夏の冷たさ



 夏を彷彿とさせてくる熱気が辺りを漂い始めた頃、ノーチェはタンクトップを摘まんでパタパタと体に風を送る。暑い、蒸し暑い――そう呟いて顔を顰めると、ぱちりと視線が交わったような感覚に陥った。「何してんだ、早く来い」と両手を差し出して彼はクレーベルトに語りかける。
 普段よりも顔が顰められているのを見ると、否応なくそれに応えなければならないと思う。
 ぼんやりとその様子を見ていた男は、一度だけ瞬きをすると小さく頷いた。そして、止まっていた足を踏み出してノーチェが待つ寝具へと向かう。赤黒い絨毯が男の足に擦れて、ざり、と音を立てた。彼のいう蒸し暑さを感じないクレーベルトは、やけに涼しげな顔をしてその手を取る。
 彼の手に重ねられたクレーベルトの手は白かった。ノーチェの肌は健康男子そのものだというのに、クレーベルトの肌は日に焼けていない――まるで病弱な女のような――肌色をしていた。
 重ねた繋ぎ目からひやりと冷たさが伝わってくる。乾いた大地に水が染み込むようにじわりじわりと、ノーチェの熱を奪うようなものだ。

「……跨がって」

 熱が喰われる感覚を得ながら彼は男にぽつりと呟く。寝具の上に伸ばされた足を跨いでくれ、と言った。静かに穏やかな声色に、やましいことは何もないと知ると、クレーベルトはそれに大人しく従う。「ん」と口を洩らして、彼の両足に跨がった。

「…………これでいいのか」

 ノーチェの雰囲気に負けじとクレーベルトは静かに呟いた。淡々としていて、且つ感情の薄い声色だ。目元だけは無関心というよりは、すっかりと気を抜いているような緩さが目立つ。鼻を擽るシャンプーの華やかな香りにノーチェは一度目を閉じた後、「おう」と言った。
 そうしてゆっくり、ゆっくりと男の体に腕を回す――。

「……あ〜……冷たい……」
「…………はあ」

 ぎゅう、と逞しい腕がクレーベルトの腹部に巻き付いた。そのまま引き寄せられるように僅かに力を込められた後、男の腹部に彼の顔が押し付けられる。冷たい、冷たいと言って彼はやけに堪能しているようだった。

 クレーベルトの体には体温がない。おまけに腹部にある筈の臓器もない。男を形作るのはとある生き物の亡骸と、漠然と広がる一面の闇だ。そこに人肌程度の温もりなどある筈もなく、届くのは氷のような冷たさだけ。本人の意思によっては、その冷たさは度合いと、広さを変えられるという特典付きだ。
 ――平たく言えば、クレーベルトは「死んでいる」のだ。
 最も厳密に言えば亡骸に仮初めの命を宿しているのであって、生きている人間であるには程遠いもの。それを彼は知っていながら、誰よりも大切そうにクレーベルトを愛でた。

 ――蒸し暑い日には男の体温が酷く恋しくなる。そう言わんばかりにノーチェはクレーベルトにしがみついた。触れている箇所から、ほんのり熱を侵食する冷たさを感じる。心地のいいそれに、ノーチェは暫く離してはくれないのだろう。
 仕方のないやつだな、なんて思いながら男は腹部にある白い頭を見下ろす。風呂から上がったからだろう。普段よりも湿った白髪に、男は手を伸ばして小さく撫でた。同じ洗髪剤を使っているというのに、自分とはまるで違う甘い香りにクレーベルトは感嘆の息を吐く。
 この温かな生き物はどうして自分を見初めたのだろう、と緩く考えた。

「……おい」

 ――不意に服の下に入り込む手に、男は僅かに眉間にシワを寄せる。そんな気がなかった筈なのに、肌の上を滑るように入り込み、脇腹に添えられた素手を小さく叩いた。
 機嫌が悪くなったのかと思ったのか、彼は「あんだよ」と言いながら顔を上げる。「やらしいことはしねぇよ。ただ直接触った方が冷たそうだと思っただけ」そう言って遂に服を捲り上げたかと思うと、頬を腹に押し付ける。
 そう言えば最近体作りを怠ったとか、そんなに変わらない筈だとか、様々な考えがクレーベルトの頭によぎる。――しかし、どうも子供のように無邪気な顔を向けられてしまうと、許してしまうのも事実だ。

「……変なことはするなよ……」
「ん」

 はあ、と溜め息を吐きながら、クレーベルトはされるがままになる。すると、ノーチェは男の腹に顔を寄せたまま、「キスくらいはするかも」なんて呟いて、唇を押し付けた。
 そしてそのまま大口を開ける――

「……っ」

 ――直後、クレーベルトの脇腹に鋭い痛みが走った。それは、肉を無理矢理突き破って体内に侵入してきた歯によるものだ。鋭い犬歯が脇腹に穴を空けて、その後にノーチェはちゅぅ、と音を立ててからそれを飲み下す。
 体内を循環する男の血液を、彼は喉の奥へ押し流したのだ。
 ――馬鹿なことを。そう、クレーベルトは呆れるように呟いた。

「うあぁ……」
「だから馬鹿だと言ったのだ」

 愚か者だな。
 そう言いながらクレーベルトは先程よりも強く抱き締め、しがみついてくるノーチェの頭を撫でた。脇腹には小さな傷がついていて、そこからは墨を溶かしたように黒い血液が溢れ出てくる。つぅ、と体を伝って垂れるそれを、彼は横目に見た。そのまま唇を寄せて舌で掬い取った後、苦い顔を浮かべながら「早く治して」と呟く。
 その目は微かに潤んでいるようにも思えた。
 クレーベルトは傷口を指先で撫でながら「飲まなきゃいいんだ」と言った。ゆっくり、ゆっくりとそれを撫でるとみるみるうちに傷が塞がっていく。その様子を見つめながら彼は「勿体ないだろ」と口を溢して、小さくクレーベルトにすり寄った。

「やっぱ濃いな、厳しい」

 軽く一ヶ月分は口の中に入った気がする。
 苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ノーチェは大きく溜め息を吐いた。男の手が絶えず頭を撫でてくるものだから、慰められているような気持ちに陥ってしまう。それでも手を振り払わないのは、撫でられることを嫌だとは思ってないからだろう。
 頬に伝わる冷たさにうつつを抜かしていると、「当然だろう」とクレーベルトが呆れがちに言った。それは先程のノーチェの言葉に対する回答だ。
 当然だと言われた彼は僅かに眉を顰める。

「俺の腹の中にあるのは闇そのものだぞ。臓器がない代わりにあるんだ。血液として循環しているものを飲むのも実際は信じがたいものだが――、闇を飲むなど、人間をやめるつもりか?」

 苦笑混じりの呆れた声色だ。それを裏付けるように、クレーベルトは目を閉じてふう、と息を吐く。頭を撫でている手が次第に疎かになり、最後にはぴたりと止まった。
 何の反応も示さない人間だと思っていない所為だろう。クレーベルトの胴体に腕を回したまま、何も話さないノーチェに対し「どうした」と男は呟いた。もしかして、癪に障ることを話してしまったのだろうか――なんて、胸中に不安が募る。息が詰まるようだった。
 ――しかし、男の不安を他所にノーチェは腕を離す。頭に載せられた手を自分の手で取って、手のひらを口許に寄せる。自分より上にある顔を見つめて、煽るような瞳を輝かせた。

「やめるって言ったらどうすんの?」
「…………」

 彼の問いに、男は何も答えることができなかった。

「……ま、今のところは冗談。少しずつお前を受け入れられるようにならねぇとな」

 無表情の中に戸惑いを隠すクレーベルトの顔を、彼は両手で引き寄せて軽く口付けを交わす。
 ノーチェの口許から僅かに鉄のような味がして、クレーベルトは「不味い」と小さく口を洩らしたのだった。


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