろすと、男が微かに目を細めた気がした。

 彼の瞳は不思議なものだった。恐らく彼の言う「ニュクスの遣い」というものは、常人とは異なった瞳をしているのだろう。白い筈の目が黒く、瞳は夜空を切り取ったかのように紫と、三日月を湛えている。目元には逆三角の模様と、右手の甲と――、体のどこかに刻まれる紋章がニュクスの遣いである象徴のようなものだ。
 彼らには魔力特化型と物理特化型がいるらしいが、クレーベルトはノーチェ自身に「自分は物理特化型なのだ」という報告を受けている。その話を聞いた男は「ああ、色んな人間が存在しているんだな」なんて思うばかりで、彼の瞳にはつい、目がいかなかったのだ。

 赤と金のオッドアイが見つめた先にあるのは、三日月が浮かぶ紫色の瞳ではなく、一面紫色に染まったノーチェの瞳だった。

「……こうして見ると…………綺麗だな……」

 月の満ち欠けに連動するのなら、紫は光を受けない新月だろうか。
 ――そう思いながらクレーベルトはするりとノーチェの頬に手を伸ばす。珍しく黒い手袋のない、白魚のような長い指先がつぅ、と彼の頬を撫でた。
 「そんなに綺麗なもんか?」なんてノーチェはクレーベルトの指先を受け入れて、軽く顔を寄せてやる。その仕草が何かしらの動物を彷彿とさせるものだから――男はついその手を自分の元へと引き寄せてしまった。

 動物の類いに例えてしまうのはノーチェに失礼なものだ。

 気を取り直してクレーベルトは姿勢を正そうとノーチェの腕を叩く。ぺちん、と小さく叩く音が聞こえて、男は身動ぎを繰り返した。姿勢を正して仕事へ向かうのだろう――そう気が付くと、ノーチェは大人しく回していた腕をほどいて、行く末を見守った。
 姿勢を正したクレーベルトの体は、先程寄り掛かっていた背凭れよりも遥かに大きく、コートの着ていないシャツの姿が酷く目立つ。相変わらず髪は三つ編みにしてサイドへ流し、自分なりのまとめ方を気に入っているようだった。
 シャツの襟からちらりと覗く白い首筋が視界に映り込んで、ふとノーチェは考えるように首を傾げる。

「……なあ、頂戴」

 姿勢を正したクレーベルトの首筋にトンと人差し指を当てて、彼は顔の近くで緩く微笑んだ。
 ノーチェが寄越せというものに男は心当たりがあって、「……早くないか?」と小さく問い掛ける。つい先日分けたばかりだろう――そう言って彼の表情を窺うように横目で見れば、ノーチェは「駄目なのかよ」と唇を尖らせる。

「ご褒美ってことでさ」
「…………ご褒美、か……?」

 そういうものもあった方がいいのだろうか。そう言いたげにクレーベルトは首を傾げて口をへの字に曲げる。実際彼が求めるものが褒美という扱いになるのか定かではないが、一人一人しっかりと褒美でも与えれば仕事の効率が上がるだろう。
 かくいうクレーベルトもまた、褒美があったときの仕事の効率が上がっているのだ。やはり人間にはアメとムチを使い分けるのがいいだろう。

「…………仕方ないな……」

 そう呟いて溜め息をひとつ。クレーベルトはシャツのボタンをひとつひとつ開けていって、隠れていた首元を露わにするよう肩を出す。下に着ていた黒いブイネックが現れて、珍しいものを見たものだと思わせるようだ。
 それにノーチェは「さんきゅ、」と小さく呟いて、後ろから男の首筋に顔を寄せる。行き場のない手は、クレーベルトの顔と服を抱え込むように回されていて、こっそり心中で「痛いな」なんて男は思っていた。
 ――そんなに欲しかったものなのかと思ってしまったのだ。
 どういうわけか、ノーチェはクレーベルトの血液を気に入ってしまって、時折無意味に強情ることがある。勿論クレーベルトも拒む理由がないとして受け入れることが殆どであり、その度に首元を差し出しているのだが――今回は不思議な違和感が男の体を掠めた。

「……?」

 ぬるりと生温かい何かが首筋を這って、呼気が女のように白い肌を擽る。直後に柔らかな感触――唇だろうか――の後、ちくりと奇妙な痛みが迸った。――代わりに、普段ならすぐにやって来る筈の鋭い痛みは遅れてやってきたのだ。
 意味などクレーベルトには理解しきれない。「ああ、やけに堪能していたな」なんてぼんやりと思っては、耳に届く喉を鳴らす音に小さな喜びを胸に募らせる。ノーチェはやたら美味いと言っては男の黒い血を飲んでいて、飽きるような素振りは見せなかった。

 そもそも血液に美味いもあるのだろうか。

 男は眉間にシワを寄せながらむぅ、と小さく唸る。彼だけはそう言うだけで、ただ普通の――人間と同じような血液なのだ。多少可笑しな機能を兼ね備えているものの、体を巡るための機能は何ひとつ変わりがない筈だ。
 こくりと小さく喉を鳴らす音を聞き届けながら、クレーベルトは何気なく自分の右手首を眺める。こんなものが美味いのかと、自分も口にしてみようかと思っていたところ――不意に顔の近くで「おい」と声を掛けられるのに気が付いた。

「お前噛もうとしてんじゃねえだろうな」
「………………してない」

 自分の心の内を見透かしたかのような発言に、男は堪らず視線を逸らしてしまう。恐らく時折クレーベルトの奇行を視野に入れている所為だろう。睨み付けるような視線に目を逸らしたクレーベルトは、小さく小さく唇を尖らせるのだった。

「……まあいいや。早く治せよ、血が勿体ねえ」

 ノーチェは満足したように噛み付くのをやめると、傷口から溢れる黒い血が勿体ないと言いながらそれを舌で掬う。勿体ないという認識が理解できないものだが、血が溢れる度にちろちろと舌で掬い取る感覚にくすぐったさを覚えて、「分かったから離れろ」と示してやれば、彼はゆっくりとそこから顔を離した。
 代わりにクレーベルトは首元の傷に指を押し当て、ゆっくりと、まるで上からなぞるように傷を撫でると――撫でた矢先からその傷がみるみるうちに跡形もなく消えていくのだ。
 本人曰く体が人間ではないことと、魔力を集中させて治りを速めているようだが、相変わらずの治癒力にノーチェは「はあ」と感嘆の息を洩らす。いくら説明しても、いくら説明されても、当の本人ではない限り理解ができない。だからこそ、珍しいと思う感覚が止められずにいる。
 つけた筈の傷がみるみるうちに治っていく、という事柄は、良くも悪くも彼の意欲を刺激した。

「やっぱいいな、それ。傷付き放題じゃん」

 ほう、と吐息を吐きながら指を離す男に、彼はぽつりと呟くと、クレーベルトは怪訝そうな顔をしながら「何を言う」と口を洩らす。

「傷が増える毎に治せば魔力がなくなるに決まっているだろう。その上お前のことだ、死ぬまで動きかねん」
「あー……それはあるかも」

 ほらな。――クレーベルトはうんざりとしたような目付きで、傍らにいるノーチェに視線を投げた。彼は軽く頬を掻いていて、「そんな目を向けられてもなあ」と呟く。彼の言動は全て性格上のものであり、意図的に直せるようなものではない。
 それを知っている男は溜め息を吐いて、仕方ないと独りごちる。結局どうにもならないことだと知ると、軽く背伸びをした。腕を頭上に伸ばして、そのままゆっくりと下ろす。全身に力を込めながらそのまま欠伸をひとつ。くぁ、と大きな口を開けて、鋭い八重歯が覗いた。
 さて、とクレーベルトが気を取り直す頃には、力は抜けきっていた。目尻にはうっすらと涙が浮かんでいて、それを拭いながら男は羽ペンを手に取る。「ほら、出ていかないか」――なんて言うと、傍らにいるノーチェが不思議そうにクレーベルトを見る。

「出てってほしいの?」

 ――なんて訳の分からない言葉を呟いて、男の顔を窺った。
 無論、クレーベルトでさえもその言葉に顔を顰めて「何を言っているんだ」と彼に告げる。酷く怪訝そうな顔は、普段無表情を飾っている顔に対してとても珍しいものだった。
 そんな表情を見せるのも、自分だけだろうか、と何気なく彼は思う。
 そして、そのまま軽い足取りで本棚に近付くと、本を手に取った。

「ちょっと休憩ってことで」
「…………全く」

 上機嫌のまま、ノーチェはソファーへと座った。そうして鼻歌交じりに本を開く。内容は何てことない、ただの一般小説だ。文字ばかりが並んでいて、乗り気ではないときに読めばすぐに眠りを誘われるもの。
 それを彼は開いて、文字を目で追った。部屋は静かで、ペン先が紙を掻く音だけが響き渡る。集中するにはもってこいの空間だろう、ノーチェの口の中には依然錆びた鉄の味が残っていて、ころころと舌の上を転がっているようだ。
 そして――何気なく向けた視線の先にあるものを見て、ノーチェはほくそ笑む。

 男の首元には、赤い徴がぽつんと残されていた。


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