無意識の行動



 ――それは、何の意図もなく、ただ衝動的に行動に起こしてしまっていただけにすぎなかった。
 気が付けばちぅ、と吸い付いている音が聞こえたのだ。その感触は柔らかく、抵抗の意志も見せないことから、自分が何をしているのか理解するのに時間が掛かった。何だかやけに心地が良い――、とうっとりとした感覚に呑まれていると、白んでいた頭が、霧が晴れるように少しずつ、着実に鮮明になっていった。
 気持ちがいい、なんて当然だろう。茫然とした視界に映る自分よりも少しだけ背の低いそれが、こちらを見て「はあ」と吐息を溢す。その息が口許を掠めて、熱を与えていった。
 熱のこもる吐息。珍しく赤く染まる頬。唇に伝う細い糸がぷつりと途切れたのを切っ掛けに、瞬きを数回。――珍しい表情だとか、可愛らしいなとか、そんなことを考える前に自分から血の気が引いたのが分かった。
 背筋が凍る感覚、というのは恐らくこのことを差すのだろう。
 驚きと戸惑い、混乱が体を突き動かし、咄嗟に彼との距離を空けた。自分が何故それに至ったのかという記憶がなく、思わず口許に手を当てる。距離を空けられた彼はその場に立ち尽くして、暫くすると私と同じよう、口許を拭うように手を当てた。
 結論から言えば、私は何故か彼に口付けをしていたのだ。彼の表情からするに、それはそれは――、それなりのところまでしてしまっていたのだろう。性欲がないとは言い難いが、ここまで手を出す気にはならなかった私は、必死に記憶の糸を辿る。
 ――だが、先程の唇の感触だとか、もう一度したいだとか、風呂上がりの桃の香りがするだとか、余計なことばかりを考えてしまって気が気でない。ともかく今はこの思考をどうにかすべきなのだろう。時刻はもう夜の十時を回った頃だ。彼には寝てもらって、自分はゆっくりと風呂にでも浸かろう。

「…………あの……」

 冷めた空気を裂くように彼が徐に口を開いた。私は思わず肩を震わせて、平常を取り繕うよう、「何だ」と呟く。風呂の用意をしようと彼から目を逸らしていた私は、ちらりと横目でその表情を見ると、どこか迷っているような顔つきだった。

「俺は別に、アンタがそういうことしたいんなら、平気なんだけど……」

 彼はどこか遠慮がちにそう言っているようだ。
 私は思わず「そんなことは望んでいない」と言葉を投げる。――恐らくそれは、嘘のひとつだろう。本当に愛しいと思っているからこそ、彼に肉体関係を強いることはまずないが、胸の奥底では口付け以上の事を望んでいる自分が居るのだ。
 だが、彼はきっとそういう目に遭わされてきた。ろくな抵抗も許されず、上手く逃げることもできずに嫌な記憶を植え付けられたに違いない。――だからこそ私は、その手の類いにだけは手を出さないようにしていたつもりだった。
 ――それがどうだろう。私は無意識のうちに彼に手を出し、彼は困るように眉尻を下げたまま口許を拭うどころか、思ってもいないであろう言葉まで発してきたのだ。私は彼に何を言わせてしまったのだろう――。
 私は咄嗟に風呂の用意を済ませ、彼に背を向ける。「今日は自分の部屋で寝ろ」とだけ呟いて、自室を後にする。足早に浴室に向かって歩いて、その扉を開いて、脱いだ服を乱雑に床に投げ捨てる。
 蛇口を捻って出てくるお湯に、体との温度差が激しくびくりと肩を震わせて、ほう、と息を吐く。長い髪を懸命に濡らして顔を濯ぐ。さあさあと軽い音を立てて降り注ぐその雨に気持ちを落ち着けようと必死で、懸命に至るところを洗う。頭を洗って、体も洗って、手入れもして――漸く湯船に浸かれるのは三十分も以上のことだ。
 乳白色の湯船に肩まで浸かってゆっくりと呼吸を繰り返す。大きく息を吸って、ふぅ、と吐く。見慣れた天井を見つめながらぼうっとしていると、簡単に時間が過ぎてしまうのだった。
 ――そうして思い出すのは、先程の彼の、唇の感触で、思わず自分の唇を指でなぞる。柔らかくてふわふわしていて、吸い付くと心地よい音を鳴らして、その中に潜む艶めかしい舌が、気持ちのいい――。
 ぱしゃん、手で叩いた水面が弾けて飛沫が飛ぶ。自分が今何を考えていたのか気恥ずかしくなって、徐にお湯の中に顔を入れる。息を止めて、目を閉じて、思い至ったように肺に残る息を吐く。ぼこぼことくぐもった音が耳に響いて空気が無くなっていくのが分かる。
 息が苦しい。当然だ、呼吸ができないのだから。生き物は生きるのに呼吸が必要不可欠だ。陸でも水中でも誰もが呼吸をしている。それを止めれば心臓に送る酸素が無くなって死ぬのも当然なのだ。
 ――だから私は目一杯息を止めて、深く、深くそれを吸い込んだ。

◇◆◇

 風呂に入ってからどれほどの時間が経っただろうか。朦朧とする意識の中で着替えた私は、ゆっくりと床を踏み締めて部屋を目指す。夜中の屋敷は随分と静かで、聞こえてくるのは梟の鳴き声くらいだ。彼はしっかり自室で眠ったのだろう、――私の部屋に彼は居なかった。
 それに安堵しながらも覚束ない足取りでベッドへと向かう。ペタペタと鳴っていた足音は止んで、軽い弾力のある絨毯を踏む。そのまま気に入っている布団へ倒れ込み、もそもそと布団の中へと潜り込んだ。
 湯冷めする前に眠りに就いてしまえば何も問題はない。自殺を繰り返すことで記憶を曖昧にした私は周りへ意識も向けず、微睡む意識に身を委ねる。体は重く、足も動かない。恐らく、死ぬことは何よりも体力を使うものなのだろう。
 だからこそ小さく鳴ったその音が何なのか、理解することを止めたのだ。
 不意に顔まで掛けていた布団が捲られる。突然のことに驚く私は肩を震わせて、「うわ、」と間抜けな声を洩らす。――その束の間に両頬を包まれ、ぐっとそれが近付いてきたときにはもう遅かった。

「――!?」

 目一杯に広がる愛しいその顔。しっかりと目を閉じて、先程の行為を真似ているのだろうか――多少角度を変えながら唇を吸う。何をしているのだと言うように抵抗を挟んだが、身を滅ぼしすぎたその体に力は入らない。震える指先に笑いさえ込み上げてくるのだ。
 生温い熱、――それが控えめながら顔を覗かせた舌だと分かる頃には、私は半ば理性を失いかけていた。
 認めざるを得ないのだろうか。私は、彼との肉体関係を望んでいると。この口付けが何よりも嬉しいのだと。自分だけは違うと思い足掻いていながらも、結局は周りとそう変わらない、欲にまみれた生き物なのだと――。
 徐にそれが離れたとき、私は求めていたかのように呼吸を目一杯繰り返す。肺の中に残っていた水を吐き出すかのように勢いよく、それでいて頭に酸素を回すようについ浅く。私は戸惑いさえも覚えているというのに、彼は酷く淡々とした表情のままこちらを見つめている。
 それはまるで私の想いを全て否定しているかのようなものだった。やはり私は、他のものと同じ欲深い愚かな生き物なのだと、彼に諭されているような気がしてならなかった。

「何をする……」

 そんな彼にやっと紡いだ言葉はたったの一言だけ。思わずぐっと袖で口許を拭って彼の返答を待つと、彼は一度目を逸らしたと思えば徐に布団へと潜り込む。「別に」と言い放って、目を閉じて答えた。

「……アンタが嬉しそうな顔、してたから……」

 ――なんて言って、私が眠れなくなるのを他所に、彼は深い眠りへと就いた。


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