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 私は彼の体を知っている。


 影の執行部唯一の、女性エージェント。
 これが今の私の肩書きだ。
 執行部の上司から、または諜報部から指示される、敵対組織の"罪"の人間を始末する。それが私たちの本来の仕事だけれど、私のところにはもっと、色んな依頼が回ってくる。
 例えば、体で機密情報を奪ってこい、だとか。
 そんな時だって、私は顔色ひとつ変えずに任務を遂行することができる。シャーロット・エディントンという本当の名を意識の彼方へ追いやり、ターゲットの男に盲目的で、頭はいいけれど世間知らずな女になりきる。自分に覆い被さってくる男を、哀れだと感じる余裕さえある。
 好きでもない男の粗雑な指づかいや、柔らかくもない唇の感触。
 それが私の日常。


 けれど今回の仕事は、そんな秘儀めいた行為は一切絡まない、とある政治家の護衛業務だった。
 さるパーティーに出席する間、護衛を頼みたいというのが氏の秘書からの申し入れで、民間人が多く招かれたパーティーの場に、通常のSPがうろうろするのは好ましくない、という判断に基づくものだ。 
 その政治家は、資金面で裏社会と繋がっていると専らの噂だった。彼は市長戦への立候補を控えており、どうもそれをきっかけに、裏との関係を断とうとしているらしかった。 
 裏の住人が腹を立て、報復を目論むかもしれない。出席者に紛れ、怪しい人物がいないか見張ってほしい。依頼内容はそんなところだった。 
 正直気の進まない仕事だったが、引き受けた以上、文句は言えない。 

「金さえ貰えりゃあ俺は何でもいいよ。依頼主が汚いおっさんだろうが何だろうが、きっちりやることやるだけさ」 

 任務のパートナーとして呼び寄せた、ヴェルナー・シェーンヴォルフはそう言って笑っていた。年配の有力者ばかり招かれたパーティーに若い女、つまり私が一人でいては嫌でも目立つので、異性のパートナーを探した次第だ。そこに他意はない。声をかけたのはヴェルナーが最初でもないのだから。 
 依頼主の恐れた通り、会場では一悶着起こって、私たちは少々暴れる羽目になった。我々にとってはよくある事態だ。特筆すべきことでもない。 
 任務完了の報告を終えてホテルに戻る頃には、深夜といってよい時間になっていた。
 部屋に入るなり堅苦しいドレスを脱ぎ捨て、シャワーを浴びて整髪料を洗い流し、ブラウスとスラックスといういつもの格好に着替える。髪を乾かすのもそこそこに、部屋のキーだけを持って、自分に宛(あて)がわれた居室を後にした。
 風を切って、大股で廊下を進む。敷かれた紺色のカーペットが、ピンヒールの衝撃音をすっかり受け止めてくれる。
 目指す部屋番号の扉が見えた。コンコンコン、と小さくノックする。  

「はーい」 

 緊張感のない声とともにドアが開き、ヴェルナーのやや野性的な、整った顔がひょいと覗く。私を見るやにっこりと相好を崩し、そのまま大きくドアを内に引いた。 

「どうぞ、ロッティちゃん」
「夜遅くにごめんなさい」 
「いやァ全然、気にしないで」 

 ヴェルナーの部屋はなぜか暗く、彼自身はパーティーに出席したままの格好だった。上等な黒のスーツにシルバーのベストとネクタイを合わせ、長い前髪と襟足はワックスで撫で付けている。一暴れしたというのに、髪型には少しの乱れもない。 
 まともな格好ならそれなりに見えるのに、という気持ちは口に出さずにおく。言ったらきっと付け上がるからだ。 

「電気くらい点けたら」 
「月をね、見てたんだ。満月。綺麗だよ」 

 そう言ってカーテンが開かれた窓の外を指差す。部屋の入り口からは、天頂近くにあるはずの月の姿は角度的に捉えられない。それでも、ぼんやりと浮き上がった景色が、冴えた月の輝きを仄めかしていた。 
 暗い部屋で満月を眺めるなんて、ヴェルナーは意外とロマンチストなのかもしれない。私とは違って。 
 満月を見てると少し怖くなるよ、とヴェルナーが抑えた声で呟いた。 

「怖い? なぜ」 
「俺の名字に、狼って入ってるだろ。満月を見てるとさ、君を襲う狼に変身しちゃいそうで怖いよ」 

 美しい狼シェーンヴォルフ。 
 雰囲気をぶち壊しにする発言をして、ヴェルナーが尖った犬歯を覗かせて獰猛に微笑む。本当に、飢えた狼のようだと思う。 

「あなたはいつでも下品な狼みたいなものよ。今さらそんなの杞憂でしょう」 

 突っぱねるように言葉を投げると、ヴェルナーが首を傾げ、怒らせちゃった?と思案げに指で頬を掻いた。意味を図れず、何が、と問い返す。 

「君以外に綺麗なんて言葉を遣うから、気に障ったのかと思って」 
「……月相手に、嫉妬なんかしないわよ。あなたが何に対してどんな言葉を遣おうが、私の知ったことじゃないわ」 
「ムキにならなくても、今宵の君は世界一綺麗だったよ。君のドレス姿は素晴らしく美しかった。脱いでしまったのは残念だ、まだ見ていたかったのに」 

 噛み合わないヴェルナーとの会話で、先刻シャワーとともに洗い流したはずの疲労感が、体にじんわりと広がってくる。 

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