他愛ない一日



 目を開く――その違和感に茫然としながら見慣れた天井を視界に入れると、何やら瞼がやけに重く感じる。俺は朝しっかりと目を覚ました筈で、その足で子供達の顔を見ようと歩いていた筈だ。――なのに、何故ベッドの上で目を覚ましたのだろう。
 不思議に思いながら俺は徐に体を起こそうと力を込める。――しかし、思うように力が入らないどころか、意志とは反するようにすっかり力が抜けきったままろくに力が入らない。
 それでも起きてやろうと左腕に無理矢理力を込めると、起き上がる勢いのまま寝返りを打つ。歪んだシーツや枕が漸く視界に入った。朧気な視界にほう、と息を吐くと、更なる眠気が強く襲う――。
 ああ、いけない。起きないと。そう思って俯せになり、上体だけでも起こそうとした。

「こら」

 そう言って頭を小突いた行動に呆気に取られ、多少の驚きを胸に小突かれた方へと顔を向けると、今ではよく見慣れてしまった白い髪が不機嫌そうに揺れた。

「…………ノーチェ」

 そこに居るとは思わなかった存在の名前を呟くと、彼は仕方なさそうにふ、と笑う。彼は外出してしまったものだと信じて疑わなかった俺に、今の彼の存在はそれなりに衝撃的で、思わず瞬きを数回繰り返した。
 その俺の様子がおかしかったのだろう。ノーチェは「何驚いてんだよ」と俺に言い張った。「だって居ないと思ったから」「外で女にでも声を掛けられているのではないかと思っていたから」――なんて言えば、彼はどんな表情をするのだろう。
 俺は咄嗟に「別に」と呟いた。しかし、彼には何もかもがお見通しのようで、嘘吐けと更なる指摘を食らう。俺はむぅ、と唸りを上げながら体勢を戻すと、彼は溜め息混じりに言った。

「お前魔力残ってないだろ。ネアもメアも焦ってたぞ、お前が急に倒れるもんだからな」

 手袋のない彼の手が意味もなく頬を撫でてくる。それに何気なくすり寄りながら、ああ、と現状を理解する。

 通りで片腕の感覚がないと思った。失った片腕を補おうと、所謂義手のようなものを造形魔法で造り上げて、それを無理矢理右腕につけている状態だ。当然魔力を消費し続ける状況にあり、一定の基準を越えると片腕の維持ができなければ、魔力を補おうと体が眠りを求めてくる。
 それらを無視してしまえば、俺の中の本能が目覚める仕組みになる、実に厄介な体だ。

 彼の口振りからして俺は子供達の目の前で気を失ってしまったのだろう。慣れない事態にあの子達は慌ててノーチェを呼び戻して、回らない頭で現状を説明したに違いない。有難いことに、特に娘は俺のことを好いてくれている。この頭の中に響く啜り泣く声も、恐らく彼女のものだろう。
 随分と心配を掛けてしまったな。――そう言おうとしたが、頬に添えられているノーチェの手のひらがやけに心地よく、いつしか思考の半分がそれに占められていた。
 温かくて、到底人殺しと思えない優しげな手のひら。俺の好きな匂い――そう思っていると、不意に彼の手が俺の頭へと回る。

「……あんま無理すんなよ。また起きないかと思って不安になるから」

 彼はそう言って額を合わせて頭を撫でる。その表情からするに、彼もそれなりに俺を心配してくれていたようだ。やはり殺人鬼なだけあって、彼は隠すのが上手い。よく見せてくれるのは可愛らしい笑った顔であって、悲しげな表情など特に見せてくれない。
 その不安げな表情に俺は思わず嬉しさを胸に抱いて、残る手で彼の柔らかな髪に触れる。「よしよし」だなんて呟いて、ノーチェの不安を拭ってやるように頭を撫でてやる。
 それに彼は苦笑を洩らしながら「よしよしって何だよ」と呟いた。――彼はペット扱いが嫌いだ。それを思い出したように俺はハッとして、「悪い」と手を離そうとする。

「……もう少し撫でろよ」

 高圧的な態度が手に取るように現れたノーチェに、俺は口許を緩める。彼は何か可笑しいのかと言いたげに首を軽く傾げたが、彼に悟られまいと頭に回している手に力を込める。彼のその態度が俺にとってただの甘えでしかないと気が付かれないように。
 彼は俺の意図を汲み取るのが上手かった。それは今でも変わらない。頭に回された手に残った力が込められたと知るや否や、俺が何を求めているのか気が付いていて、その綺麗な顔をぐっと近付ける。
 目を閉じて受け入れたそれはやはり柔らかいの一言に尽きた。本来ならば深みを求めるよう、貪ってやりたいところだが、日が高いうちは俺のプライドもそれをよしとしない。別れを惜しむよう、ゆっくりと丁寧に離れる顔をぼうっと見つめていると、ノーチェが笑う。

「何かを誤魔化すときにキスをねだんな」

 その口振りとは裏腹に嬉しそうな表情が何よりも目を惹いた。時折年齢に相応しい笑みを浮かべたと思えば、こうして子供らしさを残したあどけない笑みを浮かべてくるのだ。俺は、そんな彼が可愛らしいと思ってしまう。
 ――それに気が付いてしまったのか、ノーチェは軽く俺の頬をつねると「その顔は俺を子供扱いしてるときの顔だな」と悪戯っぽく笑った。

「はあ、バレてしまったか」
「実際に子供が居ても俺まで子供扱いするんだもんなぁ」

 俺が肩を震わせてくつくつと笑うと、彼は眉を顰めながら腕を組み始める。よく見ると彼はベッドの近くに椅子を持ってきて、そこに腰掛けているようだった。
 一人で使うには大きすぎるベッドを占領してしまっている俺は、妙に申し訳ない気持ちに駆られる。「……悪いな」と再び呟いた言葉に、彼は「ん?」と言った。
 ――朝からどれくらいの時間が経っているのだろう。彼は自分の時間をどれほど俺に費やしてしまったのだろう。――重く募る胸の奥の蟠りと同時に、ノーチェが俺を見ているという特別な優越感が身に染み渡る。
 この感情はきっと、よくないものだろう。――咄嗟に隠すように「二人を呼んできてくれるか」と彼に言う。

「顔を見せてやらないと怒られてしまいそうだ」

 それにノーチェは何かを思い出すように軽く天井を仰いだかと思えば、「確かに」と笑って言った。
 ――勿論俺が子供に、特にネアにこっぴどく怒鳴られたことは言うまでもないだろう。


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