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 そこへポーラが戻ってきて、ルカは半身だけそちらに向けて様子を窺う。
 湯上がりのポーラは純白のふわふわしたバスローブを纏っていた。前の袷はお約束のように寛げられていて、抜けるような白さが増した乳房のほとんどをルカの目に晒している。どうせ常と変わらず、上も下も下着は身につけていないのだろう。高さのない室内履きに履き替えた女は意外なほど小柄に見えた。ヒール抜きで170cm代半ばもあれば、女性としてはかなり長身の部類だろうが。
 髪をタオルで拭きながら、女はふふ、と空気だけで笑う。

「座っていてよろしかったのに。皿をご覧になってらしたの?」
「ええ、まあ」
「私ね、絵付けのされた皿が好きですの。ご存じなかったでしょう?」
「私が知っているわけがないでしょう、あなたの趣味など」

 吐き捨てるように言うと、女は何が可笑しいのか、にんまりと唇を引き上げた。
 髪に水気を含ませ、化粧を落としきったポーラの肌の透明感は増し、逆に毒々しい邪悪さはやや薄れていた。容貌自体にそれほど変化はないのに、存外純真そうな心象の顔立ちになっている。が、相手からそのような印象を受け取っている自分に、ルカは激しい拒絶心と憤りを覚えた。手を加えた外見から、人間性を判断できるはずもないのに。この女の残虐さは、顔に塗りたくられた化粧品の有無などで増減するような代物ではない。
 そう思うと、ポーラから漂うすっきりとしてほのかに甘い香りが、この上なく腹立たしく感じられた。
 女が歩み寄ってきて、陳列棚とルカとポーラとが一烈に並ぶ形になる。女の熱のない眼差しは、ルカなど突き抜けて絵皿のコレクションに注がれている。

「どれも美しいでしょう? あなたに美しいものを美しいと感じる感性があるかは分かりませんけれど。絵皿にはね、世界各地の文化や逸話や風習や特産物が端的に描かれていますの。地球という球体の要素が、この小さな円に込められているというわけ。私は――私たちは、トゥオネラに囚われた身。言わばこの小さな円形の窓から、世界をそっと覗いていますのよ」

 唐突に感傷的すぎる話をされ、黙したままのルカは反応に惑う。
 ふと、遠くを眺めるようだったポーラの目が、ルカの顔に焦点を合わせた。女は微笑している。が、そこには冷えびえとしたニヒリズムが蟠っている。そうしてポーラの視線に捕らえられると、二人は様相を決定的に異にした相容れない生物に成り下がるのだった。

「これらは任務で外に赴く方々に買ってきてもらったものでしてよ。せめて絵皿だけでも手元に置きたいとか、物を恃む気持ちはあなたには分からないでしょうね」

 相手の言葉はどこもかしこも尖っていた。ただ、その直接的な鋭さはルカには刺さらない。端から分かるわけがないからだ。ルカにポーラの心情が理解できないように、ルカの心情だってこの女には理解できまい。
 自分の思考を理解できる相手がいるとしたら、それは世界にただ一人、ディヴィーネだけだ。

「らしくなく熱くなってしまいましたわね。どう? ルカさま、お座りになったら?」

 リビングテーブルを掌で示され、女の出方を警戒しつつ、椅子に浅く腰かける。ポーラはまるでルカの存在を忘れたかのように、無防備に背を向けて奥の部屋に姿を消した。かと思うと、すぐに何かを手にして戻ってくる。事務的に確認すると、手にあるものは酒の瓶とグラスと栓抜きであった。
 ポーラはそれらをテーブルに置くと、立ったまま酒瓶のコルクを抜く。ぽん、と小気味いいはずの音は、この場にあってはどことなく間が抜けていた。
 紅のマニキュアを施されたたおやかな指が、赤みを帯びた琥珀色の液体を、とくとくとグラスに注ぐ。繊細な彫刻が施されたグラスは控えめな照明を複雑に反射してきらめき、酒精と樽の香りが渾然一体となった芳香が、ルカの鼻腔をくすぐった。
 思い出したように、女がわざとらしく目線をこちらに寄越す。

「あなた、アルコールは嗜むのかしら?」
「いいえ」
「あら。今まで一滴も飲んだことはありませんの?」
「……主から、人前では飲むなと仰せつかっておりますので」
「そう? あの方も過保護ですのね」

 ポーラは忍び笑いを漏らす。ルカとディヴィーネの関係を、保護者と幼児とでも思っているような扱いだ。女の妙に艶っぽい声音はいちいち神経を逆撫でしてくる。ルカは酒器が空になるのを辛抱強く待った。
 女はグラスの酒を飲み干すと、髪を乾かすためにまたバスルームへ向かった。その間、会話はない。もしかしたらこのまま不愉快な夜がいつまでも明けずに続くのではないか。そんな不吉で不条理な予感がちらとルカの脳裏を掠める。
 再びリビングに戻ってきたポーラは、今度はすたすたと肉薄してきて、ルカの目の前の天板に片手を突いた。振り仰げば、胸を突き出すようにいっそう身を乗り出してくる。緩いバスローブの袷から覗く双丘のまろみがぐっと眼前に迫って、ルカは反射的に身を仰け反らせた。

「ねえ、ルカさま……」とルージュを落としてもなおつやつやと照る唇から吐息混じりの囁きが零れる。「あなたから私にキスして下さらない? 体のどこでも良くってよ……」

 その密やかな声は、静かなのにどこかざらついていた。音を処理する回路の途中に引っかかり、粘着して根を下ろし、消えない快と不快をもたらす、そんな名状しがたい響き。
 赤い舌でぺろりと舌なめずりするポーラは、明らかにルカを圧倒しようと仕掛けてきていた。それなら、こちらもそれ相応の対応をするだけだ。
 ルカはわずかに肩を竦める。

「さて、なぜ私がそんなことを」
「あなたから求められたしるしが欲しいの。して頂けたら帰してさしあげますわ……さあ、恥ずかしがらずに」
「はあ……。恥ずかしがっているわけではないのですがね」

 女の言葉を受けておもむろに立ち上がる。ポーラは自身の優れたプロポーションを誇示するように、長身の体躯をテーブルにしなだれかからせている。全身を見定めるがごときルカの視線の先で、肉食獣めいた灰色の瞳が、期待からかぎらりと輝いた。
 相手は自分こそが捕食者だと、微塵も疑っていない。
 ルカは予備動作なくポーラの後背に回り込んだ。刹那のうちに、最少の手数で相手の手首を捻り上げる。女の、捕らえどころのない柔らかい肉体の感触が厭わしかった。
 テーブルに上体を押し付け、女の下半身を脚全体で――この上なく嫌だったが――抵抗できないようホールドする。無防備すぎる細い首に、シャツの袖に隠し持っていたものをぐっと押し当てた。金属の冷たい感触におののいたか、下にある総身がぴくりと反応するのが、密着した部分からゼロ距離で伝わってくる。
 ルカはなんとなく、子供だった自分の掌中で羽をもがれながら逃れようとしていた、虫の必死の震えを思い出した。

「イタリアでは接吻はこうやるんです」

 身動ぎすらしないポーラに、ルカは冷酷に囁く。
 屈服しているはずの女は、ゆっくりと首をこちらに回して、薄ら寒いほど優しげににたり、とほほえんだ。

「うふ……服が邪魔ですけれど、ルカさまの体を感じられて嬉しくってよ」
「何を……」
「その冷たく燃える目は好きでしてよ。あなたのことは嫌いですけれどね。私への厭悪(えんお)で歪ませてあげたくなりますわ……」
「……これで気が済みましたか」

 ルカは押さえこんでいた腕の力を抜く。左手に握っていたナイフもテーブルの上に放った。先刻食器棚から拝借しておいた、食事用・・・のナイフが回転してからからと音を立てる。
 ルカはポーラと距離を取り、3メートルほどの間隙を置いて睨み合った。

「あまり私を舐めないことですね。まだ死にたくないのであれば」凄んでも、女はゆったりした表情を崩さない。「お分かりになったでしょう。私はあなたを、いつでも殺せる」

 ポーラはテーブルの上に腰かけた。上体を反らすようにして後ろに手を突き、ローブが捲れるのも構わずに脚を組む。あらわになった太腿が眩しいほどだ。こちらを見上げて、うっそりと蠱惑的に微笑して言葉を紡ぐ。

「それは間違っていてよ、ルカさま。本当に本気なら、今、あなたは私を殺せた。けれどそうしなかったのは、ルカさまの頭のどこかにいつも主さまがいらっしゃるから。あの方にはなるだけ迷惑をかけたくない、優等生みたいにそう思ってらっしゃるのでしょう。――あなたの有り様がそうである限り、主さまの綺麗なお顔がブレーキになって、私を殺すなんて到底できませんわ。口先だけはご立派でもね。お気の毒さま」

 それは明白な挑発だった。
 無意識に拳を握り締めている己に気づき、無理やり力を入れて十指を伸ばす。主への忠誠を揶揄されることがルカにとっては何より腹に据えかねると、この奸智(かんち)に長けた女は知っているのだろう。見え透いた焚き付けに乗ってやるつもりもなかったが。
 何をも差し置いて殺すほどに執着する意義。そんなもの、この女には毛ほども見出だせない。ルカは心の内で自分に言い聞かせる。関わる意義を自分が見出せるのは主だけだ。

「帰ってもよろしいですか。もう充分満足なさったでしょうから」

 努めて冷静な声を作ると、ポーラは小馬鹿にするような表情を浮かべつつも、引き留めようとはしなかった。
 マイナスの感情が渦巻き、空気がどす黒く凝(こご)ったような部屋の、固いロックが部屋主によって外される。別れの挨拶もなしにドアをくぐろうとポーラに背中を向けたその時、一瞬の間隙を突いて女が腰に腕を回してきた。
 忌避感からぞわっと全身が粟立つ。背中に押し付けられている、柔らかいがしっかりした質量のあるふたつのもの。その正体については、意識して思考の外に追いやった。
 酒の匂いが混じった、女の甘くとろけるような誘い文句が、耳のそばから聞こえてくる。

「ね……ルカさま。いつか本気で殺しにいらっしゃってね。その時はたっぷりいたぶって愛(殺)してさしあげてよ。約束いたしますわ、坊や」
「……そうですか。あなたが自殺志願者だとは存じませんでした。では、私はこれで」

 ルカが部屋から去ると、扉はすぐに閉じられた。
 毒蛇そっくりの女が待ち構える密室から一歩出てしまえば、そこは別段変わったところのないトゥオネラの無機的な廊下だった。いつまでもよそよそしくルカの肌に馴染まない空気が、この時だけはそこはかとなく慕わしく感じられる。
 ルカの体の内には、邪悪の化身のような女への嫌悪感が滞留し、吐き気が止まらなくなっていた。ポーラの甘ったるい言葉は、毒針のようだ。抜こうとすればするほどに奥深く突き刺さり、遅効性の汚毒を全身に撒き散らす、不可視の邪悪な針。
 女のあの、予言のような甘やかな言葉。いつか自分が、ポーラを手にかける日は来るのだろうか。蛇に似て掴みどころのない身体の感触が、まだ掌にへばりついている。今までの人生で一番、己の身体感覚をおぞましいほどに疎ましく思った。
 ルカは総身をぶるりと震わせる。違う。あんなものが約束であってたまるか。
 肉体という密室の中に、名前のつかない不要な感情が汚泥のように堆積していく。それを飼い慣らす方法があればいいのに。
 今はただ、見られる者に余剰な妄念を許さない、主の冴えざえとした怜悧な瞳に貫かれたいと思った。

――欲望と確執の密室


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