Wirst du mich lieben?



 後退する度に一つ一つと確かに歩み寄っていく。地に這う虫を足で踏み潰していくかのような奇妙な威圧感を放ちながら、怯えた表情の人間をゆっくりと追い詰めていく。「貴方達のやり方には付いていけない」と目の前のそれが言ったような気がした。男は金の瞳を輝かせながら微かに首を傾げ、「主を否定するつもりか」と小さく呟く。両手は長いコートのポケットの中へと収められている筈なのに、どういう訳か、相手は首を絞められているかのような息苦しさを覚えていた。
 それでも抵抗を見せる身内に、身内だったものに男はほう、と息を吐いて諦めを見せないことに感心する。大抵の人間であれば自分より強い存在と直面した時、心が折れる筈なのだが――不思議と、目の前のそれは強い意志を持ち続けている。何か言いたげな目をしていて、徐に目を細めると、拘束から解かれたようにそれは深く息を吸った。

「流石、貴方の主人が幼児退行しているだけある……ここはやり方も、貴方も、貴方の周りも、貴方の主人も、何もかも……頭を疑いたく――」
「もう良い」

 それの話を男は黙って聞いていたが、「幼児退行」という言葉を聞くや否や顔色を一変させる。何色にも染まらない無表情が、たったそれだけの言葉で微かな怒りを帯びた。もう良い――そう呟いた瞬間、それの背中を鋭利な凶器のように貫く影と、正面を黒の手袋を外し、男が胸を貫く。どういう原理かは解らない。ただ、鋭利な影を纏ったかのように、その手は胸を貫いて――更にはそれの心臓を鷲掴みにしている。
 まるで化け物宛らの妙な技術に、それは為す術も無く意識と命を手放した。「そう死に急がなくても殺してやる」と男は体から心臓を引き抜くように強く引き寄せて、微かに動いている心臓と血管を切り離す。心臓を失った血管からは大量の赤い血液が溢れ出してきたが、それすらも男は気にも留めず、鷲掴みにした柔らかな臓器を自分へと引き寄せて――強く握り潰した。心臓の中にある血液が男の顔を、服を汚したが、それをも気にする事がない。いや、感情を殺しているかのような表情では何かを考える暇もないように見える。
 男は命を失ったそれの体を一瞥して、足で頭を転がしてみる。ごつごつと硬さの伝わる頭部はただでは破壊しきれないだろう。

「……感情を……」

 感情を殺せ、と男が小さく呟いた。余計な感情を捨て去って、裏切り者は抹殺するべきだ。それが主を守る一つの手段だ――そう呟いて男は自身の魔力を小さく解放すると、それを足に纏わせながら足を振り上げ、煙草の吸い殻を踏み消すような心持ちで力いっぱい足を振り下ろす。
 ほんの一瞬、男の足の裏には頭特有の硬い感覚が伝わったが、それも束の間。力を纏ったそれは頭蓋骨など卵の殻のように、いとも簡単に踏み壊す。中のものさえも貫く勢いであった。血液に混じって液体と共に溢れた柔らかな脳みそは男によって四散して、神経に触れられた生き物だったものの体は一瞬だけ飛び跳ねる。
 男にとって身内だった筈のそれは裏切り者へと転じてしまって、主人へ楯突く暴挙を決して許せない男はそれを「生き物である」という認識を棄てる。主人へのあるまじき行為を男が見逃せるはずもない。身の危険が及ぶ前に一切の感情をかなぐり捨て、それを「断罪」という形で殺め続ける――。それが、自分にどんな影響を及ぼしているかだなんて、考える暇も無い。ただ冷めていく体に鞭を打つように生きていたそれを八つ裂きにして、「身内であった」という意識と共に体に穴を開けていくのだ。
 手袋を外していた血塗れの手を一舐め――金の目が煌びやかに輝くその視界は、一体何色に染まっているのだろうか。ふと、それだったものに手を伸ばして「頂きます」と小さな呟きを洩らす。すると、暗闇に沈む隅から這うように黒が押し寄せてきて――。
 ――気が付けば大粒の雨が降ってきていた。男は茫然としながら空を仰ぎ見る。酷く薄汚れた鈍色の空だ、そこから落ちてくる雨粒は体中にこびり付いた赤い血を洗い流してくれるようで、被っていたフードを静かに取る。頬に付着した赤い血液が雨水と共にじわじわと垂れていて、「不味いな」と小さく言葉を洩らした。

「…………不味い……」

 そう言って口元を拭いながら踵を返す。あった筈のそれの死体は、どういう訳か闇に呑まれたかのように、薄暗い地面には何も残されていなかった。

◇◆◇

 雨脚が強くなる中、白髪の男が窓の外を眺めている。外はちらほらと街明かりが灯されていて、雨さえ降らなければそれなりに見映えが良い筈だった。それを夜の空のように彩られた、通常の瞳とは異なる色の反転した瞳で茫然と眺めて、ソファーに凭れ掛かる。――かと思いきや、何か気になる事があるようで、すぐに席を立って窓辺へと近付いた。
 微かに血の匂いがすんな――雨に掻き消されて殆どの匂いが紛れる中、いやに血の匂いに敏感な彼は眉を顰めて暗い外を見やる。夜に慣れたようなその目は暗闇に負ける事もなく、仄かに見える景色を脳に直接伝えている。雨が降っている、外に出る人間は殆ど居ない、街明かりが次第に消えていく――それでも慣れた鉄の匂いは、不信感を拭えなかった。
 血の匂いが漂うのは珍しい事ではない。敵対する世界に落ちてきた身である彼――もとい、ノーチェは特別その匂いが街中で漂う事に不信感を抱かなかった。一歩外へ出れば少なからず微かに香る。それは、大体同胞の体から匂うものだ。返り血か、手傷を負ったか、それだけの事。昼であれば尚更強くなるものだ。
 ただ――そう、気になるのは「血の匂い」だけではない。「血の匂いがする時間帯」だ。正確な時刻など特に気にしていないが、本来夜になればなる程、その匂いは絶対的に消えていく。理由としては簡単だ。人間は、夜に風呂に入るという先入観があるからだ。ノーチェも勿論例外ではない。それどころか多少の気遣いから香水をつける程だ。そこから血の匂いなど、必然的に抑えられる筈なのだが、今日という夜は雨に混じり、漂うそれがいやに気になった。

「それもこっち側の街に――……ん、あれ……」

 ノーチェの居る街には身内を大切に扱うボスの存在が居る。そうである以上、夜に血の匂いがするなんて事はあまりないのだ。――と、思った矢先、ノーチェは雨で濡れる窓ガラスの先に微かに揺れる人影を見付けた。それは、まるで闇に溶けてしまいそうな程の黒を纏った、遠くから見ても高い身長の男。そう、身内をやたらと大切にするボスのクレーベルトだ。それが何故か雨が降る夜の街でゆっくりとした足取りで歩いていて、自室へ戻るようには到底見えない。
 余裕綽々として、毅然とした振る舞いを絶やさなかったクレーベルトが夜が更ける雨の中で呆然としながら歩いている――ノーチェはそれに気付くや否や咄嗟に表に出てそれに駆け寄った。左右非対称の髪を整える間もない。況してや、タンクトップの上に上着を羽織るというまともな思考も働いていない。ただ、次第に濡れていく体に嫌気が差して「また風呂に入らなければ」と思うだけだった。

「どうしたんだよ、ベル……」

 石畳の床を踏み締めると水が跳ねる音がした。木々に降り注ぐ雨の音も、石畳に落ちる雨の音も酷く煩わしく思えたが、吐息のように洩れた彼の呟きは聞き逃しやしない。ああ、そう呟かれた言葉はやけに小さく、ノーチェを見下ろしているその表情は無表情というよりも、どこか寂しさを募らせているように見えた。
 長い間雨に打たれ続けていたのだろう。クレーベルトの服はもう随分と濡れてしまっていて、髪から滴る水の量はノーチェのものよりも遥かに多い。夜の所為か、雨の所為か、はたまたクレーベルトの元気さが窺えない所為か――彼の顔色はいやに悪く見えて仕方がない。思わず「何かあったのか」とノーチェは頬に手を伸ばすと、自分を疑いたくなる程の感覚に見舞われる。――氷のように冷たい肌が、ノーチェの手を襲っていった。

「……いや………………何でもな……」

 今すぐにでも掻き消されそうなその声の後、伸ばされた手に一度瞬きをする。そして、その手の温もりに緊張が絆されたかのようにほんの少し俯いて、ずるずると落ちるようにクレーベルトはノーチェの肩に頭を乗せた。やたらと冷たい感覚と、雨に濡れた髪の毛が素肌を這うような気味の悪さを覚えたが、いつもとは様子の違うクレーベルトに彼は息を呑む。そして、気が付いてしまった。雨に紛れて血の匂いがクレーベルトからする事に。
 嫌でも慣れてしまった赤い血の、錆びた鉄の匂い。鼻を突いて目を覚まさせるようなその香りが頬から、衣服から強く匂う。普段は滅多に血の匂いを付けて帰って来ない彼なのだが、何かあったのだろうとノーチェは徐に頭を撫でてやる。すると、不意に弱音を吐くように「疲れた」と言葉が呟かれた。

「……大丈夫か」
「……疲れた……もう何も、何も考えたくない……」

 それは、口にした所を聞いた事のない言葉の一つだった。疲れた――そんな言葉がノーチェの頭に反響し、木霊し続ける。力無く寄り掛かってくる大きな体に対し、妙に幼く思える精神が露頭しだしている。疲れたと口にした事がないのではないかと思う程、疲労を訴えないクレーベルトが呟いてしまったそれに、ノーチェは微かな不安さえ覚えた。
 何も考えたくないと呟いた途端、素肌に当たる額が異様に冷えたような気がした。氷のように、死人のように冷めていて、雨の所為で冷えたのではないと分かるような冷たさを湛えている。それが、彼にとってどこかへ消えてしまいそうだ、という不安を誘ったのだろう――ノーチェは無意識にクレーベルトの肩を抱いて、「戻んぞ」と呟く。

「んで、風呂入って、温まろうぜ」

 ノーチェが呟いたそれに、クレーベルトは反応を見せる事がなかった。

◇◆◇

 やたらと造りがよく黒光りする浴槽に湯を張って、真っ白で甘い香りのする入浴剤を入れて掻き混ぜる。そんな動作を取って「ん、出来た」なんて呟くノーチェは傍から見ればあまりにも似合わない印象を受ける。髪を結わいて風呂の出来を見て、――風呂の造りを見て「やたら良い造りだよなぁ」なんて口を洩らしてみる。普通なら白い浴槽も、この浴槽は黒くて、高級感を味わえる。まあ、ベルなら分からなくもないか――そう苦笑を洩らして、風呂場を後にする。
 ほんの少し歩いた先、いやに高級そうな扉の前に立ってノックを数回。返事もなく扉を開ければ、必要最小限に抑えられた家具と、天蓋付きの大きな寝具が目に映る。その寝具の上にクレーベルトは力無く仰向けに倒れ込んでいて、寝ているのかどうかというところだ。
 そんなクレーベルトにノーチェは刺激を与えないように近付いて声を掛ける。「ベル、出来たぞ」と、頬に手を添える。雨に濡れた所為か、はたまた別の問題か――冷め切った体温はノーチェの温かい手には刺激的で、咄嗟に手を引こうとする反射を抑え込む。それにクレーベルトは徐に目を開くと、分かった、と体を起こした。惜しむような気持ちで手を離すノーチェの表情が微かに曇る。

「俺、一回戻るから」

 ほんの少し躊躇いの混じる声色だった。やたらと弱っているクレーベルトをこのまま放置してしまえば一体何が起こるか分からない。一向に戻らなかった体温も放置したままではどうなってしまうかも定かではない。――しかし、ノーチェはどうしても気になってしまったものがあるのだ。
 体を起こして以来一向に動く気が無いのだろうか。クレーベルトは項垂れたまま微動だにしない。肩から垂れる髪は依然濡れたままだった。ろくに体も拭いていないのだろう――じっとりと湿っている寝具のシーツには皺が刻まれていて、乾かさないと不快極まりない事になってしまうだろう。
 ――それでも彼はどこか魂が抜けてしまったかのように力無く項垂れたままで――「ほら、行くぞ」とノーチェは咄嗟に手を引いて半ば無理矢理クレーベルトを立たせる。

「う」

 突然の出来事に言葉を洩らしたクレーベルトだが、それに抵抗する意思はないように見えた。引かれるがまま歩いて脱衣室へ向かうと、ノーチェは再び「一回戻るからな」と言い聞かせる。

「すぐ戻ってくるつもりだから、ちゃんと風呂入っておけよ?」

 子供に言い聞かせるような口調であったが、何故かそうでもしないとクレーベルトは風呂に入りそうになかった。小さく指を差してじっと目を見つめれば、彼は小さく頷いて――言葉は出さなかったものの――了解の意を示す。それに安堵したノーチェは微かに息を吐いて、扉の向こうへと消えていく背を目で追いながら脱衣室の扉を閉める。パタン、と小さく閉まる扉の向こう、彼は茫然としながら服を脱いでいるのだろう。
 「当分あのまんまだろうな」なんてノーチェは呟きを洩らしてクレーベルトの無機質な部屋を出る。人目を避けるかのような角の部屋、優遇されているかのように周りの環境は良く、夏場は心地良い。そんな部屋を後にして彼が向かった先はクレーベルトと会う前に居た自室。扉を開けて何をするのかと思えば向かった先は小さな棚で、徐にそれを開いて取り出したものは袋に包まれた小さな小瓶――男物の香水だった。
 匂い移りを配慮した小さな行動。見た目と性格からすればらしくないの一言に尽きるが、それでも物への匂い移りは誰でも気にするものだ。それを彼は微かに握って、徐に顔へと寄せる。身に染みた香水の香り――それは、血生臭さを消そうと思い至った行動の一つだった。
 目を覚まさせるような鼻につく香り。あの匂いがクレーベルトからするのが妙に不快で、彼は香水を取りに来たのだ。元より血生臭さが得意という訳ではない。中にも血の香りに興奮を覚える人間がいることは確かだが、ノーチェは特別血の香りに興奮するタイプではない。でなければ香水に手を出す事もなかっただろう。
 クレーベルトを半ば無理矢理風呂へ押し入れたが、風呂で匂いが取れるかは定かではない。気休め程度でしかないだろうが、寧ろ自分が使っている香水を彼につけることで血の香りが紛れ、尚且つ同じ香りを纏えることに多少なりとも満足感は満たされ、不快感も消え失せるだろう。
 そうと決まればノーチェは何も言わないまま踵を返し、惜し気もなく自室を後にして足早に歩いていく。普段のクレーベルトならば風呂に一時間以上も費やしてしまうのだ。クレーベルトの部屋を出てから数分、若しくは数十分――普段から言えば彼は未だ悠然と湯船にでも浸かっている頃だろう。それどころか気が抜けすぎてうたた寝でもしているのかも知れない。それはそれで酷く困るものだ。
 ノーチェは香水を片手にほう、と息を吐くといやに高級感漂うその扉に手を掛ける。ぐっとノブを引いて、開いて誰も居ない空間を期待していた。

「…………なっ……」

 目の前の光景に衝撃にも似た驚きが広がっていて、ノーチェはつい大袈裟な声を上げる。――いや、彼にとっては大袈裟ではないのだろう。何せ、普段は風呂に一時間以上費やす筈のクレーベルトが茫然としたまま部屋の中央で立ち尽くしているのだから。
 ノーチェの声に気が付いたかのようにクレーベルトはゆっくりと顔を向ける。酷く眠たげな色違いの瞳、全身の力が抜けてしまったかのような気怠げな表情。どれをとっても「らしくない」の一言に尽きてしまうような、弱々しい姿がそこにある。奇襲にでも遭えばそのまま命を投げ出してしまうのではないか――そんな気持ちに駆られてしまう。
 彼は咄嗟にクレーベルトの元へと駆け寄った。扉が見えない何かに押されたように、けたたましい音を立てながら強く閉まった。それすら気にも留めずノーチェは「温まったのかよ」とクレーベルトの頬に手を伸ばすが、依然彼は死人のように冷たい肌を持っていたままだった。

「全然温まってねぇだろ……ちゃんと浸かったのか……?」

 仄かに漂う桃の香り。桃の香りがするボディーソープを好むクレーベルトからするのだ、彼は体を洗うまでは良かったのだろう。――しかし、ミルクのような甘い香りがこれっぽっちも漂ってこない。つまり、彼は湯船には浸かっていないという考えが出来てしまう。ノーチェが温まれと言ったにも関わらず、クレーベルトは温まる事を選ばなかったのだ。
 クレーベルトの表情は依然死人のように固まったまま、ノーチェさえも道端に落ちている石を見つめるような瞳で見つめていて、それでもまだ感情があると裏付けられるのは、伸ばされた手に小さくすり寄ったからだろう。湯船に浸かっていない所為か、仄かに漂う桃の香りだけが脳裏を過る。その裏に潜む、錆びた鉄の匂いが――。

「…………まあ、無理にとは言わねぇから、取り敢えずこれでもつけとけ」

 不意に思い出したかのように、懐から取り出したものをノーチェは部屋着姿のクレーベルトの露わになっている首筋へと伸ばす。ひやり、ノーチェの手に彼の肌の冷たさが手のひらを滑る。
 本当に生きているのかと問いたくなる程であったが、相手は息をしている人間の姿を持った存在だ。クレーベルト自身がいくら自分を「人間ではない」と言おうが、ノーチェにとっては同じ人間だった。その彼から自分と同じような香りがする――奇しくもそれは、今まで胸に募っていた蟠りを掻き消すようなものに思えた。

「………………?」

 クレーベルトは何も言わなかった。代わりに、首元から離れるノーチェの手を追い、自ら顔を近付ける。その行動はまさに動物そのものと言わざるを得なかった。猫に指を差し出せば一度匂いを確認するように、クレーベルトもまた手についた香りを追っていったのだ。
 それが人ではないと言えてしまうように見えたのだろう。幾らか複雑そうな表情を浮かべたノーチェであったが、いちいち気にしてはいられないと表情を戻し、静かに頬に手を滑らせる。「香水の匂いする?」なんて聞いて、肌の滑らかさを改めて痛感するや否や、唐突に息を呑む。――あまりにも急だった。そして、やはり違いを突き付けられているようだったのだ。
 彼が見つめた先、頬に添えていた筈の手が成人男性よりも強い力で引き寄せられている気がした。実際はなんて事はない――ただ、手首が掴まれて半ば無理矢理口元へと引き寄せられているだけだ。その引き寄せた手に、クレーベルトが何故かゆっくりと舌を這わせて、ほんの少し呼吸を乱している。口の端から覗く犬歯は鋭く、噛み付かれたら一溜まりもないのではないかと思える程。
 ――だが、ノーチェが一番に驚いたのはクレーベルトの行動そのものではなく、彼の瞳だった。普段血のように深い赤みのあるクレーベルトの瞳が、煌々と、青く澄み渡っていて、まるで透き通る冬の青空のような色を湛えているのだ。
 ベル、と咄嗟に出てきたのは彼の愛称で。そう呼ばれたクレーベルトは一度動きを止めるといやに悔しそうに眉を顰め、「すまない」と口を溢す。それは、普段のように気品溢れているものではなかった。悔しそうに、それでいてどこか泣きそうな顔で、彼はノーチェの手を小さく握り締めて、呟く。

「一つ……俺の頼みを、聞いてくれないか」

◇◆◇

「……そんなんで十分なのか? それで戻んだな?」
「…………十分だ」

 人一人が使うにはあまりにも大きい寝具の端に腰掛け、ノーチェは自分の首筋に触れる。クレーベルトか呟いたのは「口の中の不快感が拭えないから貴方の血が欲しい」という事。ノーチェ自身、何故不快感を拭うのに血が必要なのか理解していないが、クレーベルトの様子が戻るなら何だって良かった。
 非対称的な髪がノーチェの肩に流れるように垂れている。齧りつくのには少し邪魔だろう、と無意識のうちに動脈が隠れている首を晒す。程好い筋肉がついた、齧り甲斐のありそうな首筋が露わになる――同時に、微かに俯いていた筈のクレーベルトの顔が変わる。青い瞳が獣のように鋭く爛々と輝いているような気がした。

「これで……――っ!?」

 それは突然の事だった。「これで良いのか」と問い掛けようとした矢先、クレーベルトが勢いよくノーチェに飛び掛かる。目の前の餌に耐えられなくなったかのように思いきりが良かった。それが、何故か遅く感じて、ノーチェは首筋に当たる生温かな吐息を確かに感じたのだ。 
 地肌に伝わる感覚は針を指に差すような痛みとよく似ていて、チクリと一瞬の痛みが全身に行き渡る。それほど控えめな行為でしかなかった。それどころかほんの少しの擽ったさまで覚えてしまった程だ。飛び掛かる程に勢いが良かったにも関わらず、かなり抑えたであろうその行動にノーチェは微かな疑問さえも抱いた。今にも齧りつきそうだったくせに、最小限に抑えられたそれに、自分に対する遠慮さえも覚えてしまった。
 ノーチェの近くで喉を掻き鳴らすような音が聞こえてくる。ほんの少し、小さくではあるけれど飲み込んだような音だ。クレーベルトの犬歯が肌を突き破り、溢れ出た血液が喉元を通って体の中へ入ると思うと、彼の中を内側から侵食していくような妙な感覚が得られると共に、ノーチェは視界に入る色白い肌を眺める。
 常時着込んでいるコートやベストを脱いで部屋着として着ているブイネックは、普段見えないクレーベルトの首元を露わにしていて、女に負けず劣らずの妙な色気を湛えているように見える。いつものように着込んでいて、尚且つ椅子に座っている印象が強いのか、獣のように飛び付いて縋るように回される手にノーチェは微かな優越感を抱く。――こいつが縋れるのは俺だけなのだ、と。
 ――同時に露わになったその首元にそそられてしまって、徐にノーチェから離れるクレーベルトを彼は見つめながら「もう良いのか」と言う。

「……ん。ただ、少し……口直しがしたかっただけだ」
「口直し、ね」

 ノーチェから離れたクレーベルトは口許を拭って肩の荷を下ろすようにほう、と息を吐く。ノーチェはクレーベルトが呟いた言葉を噛み締めるように復唱して、ふと顔色を窺った時に瞳の色が澄み渡る空の色から、酸化した血の色のような赤に変わっているのに気が付いた。――ああ、少し勿体ないなどと思うと同時、垂れる黒髪の隙間から覗く肌がノーチェを誘う。
 生唾を飲み込む行為をクレーベルトは見てしまったのか、微かに首を傾げて「どうした」と問う。具合でも悪いのかと言いたげにほんのり眉を顰めた。ノーチェは咄嗟に「大した事じゃない」と言ったが、クレーベルトは気になって仕方がないと言うように彼をじっと見つめている。

「………………あの、すげぇ言いにくいんだけど」

 彼はクレーベルトの視線に押し負けてしまったようで、微かに顔を俯かせながら申し訳なさそうに口を洩らす。視界の端にクレーベルトがつけたであろう傷痕から溢れる血液がゆっくりと垂れていく。止めようと思えば止められるのだが、それを見ては余計に欲が増していくのだろう。
 「俺も、欲しいんだけど」小さく呟かれた言葉はクレーベルトに届ききらなかったようで、男は小さく「ん?」と口を洩らす。

「……俺も……欲しくなった……ん……だけど…………」

 目線をクレーベルトの首元に落としてノーチェは自分の欲深さを戒めるように唇を噛み締める。クレーベルトがやたらと落ち込んでいたから慰めるつもりだった、自分で出来る事で彼が元気になるのなら見返りは要らなかった、酷く疲れた様子だったから休ませてやりたかった――筈が、クレーベルトを裏切るようにそそられてしまったのだ。
 その自制の利かない欲が口から溢れる言葉に自信を無くしたようだった。途切れ途切れに紡がれた言葉はクレーベルトにとってほんの少し衝撃的だったようで、小さく目を丸くする。――しかし、彼に求められると思えば不思議と胸の奥の何かが満たされたような気がして、申し訳なさそうなノーチェとは裏腹に、クレーベルトは微かに喜んでしまった。

「ん」
「……ん?」

 寝具に座り込んだままのクレーベルトは徐に両手を伸ばし、「おいで」と言わんばかりに抱擁を求める。その行動に理解が追い付かないノーチェは瞬きを数回繰り返したが、クレーベルトの意図を察するように口を微かに開いたかと思うと、「いや」と手で制止する。
 「いや、そんな訳にはいかないから」そう言おうとして――それは口の中に押し留められた。クレーベルトはノーチェの言葉を呑み込むように彼を抱き寄せた後、宥めるように頭を撫でる。体を案じてくれるような言動が嬉しいと言わんばかりに弧を描く唇は冷えていた頃よりも血色が良く、抱き寄せられて感じる体温はかなり温まったと言えるだろう。その体温の良さがノーチェの背中を押したようで、彼はクレーベルトの首筋に唇を押し当てると、ゆっくりと唇を開いて、焼けてない白い肌に齧りつく。

「ん……」

 鋭い犬歯がプツリときめ細かい肌を貫く感覚が二人に伝わる。一瞬ではあるが、鋭い痛みが身体中に駆け巡った所為だろう。クレーベルトは微かに声を上げたかと思えばノーチェの服を強く握る。それを知っているのか知らないのか、ノーチェは一度歯を抜いて傷口から溢れるクレーベルト独特の黒い血を舌で掬うように舐め、頬張るように傷口を含む。
 クレーベルトの血液は不思議なもので、無機物である筈のものに命を与える作用があった。それは生き物にも通用するのか定かではないが、不思議と旨味が違うものだとノーチェは言う。「血液に美味いもあるものか」と疑念を抱いていたクレーベルトだったが――今回の一件でそれを理解してしまったようだった。
 口に含んだノーチェの血は赤く、そして美味い。つい先刻自分を裏切った者を喰い荒らした時よりも遥かに。口直しと言うにはあまりにも美味で、理性が無ければ貪ってしまっただろう――。

「…………なあ」

 不意にノーチェが顔を上げて男に話し掛けた。クレーベルトは「何だ」と彼の背に腕を回したまま答える。

「何してるか分かんねぇけど……そうなるくらいだったら、せめて俺に言ってくれよ。もっとベルに必要とされたい」

 あまりに切実な願いにクレーベルトは微かに眉を顰める。しかし、それもまた一瞬であって、はにかむように「駄目」と彼は言う。
 それはクレーベルトなりの気遣いだった。男を除く住人は皆「外」から来た人間なのだ。いくら今敵対していても、身内であっても、人間は情が湧くもの。観察対象である人間の馴れ合いや関係など簡単に見て取れる。いくらクレーベルトの下についてるからと言って、仲の良い人間を殺せと命じられたらどうなるか分からない。仮に命じたとすればノーチェは殺すのかも知れないが、クレーベルトがその後の彼の様子を見たくはないのだ。
 だからこそ駄目だと告げた。自分がこうなる程の事を彼にさせたくない一心だった。それをどう捉えたのか分からないが、ノーチェはほんの少し悔しそうに歯を食い縛って「そんなに頼りねぇかよ……」と小さく言葉を洩らす。頼られない事に対する怒りと、どこか期待していた分降り注ぐ虚しさが彼の胸を突いてくる。それにクレーベルトは勘違いされていると知って、「違う」と言った。

「頼りなくない、寧ろ頼りにしているよ」
「じゃあ何で」
「こうなるのを見たくはないのだ。俺と同じように、沈む様を。俺は恐らく何も出来ないだろうから……この手は、命を奪うことくらいしか出来ないからな」

 その気遣いは確かに男の優しさだった。甘えたがりで優しい男の手が命を奪うことしか出来ないなどと、どの口が言えるのだろうか。縋るように背に回された手が殺すためのものなどとは到底思えない。

「…………そんな事」

 あるわけないだろ――彼はそう言おうとして、言い出せなかった。言おうとした瞬間にクレーベルトはノーチェから離れたかと思うと、徐に頬を引き寄せて口付けを交わす。「何も言わなくて良い」と言わんばかりのそれにノーチェは紫と金が居座る瞳を丸くして、妙に柔らかく微笑むクレーベルトに息を呑む。
 口付けをした男は離れたのを良いことに彼の目の前で寝具に寝そべると「今日はしないのか」と問う。突拍子もない話と、唐突な口付けに反応が鈍くなっているノーチェは「……え?」と間抜けな声を洩らすと、クレーベルトはゆっくりと彼に足を擦り寄せる。

「抱いてはくれないのか」
「……俺、流石にあんな状態のベルを抱くとか……全然…………」

 そんなつもりはなかった。そう言い切ったにも関わらず、妙な艶かしさを湛えたクレーベルトは欲しがるような瞳でノーチェを見つめる。ただ胸に募る虚無感を失いたい、何もかもを忘れてしまいたい――そんな願いもあるが、愛されたいという欲の方が勝るものがある。
 そんなクレーベルトを見て「何つー誘い方すんだよ」と口を溢しかけた。男の手が自分自身の服を捲るように腹を、胸元を這って、ノーチェを挑発するように「ただ、貴方で満たされたいのだ」と呟く。

「――Wirst du mich lieben?」

 その言葉の後に、寝具が一際大きく軋んだ気がした。


前項 | 次項

[ 35 / 50 ]
- ナノ -