熱に浮かされ



 くらくらと目眩を覚えるほどの茹だるような熱が光と同様に苦手だった。
 規則正しく響く無機質な機械音。ピピッと鳥が鳴くような小さな音を立てて耳に届く。俺はそれにゆっくりと目を覚まして浅い呼吸を繰り返した。どこもかしこも熱い。吐く息も、何もない手のひらも、表情が上手く出せない頬も、臓器が存在しない腹部も、身体中のそこかしこが焼かれるように熱い。
 思わず「うぅ」と唸るように声を上げて寝返りを打とうとした。――しかし、酷く重い体と鐘を鳴らすように頭の奥に響くような頭痛は、俺の行動を制限させるには十分すぎた。ぐらりと世界が回る、そんな印象を覚えるような吐き気を催すほどの目眩。咄嗟に身動ぎを繰り返して異物感のある脇を探る。
 音の正体は体温計だった。小さなその機械は調子の悪い俺の体温を測っていたのだろう。それが俺にとって気休め程度のものでしかないと分かりながら、それを与えた人物は一体どんな気持ちだったのだろうか。表示された数字を読み取ろうにもぼうっと霧のように朧気に映る視界ではそれもよく見えない。
 ああ、気分が悪い。
 胃の中を掻き回すような不快な吐き気に思わずそれを投げ捨てる。コン、と床に叩き付けられ、小さな音を立ててそれは転がった。こめかみを締め付けてくるような酷い頭痛に人知れず魘されていると、扉が開く音が鳴る。弾けるような水の音がやけに心地好く聞こえたのは気のせいだろう。
 薄暗い中でも感じる光の存在に嫌気が差して左腕で目元を覆った。そのときに気が付いてしまう、右腕の感覚の無さ。意識はおろか、魔力の一欠片すらも安定しない現状に呆れさえも覚えてしまって、喉の奥底から嗚咽のようなものが競り上がる。「くそ、」と呻いて、納得のいかない現実にぐっと唇を噛み締めた。

「体温計、投げたら壊れんだろ」

 徐に歩き近付いていた彼が声をかけてくる。その気配を辿れば、投げ捨てた体温計を拾うような動きをしていて、「仕方がない奴だなぁ」と苦笑気味に呟かれたその言葉からは呆れのような感情はこもっていなかった。そんなもの役に立たないだろう、と呟いてみれば声の主は次こそは呆れるよう「全く……」と言って溜め息を吐く。
 生憎俺に、それに何が表示されたのかは分からない。だが、その小さく精密な機械が使い物にならないことはよく知っている。「……やっぱ意味ねえか」そう呟かれた言葉が何よりの証拠だろう。しかし彼は俺の不調を理解してくれているのだ。
 普段温かい筈の彼の手がゆっくりと俺に触れる。ひやりと妙な冷たさがこっそりと頬に当てられる。徐に顔に乗せていた腕を下ろすと、やけに柔らかな表情を浮かべる彼と目が合う。調子はどうだ、とだけ呟いて俺の顔を覗き込むのだから「言わなくても分かってるんだろう」と返してやった。

 無理が祟ったのだろう。気怠く重い体を起こす気にもならないとなると、俺はきっとそれなりに高い熱を出しているに違いない。彼は外で相も変わらず、変わりのない性格を持て余している。自分の種族を知る者の殲滅、強い者と戦いたいという欲――外でしか発散できないそれを、彼は日常にしている。
 勿論心配であることは言うまでもない。だから俺はノーチェを影から――文字通り影に潜んで時折垣間見ることにした。普段からそれを見ているわけではない。ただ、危ないと思ったときにだけ手が出せるよう、多少なりとも細工を施しておいたのだ。
 それを彼は気が付いているのか定かではないが――俺はノーチェが安心して安らげる空間をひたすらに提供することを意識していた。

 ――それが体調を悪くさせた原因なのだろう。
 茹だるような熱が身体中をこもる感覚は奇妙だった。汗をかいた体が不愉快極まりなく、徐に寝返りを打てば目眩が襲う。意識しなくても十分にできていた筈の呼吸は荒くなり、更には何もない腹の中が掻き回されるような不快感を覚える。嫌になるくらいの薄気味悪いその現象は、人間には当たり前なのだという。
 人間はこんな現象にも耐えられる体を持っているのだと思えば、不思議と彼らを羨ましく思った。俺には到底――余程のことがない限り縁も所縁もない現象なのだから、それ相応の覚悟を決めなければ立ち向かえないほど。それを人間は生きている間に、今も尚経験しているのだから、俺は彼らに敵わないのだ。
 ふう、と何度も寝返りを打っては落ち着かない自分にどこか呆れを覚えた。優しいノーチェはカーテンを開けないで日の光を遮っている。部屋は薄暗く人の気配もまた少ない。――それが俺にとってあまりにも居心地がいいというのに、腹を掻き乱すようなこの吐き気は治まりそうにもなかった。
 不意に額の汗を拭うようにノーチェが手を置く。そのまま前髪を捲し上げて、俺の顔を露わにして、やけに悲しそうに眉を寄せた。
 俺はそれが嫌だと思い、その手を退けて「出掛けたらどうだ」と呟く。

「こんなもの、寝ていれば治るんだろう」

 もぞもぞと体を動かして布団の中へ潜り込み、ノーチェに背を向けた。理由は特にないが、どうしても顔を見られたくなかったのだ。これはきっと、俺が未だに自分の地位を保とうと見栄を張ってしまっているのだろう。
 ノーチェの気配は動く気がしなかった。ただ留まって、俺の行動を窺っているようだった。それに痺れを切らしたように「出ていけ」と小さく呟くと、彼は今度こそ呆れたように溜め息を大きく洩らし「はいはい」と呟きを洩らして、遂に部屋から出ていってしまった。
 ――これでいいのだ。風邪は感染すると知っている。万が一ノーチェに移ってしまえば彼は我慢して気丈に振る舞うのだろう。そんなノーチェの姿は見たくない。苦しむのは俺だけでいい。
 そんな気持ちを胸に残して、俺は落ちる瞼に従った。

◇◆◇

 何もない。文字通り何もない。あるのは暗闇だけ。そこには人の温もりも、自然も、外の目が眩むような眩しさも、茹だるような熱も、凍えるような寒さも、緑が萌える眩い世界も、何もない。
 そんな場所にただ理由もなく立ち尽くしていた俺は、茫然と足元を眺めた。ポツポツと現れるのは死体の山。幾重にも折り重なった小さな命。ごろりと転がる力の入らない体は薄気味悪くなるほどに青白く、血の気のない唇には赤みなど初めから存在していなかったよう。
 人間と同じ時間は過ごせないのだと暗に示されているようだった。彼らは同じ時間を過ごしているが、俺は時に置き去りにされる存在だ。寿命などという概念はない。その代わりに終わりの見えない暗い孤独感が待っている。それを示すかのように足元に転がる死体は顔のよく知る人物だった。
 眩い金の毛髪、露出の多い女、片目の見えない魔女、足のない聖母――何人もの人間達が無惨にも転がっていて、そこに一際目立つ存在を見つけたとき、思わず息が止まりかける。
 そこにあるのは白い毛髪の――。

 ――ふと目を覚ましたときに景色を占めるのはやけに整った顔だった。

「おっ、起きたか」

 彼は安堵したかのように表情を僅かに緩め、俺にゆっくりと語りかける。「何か食いたいもんはあるか? 必要ないはなしだぞ」なんて言って素手で頬に触れる。冷たい筈の俺の体は異様に熱く、彼の手がやけに冷たく思えた。ひんやりと心地のいい感覚に思わず頬を擦り寄せる。彼は添えるだけの手を撫でるようなものに変えて接触を許した。
 本当は「移るから出ていけ」だとか「遊びにいけばいいだろう」なんていう悪態を吐いてしまえばよかったのだと思う。――だが、目覚めたての頭では思うように言葉を整理することもできず、ゆるゆると力の入らない手でその手を握る。
 呼吸がままならなくなった。浅い呼吸を繰り返し、熱くなる目頭に成す術もなく目尻から生温い涙が溢れる。

「…………どうした……?」

 彼はゆっくりと俺に話しかけた。答えることこそはできないものの、それを咎める様子もなく、頭を撫でて俺を宥める。「熱出してると寂しいもんな」と彼は呟いて、理由も分からずにただ泣く俺をあやすように撫で続ける。
 勿論理由という理由はない。ただ何となく、無駄に寂しいのだ。何か夢を見ていたような気がするが、今ではもう思い出せない。途方もない悲しさと孤独感が拭えず、必死に「行かないで」と言葉を絞り出す。

「独りは、嫌だ」
「うん」
「行かないで、」
「行かねえよ」
「独りに、しないでくれ」
「分かってる」

 彼は俺の言葉に丁寧に返事をしては月のように優しい微笑みを浮かべ、頭を撫でてくれる。俺はそれに甘えるよう「寂しい」だの「寒い」だの言葉を洩らしたが、彼は鬱陶しがる様子もなくそれを受け入れる。
 「お前は熱を出すと寂しがるもんな」と分かってくれているような口振りで、大丈夫と言いたげに俺を抱き寄せた。汗ばむ体は彼にとってよくないものだと知りながら温かいそれに、思わず涙が溢れる。
 時折その優しさが怖かった。優しいからこそ不満を隠して、いつか唐突に言われてしまうのではないかと、恐怖が口を動かした。

「す、捨てないで……捨てられたくない……」

 震える手で彼の背に手を回すと――「捨てねぇよ」と抱き締める腕の力が強くなった気がした。

 ――後日、ノーチェが熱を出してしまい、無理矢理寝かしつけたのはまた別の話だ。


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