移り香に嫉妬の情



 つい、と首元に顔を寄せて漂う香りにほんの少し眉を寄せた。筋肉のついた腕を掴んで更に確認するように、唇が首に当たるのも気にせずにそれを確認する。普段ならしないようないやに甘い香り――、女独特の香水の匂いに、彼の香水の匂いが押し負けているような印象を受けてしまった。
 「何だ」と言いかけるその唇を指で塞いで、顔を離して徐に顔を向き合わせる。綺麗に整ったその顔立ちは女受けが良いのだろう。彼の性格上、男女の営みというものに対して女は満足しているに違いない。あまつさえ双方留まることを知らないのだ。俺はそれを止める理由がないと言って許しているが、女独特の匂いを付けられる事に酷く嫌気が差した。

「………………くさい……」
「くさ……!?」

 「女臭い」後に付け足すように小さく呟けば、彼は夜空のように瞬く瞳を丸くさせてから確かめるように自分の体へ顔を近付ける。「そんなに臭いか……?」なんて口を洩らす辺り、本人からすれば言うほどの香りではないのだろう。しかし、人の道から外れている俺としてはその香りが嫌になる程鼻についてしまって。俗に言う「女座り」の体勢を取って「匂う」と呟いた。

「匂うって……犬じゃあるまいし……」

 彼は子供のように微かに笑って「気にする程でもないだろ」なんて言うようだった。だが、俺の顔を見や否や一度瞬きをして「……嫌か?」と頬を掻く。

「………………嫌……馬鹿」
「おっ……」

 相も変わらず手のひらの上で転がされるような感覚を得ながら、徐にその体を押し倒す。俺が何かしようとしているのが知っていてか、それとも知らずか――ノーチェはされるがままにベッドの上へと静かに倒れると、俺と目を合わせる。微かにベッドが軋んだ音が鳴った。
 いやに魅力的な男が何をすることもなく俺の下に大人しく寝そべっている。しかし、その表情は小さくほくそ笑んでいて、更に俺の頬に手を伸ばし「何してくれんの?」なんて言う。
 時折傷の付いた体ではあるが綺麗な体だ。胸元の紋章に指を滑らせると同時にノーチェの指が俺の唇を滑る。何をする訳でもなくただ目を胸元、首筋、瞳――と配らせながら何かすべきかを茫然と考えていた。夜の暗闇に染められる彼は昼間見るよりも遥かに色気があり、また違った恍惚の情を得る。
 そう夜に認められた男の体に魅入られていると、不意に自分の体を支えるために布団の上に着いた手に、手が覆い被さってくる。手の甲に浮かぶ節がとても印象的だ。骨張った男らしい手が、そう言えば俺は好きなんだとじっと見つめていた。

「……おっせぇ」
「……!」

 唐突に後頭部に手のひらが添えられ、そのまま引き寄せられる感覚があった。咄嗟にノーチェの体に滑らせいた手を布団の上に着いて体を支えたつもりだったが、あまり上手くいかなかった。――と言うより、彼の力に敵わなかったのだろう。引き寄せられた顔はそのままノーチェの元へと落ちていって、柔らかな唇が貪るように吸い付いてくる。突然の事に目を閉じていない俺は眼前に広がる綺麗な顔を見ていながら、覆い被さった手が強く握られている事に痛みを覚えていく。深みを求めるように頭に回された手が微かに強められた気がした。
 顔が綺麗だとか、ゆっくりと離されて開かれる目が綺麗だとか、更に次を求めて欲しいだとか――そういう感覚を全て置き去りにして、微かに目を丸める俺にノーチェは「何かしてくれんのかと思った」と小さく笑う。髪の隙間から見えたピアスが美しく煌めいた。それは、ノーチェ自身の妖しさを全て暗示しているような煌めきだった。
 ほう、と息を吐く。魅入られた挙げ句全てを奪われたように力が抜けて、思わずノーチェの体に倒れ込む。俺のような偽りではなく、柔らかな人の温もりと命の鼓動を感じたのだ。妙な安心感が胸の奥に募る。

「……んで、どーすんの?」

 ふと、横になった俺にノーチェが頭を撫でる。どうするか、なんて俺に決定権はないが――、やはり鼻を掠めるその匂いが嫌で嫌で仕方がない。思わず首元に頬を、顔を擦り寄せるが、これといった変化は起こらないのだ。擦り寄る俺の行動にノーチェが何か声を洩らした気がしたが、気に止める必要はないだろうと体を起こす。すると、ノーチェは片手で顔を覆っていて――俺が体を起こした事に気が付くとその手を下ろした。

「…………これは俺の匂いじゃない……」
「匂いね……おう」
「……かと言って、ノーチェ自身のものでもない…………」
「らしいな。じゃあどうすんだ? さっきから言うように、ベル自身が何かしてくれんのか?」

 にやにやと悪どい笑みがよく似合う男だ。夜の暗闇に溶け込みながらその表情はあまりにも妖艶にも見えてしまって、一度だけ口を閉じかける。だが、それに負けじと眉を寄せれば「何だよその顔」と言った。

「泣きそうなのか拗ねてんのか分かんねぇぞ」
「拗ねてない」
「じゃあ泣くのか?」
「泣くわけがない」

 「じゃあ拗ねてんだろ」ノーチェは全てを知っているかのようにくつくつと笑って再び頭を撫でた。胸の中に募る蟠りが一瞬だけ拭われた気がしたが、次は本当に涙が出そうな気がした。いやいや、ただ匂いを付けられただけだ――そう言い聞かせても悔しさのような気持ちが頭を占めていく。まるで所有権が、主人が奪われたような――。

「……ベル」

 ぐるぐると掻き乱される思考の中、ノーチェの呼び掛ける声が聞こえた。俺の身を案ずるようなそんな声色。徐に顔を合わせれば、静かに俺を見つめる一人の男の顔。

「……風呂……入ろ……」

 「え」と間抜けたような声。まるで続きを期待していたのに、裏切られたような声。ゆっくりと体を離す俺の手を取って思わず「続きは」なんて聞いてくるノーチェに、微かに唇を尖らせて答えてやった。

「そんなもの、向こうでも出来るだろう」
「…………え……?」

 間抜けな声が二回目。普段風呂でのそれを嫌がってきた所為だろう。――俺の誘いに驚くノーチェの顔は何よりも滑稽だったのだ。


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