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 真冬の空気が身を切ると、めざめが近いことを知る。凍りついた涙を融かす春がやって来て、私はようやく固く閉じていた目を開く。

 起きぬけの視界に映るのは、地を覆うやわらかな緑、白や黄や青の小さき花々、それらを求める虫たちなどだ。
 小鳥たちは春の謳歌を口笛に乗せ、頭上には薄い青が、無限の奥行きを持って広がる。その青のところどころ、誰かの置き忘れのように、霞んだ雲がたなびいている。風は時おり強く吹き、いささかまだ冷たさも残る。
 私が目を開いていられるのは、春のわずかな期間だけだ。ゆえに私は、この景色しか知らぬ。私の目に、他の季節が映ったことはない。
 のどかな陽の光に誘われて目が開ききり、あとは涙を落とすばかりになる頃、数多の人間が私の下に集(つど)い来て、何やら語り合い、飲み交わし、歓声をあげる。私にはそれが、刹那の夢であるかに思われる。人間の夢であるのか、はたまた私の夢であるのか、判然としない。どちらにしても大差はない。
 そんな賑々しさとは無縁な、時の流れが止まったかと勘違いするほどの、穏やかな昼下がりのことだった。こんな日は、過去も現在も未来さえもが渾然一体となり、春霞のなかに漂う。私たちの足元では、彼岸と此岸の境目があやふやになって、ゆらゆら溶け合っている。
 向こうから、男が一人近づいてくるのに気がついた。黒髪の、鷹に似た眼の男だ。若人が朝方に大勢吸い込まれ、黄昏時になると吐き出される建物の方から、私の足元を茫然と見つめて、ず、ず、と体を引き摺るように、歩み寄る。その眼には尋常でない光が宿っている。大方、花霞の下に、死者の幻でも見ているのだろう。その男にはほの暗い死の影が付き纏っていた。いっとう大切な人間を喪(うしな)った者だと、私には苦もなく分かった。
 大概の人間は私の目が開くのを心待ちにする。けれども、畏怖の目を我々に向ける人間も、少数ながら、いる。この世ではないところへ、私たちが人間を呼び誘(いざな)うと恐れているのだろう。
 そう闇雲に忌避する必要はない。我々に呼ばれるかどうかを決めているのは、その人間の中の性質だからだ。死に触れた経験が多いほど、我々の声は人間の内に大きく、響く。
 男は蹌踉として、足をもつれさせる。
 呼び声に誘われ、幻に魅入られたその男を、私は憐れんだ。境界を越えたら、二度と戻ることは叶わぬのだ。
 不意に風がざあと吹いた。枝がざわざわ揺れ、私の涙がはらはらと風に舞い、落ちる。数えきれない薄紅色の涙が、世を分かつ淡い幕となって、男を外界から切り離す。
 さざめきの渦の中で立ち尽くした男の口が、何言か紡がんと震えた、その時であった。
 
「桐原先生!」

 甲高い声が、空気を刺した。いずこから小柄な女が出で来て、黒髪の男に飛びつく。
 ふっつりと風が止む。薄く色づいた幕は、幻影のごとく掻き消えた。彼岸の気配は、零れた涙がすべて地に届くと、潮が引くように遠くなる。
 女が男の服の袖口をきゅ、と握り、瞳を潤ませて男を見上げた。男は表情に驚きを滲ませながら、女と向かい合っていた。
 男と女を取り巻くのは、ただただ穏やかな春の暖かみだった。

「すみません、なんだか先生が、どこか遠いところに行ってしまう気がしたから……」

 女が縋るように、男の掌を握る。
 私には人間の言葉が分からない。
 男は幾秒かのあいだ、ぼんやりと女の顔を見下ろしていたが、やにわに正気を取り戻して、ふるふると首を振った。

「……ありがとうございます、水城先生。行ってしまうところでした……」

 男はちらりと私の方へ目をやる。
 私には人間の言葉が分からない。
 男と女は二言三言言葉を交わし、それから男がわずかに微笑んだ。女もそれにつられるように、泣く直前の表情にも似た、はにかんだ笑顔を見せた。
 二人は揃って私に背を向け、若者が集う建物へと歩き出す。
 女が一度振り返って私を見、小首を傾げた。
 男はもう振り返らなかった。
 それでよいのだと私はなぜか思った。男は再び幻に魅入られはしないだろうという予感があった。
 また、風がざあと吹いた。私を泣かせるために、春風はあるのかもしれなかった。風が吹くたびに薄紅の涙は舞い散り、その涙が尽き果てるとき、私の春は今年も終わりを迎える。
 はらはら。
 ほろほろ。
 じきに涙は涸れるだろう。そして私はまた、滅びを待つための眠りに就く。

――春の日の幻想

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