寝起きの観察と抱き枕



 珍しく早く目を覚ましたあと、ぼうっと見つめていたのは整った顔だった。
 白く柔らかな毛髪――睫毛は言うほど長いというわけではないが、目を見張るものだと思う。顔立ちは男の俺から見ても綺麗に整っていて、形のいい唇が弧を描くこともなく閉ざされている。呼吸は緩く一定で、よく眠っているのだと思わせるようだった。
 何故俺が目覚めたばかりで彼の顔をじっと見つめるのかというと、彼がここぞとばかりに俺を抱き枕代わりにしているからだ。身長差を気にさせないような、微妙に高い位置に顔がある辺り、彼は俺を抱き締めやすい位置に移動しているのだと思う。首元に手を回して、俺の頭の下に腕を敷いて寝ているのだ。
 抱き心地は良くない方だとは思う。何せ俺は男だ。女よりも体は硬く、筋肉の割合も違っている筈だ。――まあ、彼に比べれば何てことはないのだが、抱き心地が良くないのは当然だと思う。
 それなのに彼は毎日飽きもせず俺を抱き締めながら眠って、一夜を明かしているようだ。
 ――ようだ、と言うのには理由がある。特別深いものではない。ただ単純に俺よりも彼が目を覚ますのが早いからだ。殺人鬼というだけあって時折鉄の匂いをまとわりつかせるときもある。そんな彼の眠りは特別深いものではなく、何があってもいいようにすぐ目を覚ますタイプのようだ。
 反面俺は深く、深く寝に入ってろくに目を覚ますこともない。そのあまりの深さは、彼曰く寝起きの悪さを引き出してしまうようで、常に迷惑を掛けている。
 だからこそ、今こうして彼の寝顔を眺められるのは貴重だった。
 すうすうと彼は静かな寝息を立てていて、俺はそれを物珍しくじっと見ていた。一言で表すならば可愛らしいという言葉だろう。普段獰猛で手の付けられない飼い犬が、このときばかりは酷く大人しく、愛くるしさを持ち合わせている――そんな印象を覚えるほどだ。
 あの好戦的な目付きも今や瞼の下。ペット扱いしたことに彼は腹を立てるのではないか――そう心中で呟きながら、身動ぎを繰り返し、何気なく彼の頬へ手を伸ばした。

「――……」

 さすが、と言うべきだろうか。彼はゆっくりと目を覚ますと、ぼうっとしながら俺の目を見つめてくる。その瞳の色は一面を金色が染め上げていて、見るものを魅了するような妖しさがあった。
 ああ、今日は満月か。俺は何気なく頬に添えた手でそれを撫でる。素肌は滑らかで、いやに触り心地がいい。今日は目の色が片方お揃いだとか、まだ寝ていても問題ないだとか、色々な言葉が浮かんだ筈だが、彼の沈黙がそれを許してはくれなかった。
 ――いや、口を開こうとしたのだ。それを制したのが、他でもない彼自身だった。
 俺は軽くからかってやろうと唇を開いた。すると突然、回されていた彼の手が俺の頬を撫でる。ゆっくりと手を滑らせて、口許に降りてきたかと思えば、彼の親指の腹が唇を撫でる。優しく、それでいて艶めかしく。
 俺は見てはいけないものを見てしまったのではないか、と率直に思った。彼の瞳には普段の挑発的な色が窺えず、冷静で冷めた目がそこにある。思考の一つも読めない妙な目付きだ。そのまま俺の何かを堪能しているようで、頻りに唇を撫でるその行動に覚えたものは、戸惑いただ一つ。先の行動が何一つ読めず、次は何が来るのかと動悸が次第に激しくなったのが分かった。
 その先の展開を俺は期待してしまっているのだろうか。彼の胸の中に収まりながら意味深に撫でられる状況がやたら心地好く、どんな展開が待っていても受け入れてしまいそうな自分に違和感を覚えていた。自分はどこまで丸め込まれているのかと疑いたくなるほどだった。

「…………何で起きてんの……?」

 漸く彼が呟いたのは、俺が何故起きているのかということだった。
 先の展開を望んでいたのか、俺はその言葉に若干の失意の念を覚えたが、彼の珍しい顔を見られただけマシだと思い、徐に手を戻そうとする。――しかし、頬やら唇を撫でていた彼の手が俺の手を掴み、そのまま頬に宛がう。「俺のやってることバレたんだけど」そう言って頬に当てていた手のひらに唇を寄せた。
 行動の一つ一つにやたらと色気があるような気がして、俺は一度だけ息を飲む。彼は俺が眠っている間に先程のような一連の動作を楽しんでいるようだ。意味もなく頬を撫でて、意味もなく唇を撫でる。妙に意味がありそうな行動をだ。
 彼は俺の手のひらに口付けを落とすのかと思いきや、そのまま唇を滑らせて手のひらを伝う。目はこちらの反応を窺うように俺をじっと見ていて、思わず手を引き戻しそうになった。
 満月の彼はやたらと誘うような行動が多いのは今に始まったことではない。――そう分かっていながらも、背筋を伝うぞくぞくとした何かが思考の全てを邪魔してくるようだった。

「……目が覚めただけだ。起こしてしまったか?」

 ほんの少し、自分の気を紛らせるように彼に問い掛けた。しかし、彼は未だに意味がありそうな行動をやめることなく、俺の手首に口付けを落とす。――そう言えばする場所によって意味があると風の噂で聞いたことがあった。四捨五入して凡そ三十通りの意味が込められているそうだ。唇は愛情、指先は称賛といったように、する側からすれば何かしらの想いがあるのだという。
 そこで、手首は何だっただろうか。血管が多く、出血してしまえば一溜まりもない、急所の一つでもある手首に口付けを落とされるのは、何の意味があっただろうか――。
 そんな俺の考えを他所に、ノーチェは俺をぐっと抱き寄せて「もーちょい」と小さく呟いた。

「外、全然明るくねぇし……もうちょっと寝ようぜ」

 彼がここまで気を許してくれるのは、俺が好かれているからだと自信を持っていいのだろうか。
 ノーチェは相変わらず俺を抱き締めながら再び寝息を立てた。次こそは身動きが取れないよう、そこはかとなく力強くだ。少し息苦しい――正直に言えばそう答えてしまいそうだが、そこは俺も彼に惚れているのだから、何も言えなくなってしまう。
 女の方が抱き心地が良いだろうに、彼は俺を抱き枕にしながら眠ってしまうのだから、やられた仕返しに声をかける。

「ノーチェ、寝にくいと思うんだが」

 軽く体を揺さぶって意識を起こしてやろうとした。――しかし、彼は目を覚まさない。

「腕が痺れても知らないぞ」

 布団に埋もれている体を手で軽く叩いてやった。――彼はそれでも起きない。

「……ノーチェ、しんどくなってもいいのか」

 多少考えて、回された腕を軽く手で叩く。――すると、彼は渋い顔をして唸り声を上げたと思えば、俺の頭に手を回して徐に撫で回す。「んー」だの「よしよし」だの、検討違いの言葉ばかりを洩らしていて、俺の事情などまるでお構い無しだ。
 違う、そんなものは要求していない。――そう言おうにも体は妙に素直なもので、次第に重くなっていく瞼が酷く憎らしかった。背中を叩く一定のリズムも心地好く、波のように迫る眠気に誘われるよう、「くそ……」と呟きながらも目を閉じる。
 それらしい素振りを見せていたくせに、俺を差し置いて眠るとはいい度胸だ。お陰で変な気分になってしまったではないか。
 俺は流されるまま彼の胸へとすり寄って、半ば自暴自棄になりながらも意識を手放す。その気にさせたのだから、今夜は彼を誘っても文句は言われないだろう。――そう思ってゆっくりと眠りへ落ちた。


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