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彼と久しぶりに会って、ああそうだ、こんな男だった、と記憶が甦っていた。歯が浮くような台詞を、ヴェルナーは何でもないような顔で口にする。だから信用されないのだと、彼が理解する日は来るのだろうか。
ヴェルナーがにじり寄ってきて、まだ湿り気を含んだ私の髪に触れた。彼の赤い双眸に、慈愛めいた光が宿っていることを、私は知覚する。掬い取られた髪の一房が、彼の指のあいだを流れ落ちる。
「ねえ、着飾ったままするのもいいと思わない?」
ゆったりとした低い囁きに対し、何を、とは訊かない。着替えてきて、本当に良かったと思う。
「――あなた、私のことばかり見ていたの。任務中でしょう」
「俺はいつでも君だけを見てるよ」
ヴェルナーがさらにぐっと近づいてくる。たった今の発言を体現するような、まっすぐな視線に射抜かれて、その場に釘付けになった。
彼の瞳には上目遣いの私が映りこんでいた。こうして見下ろされると、私たちが女と男であることを否応なく突き付けられる気がして、背中のあたりがひどくざわつくのだった。
「ところで、どんな御用かな。夜の相手なら喜んでお受けするけど」
ヴェルナーが腰に手を回してくるのを、間髪入れず振り払う。
「あなたにお礼を言いに来たの。わざわざドイツから来てくれて、ありがとう」
「水くさいな。君のためならどこへでも行くさ」
「そんな便利屋みたいなこと、言っていいのかしら」
「だって俺は君のものだから。ずっと前からね」
真剣な眼差しで、さらりとそんなことを言う。
「……要らないわ」
「つれないなァ」
ヴェルナーは肩をすくめ、寂しそうに笑った。あまり見たことのない彼の表情に、心が漣立(さざなみだ)つ。
不意にヴェルナーが目を伏せて、私の右手を恭しく掬い取った。そのまま口元へそっと運んで、手の甲に唇を押し当てるだけの、優しい口づけをする。彼のそんな仕草に、胸が詰まるような苦しさを感じてしまうのはなぜだろう。
「……あなたには似合わないわ、そういうの」
「やっぱり?」
ヴェルナーがにやっと笑う。わざと礼儀を欠いた私の物言いにも、気を害した気配はない。
迷いなく私を見つめる彼の視線に、ある夜のことが思い出された。ひんやりした夜気が指の先から浸食してくる、そんな冷たい夜だった。あの日も彼は同じ目をしていた。どこか悟ったような、見るもの全てを包み込んでしまう、底知れぬ深さの目だ。
私は思わず顔を逸らし、無意識にぐっと拳を握り締める。
頭上からは、夜をそのまま音に変えたような、トーンを落とした声が降ってくる。
「今日の任務で、君に会えて良かったよ。元気そうで何よりだ」
「……今さらどの面下げて会いに来たんだと思ったでしょう」
「まさか。君から連絡が来たときは、天にも昇る思いだったよ」
「……私、明日の朝にはここを発つの。その前に、あなたにお礼を言いたかった。それだけよ。私はもう戻るから」
居たたまれなくなって、話を切り上げる。
ヴェルナーは相変わらず、私にひどく優しい。ヴェルナーが私を嫌っていないことが、私には大いに謎だった。
数年前、私は彼に対して、許されない行為をはたらいたのに。
今回の任務絡みで、ヴェルナーとは久しぶりに連絡を取った。罵られるかもしれない。私はそう予感していた。
たとえ彼から罵声を浴びせられても、自分の行為への当然の罰として、受け入れられたはずだった。しかしヴェルナーから私に向けられたのは、罵言(ばげん)ではなくて好意だった。
私は当惑した。差し出された優しさを上手に納めておく場所など、心のどこにも存在しなかった。いっそ罵倒してくれた方が良かったのに、"あの夜"を超えてもなお変わらない彼の態度は、私を少なからず動揺させた。
これ以上、平気な顔をして、ヴェルナーの前に居ることはできない。彼に背を向け、ドアレバーを押し下げる。
後ろで、衣ずれの音がした。
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