夢見悪く



「……案外、楽しかったよ」

 そんな声が響いた気がした。気が付けば真夜中の時間だと言うのに、体に異様な重みを感じている。――いや、それは常なのだが、今日という今日に至っては何故だか強く抱き締められているような気がしたのだ。
 見れば暗闇の中に白い毛髪が動く。何気無くその頭を撫でるように手を置けば、数秒の間を置いてから「起こしたか」と小さな声が聞こえてくる。「いや、そんな事はない」――ついその言葉を否定するように呟くが、恐らく彼はそれを信じないだろう。しかし、それを否定するような言葉は紡がれない。

「……何か、あったのか」

 ひたすらに抱き締める手は緩まれる事はなく、犬の毛並みにも似た柔らかな髪をつい、と撫でていると、「別に」と妙に小さい声が洩れる。

「…………ベル……お前は、俺の前から消えたりしないよな……?」

 それは、やけに怯えるような呟きにも聞こえたのだ。普段の彼を思い出せば、そんな声は紡げるとは思えない程明るい方だと思っていたのだが、――やはり人間は見掛けによらないのだろう。俺の普段の振る舞いとは違った別の振る舞いがあるのと同じように、彼もまた昼と夜で別の顔を持つに違いないのだ。
 怯えるような様子が初めの印象を掻き立てた所為だろうか。割れ物を扱うように徐に彼を抱き寄せ、頭を撫でる。「いやに寒い夜だ、悪い夢を見たんだろう」と口を洩らすと、それを肯定するかのようにより一層強く抱き締められた気がした。

「……お前が目の前で死んだ夢を見た。今まで見た事ないような顔で笑って、『楽しかった』って言いやがった……」

 「頼むから置いて行かないでくれよ」一度も顔を見せずに彼が呟いた言葉に既視感を覚えたが、追い討ちを掛けるようにそれを口にする訳にはいかない、と目を閉じる。体に掛かる温もりが伝染するように、次第に自分の体が温まるような感覚に落ちる。――そう、何も言わなければ良い。不意に殺される夢を見るなど、口にするものではないのだから。
 俺が置いて行く訳ないだろう――、そう言って胸の内に潜む不安を書き消すように言い聞かせる。――俺が「置いて行く」のではなく、あくまで「置いて行かれる」側なのだと。子供が玩具で遊び飽きれば捨ててしまうのと同じように、俺は捨てられる側に居るのだという概念を塗り潰すように。

「安心して寝ろ、ノーチェ。朝は早いぞ」
「……分かってるっつの……」

 普段気丈に振る舞っている彼だからこそ、見知らぬ姿を見ては愛しい人だと募る想いが増していく。良くも悪くもその感覚に浸れる時は少しでも彼に近付けているのだと、妙な喜びが胸を掠めた。子供をあやすように軽く肩を叩いていると、次第に意識が微睡んでいく――。

◇◆◇

 息が止まる直前だった。呼吸を止めてしまいたくなるような胸の痛みと、体中を駆け巡る痛みに意識を手放しかける。――いや、これでは彼らに失礼なのだ、と無理矢理体を奮い起たせるが――限界が見えた。目の前が霞む、足元が覚束無い、息が止まりそうだ。
 ああ、苦しい。愛した者に裏切られる事はどんな事象よりも苦で。体中が痛い。今まで受けたどんな傷よりも痛むのだ。敵意を剥き出しにされる事は、無い筈の心が妙に痛む気がして――不意に視界が水に濡れる。「らしくない」そう息が切れるように呟いて、体を貫かれた痛みを抑えるように胸元を握る。

「……もう、良いだろう……もう終わりにしてくれ……どうせ、お前達には、もう会えまい…………遊び飽きたろう……疲れたんだ、殺してくれ……」

 この世界も、お前達と馴れ合うのも、案外楽しかったよ――そう呟いた矢先に目を覚ました。無理矢理体を起こし、咄嗟に顔を手で覆う。垣間見られた、介入された――記憶が零れ落ちた。予想外の出来事につい小さく舌打ちをして呼吸を整える。
 あれほど思い出したくもないと思っていたものを思い出し、挙げ句にはそれを見られてしまった。その事実が酷く不快感を掻き立てているようで、胸の奥の蟠りが拭えないのだ。
 ――不意に自分の隣で小さな動きを感じた。野生にも似た感覚が僅かな変化を逃そうとしない。ふ、と横目でそれを見やると、幾らか小さなそれが俯きがちの瞳で俺を見上げている。酷く薄暗い真夜中のような紫色の瞳が印象的だった。眠る前になかったその存在を認識して「……貴方も飽きないな」なんて呟くと、「迷惑か」と小さく呟かれる。

「……迷惑なら止める」

 彼はそう呟いて俺の布団を軽く握り締めると、目の前のものを覆い隠すように顔を隠すように布団を寄せる。その仕草はまるで突き放される事を恐れている子供のように見えたのだが、――どうだろう、彼の事だからその方が都合が良いと思っているのではないだろうか。
 なんて考えながらどうせ後者だろう、と小さな溜め息を吐いた。如何せん彼はいやに殺されたがる。それを無理にでも押し留めているのだから、不満でしかないのかも知れない。彼の小さな体にこの世界はあまりにも大きすぎて、重いものを背負わせようとする俺はあまりにも自分勝手であるのだ。
 それを拒否されたまま幾らかの月日が流れたような気がする。今夜は体の芯から冷えるような酷く寒い夜だ。彼をじっと凝視していると、寒さに体を震わせるように自身の肩を抱いた気がした。

「……生憎、迷惑だと思ったらすぐに追い出す性格なのでな」

 自分も横たわると同時、それの体を強く引き寄せて目を閉じる。小さくて、それなのにいやに温かい体に無機物にも等しい俺の体は温めるには不適切かも知れない。ああ、やはり離れようか――すると、小動物のように身を寄せてくる感覚が伝わってきたのだ。
 それに少なからず妙な安心感を得て、悪くないと愛しげにその頭を撫でて――意識が闇に落ちていった。


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