故意な行為



 彼が断れないようにそれとなく言った。俺は本当に嫌なやつだと、それなりに思った。

 家でできることは限られている。俺はぼうっと天井を眺めながら彼の帰りを待つ。体は未だ眩しい世界に慣れることがないようで、「退屈だ」と溜め息を吐きながらベッドの上をひたすらに転がり回る。柔らかで使い心地のいいそれは俺のお気に入りで、枕や布団を堪能する時間は心地よかった。
 ――特に彼の定位置に行けば、彼の匂いがするのだ。聞こえは悪いが「体臭」と言えば説明がつくものだ。彼は香水をつけているようだが、生憎俺が好いているのはそんなものではない。拭っても拭いきれない、隠しても隠しきれない彼だけの匂いが食欲をそそるのだ。
 そんな彼の定位置を独占するように俯せに転がった。やることがなければこれといって強いられていることもない。どこかで経験していた何かのように、仕事に追われることがなくなった俺は、常にごろごろとして時間を潰すことに徹底していた。
 勿論、教わるものは教わった。家事に掃除、俺ができる範囲のものは全てだ。掃除や洗濯は朝のうちに済ませ、清潔さを保つのはなかなか骨がいるものだと分かった。――だが、料理に関してはどうも苦手で、同じ存在である「兄」を頼るものの、食事の概念がどうにも理解できない。
 味付けは抜群だろうか。甘さは。塩を多く入れすぎたのではないか。底を焦がしてしまった可能性すらある――どれだけ味見をしようとも、それらしい味が俺には分からなかった。
 ――と言うのも、俺は彼とは違った人種なのだ。――いや、最早人とさえ形容するのもそれらしくはない。本来ならば相容れない場所で、相容れない者達と共に時を過ごしているのだから。俺と周りの決定的な違いを言えば、寿命の一言に尽きようか。彼らは決められた命の時間があるというのに、俺には「死」という概念はない。
 ――正確に言えば俺に待ち受けているのは「死」ではなく、「存在の消失」だろうか――。

「――……」

 不意に扉の開くような軋む音が聞こえた。俺は咄嗟に起き上がると、軽く乱れた髪を手で直しながら足早に玄関口へと急ぐ。与えられた家は広く、ところどころ一人で使うには大きい家具があるが、彼と一緒に使うには十分すぎるそれに満足している。
 そんな家を歩き、帰ってきたのであろう彼を出迎えるべく俺は急いだ。やけに頬が緩むのも俺が随分と惚れ込んでいる所為だろう。自分が知らないものを、自分が欲しいものを与えてくれる彼に対して、俺はどうやら心酔してしまっているのだ。
 そうして漸く見えた白い髪に安心感を抱き、俺は彼の名前を口にする。

「ノーチェ――」

 「お帰り」そう言おうとしたとき、暗転したかのように視界が回る。一瞬でも自分が足を踏み外したのかと思ってしまった。だが、肩を掴むその手に力が入っていて、痛みを伴ったそれに俺は状況の整理を始める。首筋を掠める熱のこもった吐息――直後にやってきた鋭い痛みに思わず呻き声を上げる。
 肌を貫く八重歯の感触は針のそれに最も似ている気がする。皮膚を破って染み出てくる俺の黒い血液を、彼は喉を鳴らしながらひたすらに飲んでいる。赤い血が美味いことは知っているが、自分自身の血液が本当に美味いのかは彼のみぞ知るのだろう。
 飛び付かれた衝撃とその行為に思わず壁にもたれ掛かる。ほんの少し、目が眩むような感覚を覚えた。人間について調べあげた俺は、確かに人間には輸血という行為が必要だということは勿論知っている。――知っているが、彼の行為には些か疑問さえも抱くようになった。
 彼は血液を失い貧血に陥ると、他人から血を貰うことが多々ある。それは周りの人間は決して行わない行為であり、彼だけが取る唯一の行動と言っても過言ではない筈だ。それが今行われているということは、彼はそれなりに血液を失っており、意識が朦朧としている状態まである。
 だからこそ、気になった。直接口にしているそれが、血液の補充になるのかと。
 ――それも最早どうでもよかった。彼は投げられた一方的な約束を律儀に守ってくれているのだと、いやに嬉しく思った。
 ふと目をやると彼の腕にところどころ真新しい傷が残されているのが分かった。それが徐々に、少しずつ、端から何事も無かったかのように癒えていくのを見て、「この体でよかった」と思うことも多い。
 闇が溶け、血液の代わりとして体を巡回しているそれは、相性が良ければ良いほど相手にとって利益だけを与えるものとなる。彼は夜に愛された一族だ。この血液を「美味い」と言うのも、傷が癒えるのも、そのお陰だろう。
 夜があるからこそ闇が存在する。――彼が俺を飲み続ける限り、彼の体には多少の変化が起こるだろう。俺は彼が少しずつ、――少しずつ俺に染まるのを感じて、つい笑みを溢す。
 痛みが快楽へと変わりゆくのをいいことに、俺の瞼はゆっくりと落ちていった気がした。

◇◆◇

 彼は好戦的だった。無鉄砲に戦いを挑んではよく怪我をして帰ってくることが多く、「死ぬわけじゃねえから平気だ」と笑う姿を見て酷く不安に駆られたのを覚えている。そして、それ以上に嫌に思えたのが――彼の血を求める行為だった。
 意識が遠退くほどに見境がなくなるそれは勿論、意識があって血液の供給者から与えられる姿を目にするのが嫌だった。いつからだかはっきりとは覚えていない。ただ、彼を好いてからというもののそれが行われる度に胸の奥の蟠りが大きくなるような気がした。
 何せ彼は自ら俺に求めてくれやしないのだから。
 はっきりとした理由も忘れた。だが、あくまで俺の身を案じての配慮だと彼は言う。これ以上の負担はかけられない、かけたくないと思った末の行動だそうだ。
 そんな理由から彼は俺ではなく、他の人間から供給してもらっているのだろう。それに俺がどんな感情を抱いているのか、彼は知らないに違いない。俺は独りでは生きていけない――主人がいなければ生き方など分からない。この体は彼のものだというのに全てを求められないことが酷く不安でしかなかった。
 だからこそ言ってやったのだ。「俺では駄目なのか」と。
 彼は意図が分からないと言うように首を傾げ、「何が?」と俺に訊いた。その目は嘘を吐いているようには見えなかった。だから胸が抉られるような痛みを覚え、咄嗟に口を滑らせてしまう。

「……やはり、赤い血が、望みか」

 ――そう、俺とは無縁のものを彼は欲しがっているのかと思った。その言葉に全てを理解したのか、彼はバツが悪そうな表情をして頬を掻く。そういうわけじゃねえんだけど、と言って俺を軽く宥めようと手を伸ばしてきた。

「――この体はお前のものだぞ」
「…………」

 ピタリとその動きが止まる。その瞬間を見やって彼に背を向けるために身を翻した。気まずくなるものがそこにあったが、話を切り出した俺が悪いのだと、翌日も変わらずに彼に接してやる。すると、間抜け面を晒すようにポカンとした表情を浮かべていたが、――彼も空気を読んで変わらずに接してくれた。
 ――そういうノーチェも好きだ。ただ、多少強引な方をよく見かけていただけで、気を遣ってくれる彼を見るのは珍しいと思ったのだ。だから求められないのが酷く恐ろしく、いつしか捨てられてしまうのではないかと思うまでになったのだ。

「……ん」

 ゆっくりと目を覚まし、目に映るのは見慣れた天井ただひとつ。俺は茫然としたままそれを見つめていて、何気なく右手を眺めようとした。
 ――だが何もなかった。文字通り、上げた筈の右腕がどこにも無かったのだ。以前はそれが怖いものだと思っていた筈なのに、今の俺はそれを見てほんの少し口角を上げた。何せ、片腕を失って以降俺はそれを腹の中のものと魔力で固めているだけでしかないのだから。
 俺の腹の中にあるのは膨大な闇。何もない、音もない、光も届かない――ただ憎悪と悲哀、嘆きを寄せ集めた謂わば良くないもの。それは体の中で溶けだし、血液として体を巡回している――つまり、血液を失い続ければ片腕の維持はできないということだ。
 それは魔力が枯渇しているときにも言えることで、どちらか片方を失えば説明はつかないが、今回ばかりは理由は明白だろう。
 じりじりと焼けるように痛む首筋――それが俺を微かに喜ばせる。

「何笑ってんだよ」

 ふと伸びてきた手が頬をつねる。あくまで優しく。聞き慣れても聞き慣れきれないその低い声は心地好く、目を覚ますには十分すぎる声だ。それに目を向けてみると、彼はむくれた顔で俺をじっと見下ろす。見下ろして――酷く悲しそうな顔で「悪ぃ……」と小さく呟いた。
 思うよりも彼は飲み下すことに深く没頭していたのだという。気が付いた頃には俺が彼に寄り掛かる形で気を失っていて、彼は相当焦ったのだと俺に告げた。その表情は大型犬が体を丸めて落ち込んでいるようなものにも見えて、俺はこっそり軽く笑う。
 俺がそう望んだのだから何も背負う必要はないというのに、やけに悲しげな顔をする彼がとても愛しく思えた。何気なく左手を伸ばして彼の柔らかい髪に触れ、「よしよし」と宥めるように撫でてやる。すると、彼は一度だけ間抜けな顔をしてから「……何だよ」と小さく呟いて、ふて腐れるように眉を顰めた。

「クソ……こっちが大人しく反省してんのに……」
「……素直に反省しているから褒めてやるんだろう」

 可愛い子には褒美をやらないとな。そう言って撫でていると、彼は俺の手を取って置拗ねるように踵を返して向こうへ言ってしまった。「大人しく寝てろよ」という捨て台詞を残して部屋を出ていくものだから、怒らせてしまったのではないかと不安になる。
 しかし、出ていったかと思えば彼は再び扉を開けて顔を覗かせて、「すぐ戻ってくるから」と言った。彼がこまめにそう告げるようになったのは、俺が一度熱で倒れてからだろうか――。律儀にそう告げてくれるからこそ、俺は安心しきって眠気に身を委ねることができるのだった。

 ――扉を閉ざした先、彼は壁に寄り掛かりながら茫然と立ち尽くす。ここまで帰ってくんの楽じゃねえんだよな、と小さく呟いて溜め息をひとつ。誰かが聞いているわけでもなく、独り言を洩らす。

「……どうせまた笑ってたんだろうなぁ」

 ほんの少し嬉しそうに彼の口角が上がった。


前項 | 次項

[ 31 / 50 ]
- ナノ -