(1/2)□□
 その夜、ルカは同僚であるポーラの招きに応じて彼女の居室を訪れていた。
 女が部屋に男を誘う。特筆すべきところのない世にありふれた細事だ――ポーラの意図の中に、ルカへの好意など微塵もない点を除けば。二人のあいだには悪意と侮りと忌避とが冷たい大河として滔々と横たわり、互いの何もかもを断絶している。同じ組織で異端審問官という同じ立場にいるにもかかわらず。
 ルカは深く深く溜め息を吐いた。時は深更、まともな神経の人間なら寝入っている頃合いだ。睡眠をとる必要のない身のルカには時刻など関係なかったが。
 浴室である。眼前にはシャワーカーテンが引かれていて、ポーラが湯浴みする様子が二次元的に投影されている。ルカはバスタブが置かれていない方の浴室の空間に直立不動で居り、不自然に芳しいシャンプー類の匂いと、ポーラの影とを延々と感受させられていた。
 部屋につくなり、バスルームに呼ばれたと思ったら途端にこれだ。
 水蒸気がもたらす熱と湿気をものともせず、ルカは黒シャツに黒ネクタイ、黒いスラックスに黒い革靴、革手袋というスタイルを崩してはいない。直立不動といえど、女がもしルカの命を狙う素振りを示せばすぐ反応できるよう、黒ずくめの服で隠した筋肉には、流動的な力を循環するように漲らせている。ポーラの目的が分からない以上、体配(たいくば)りを怠る道理などなかった。
 自分はここで何の意味もない時間を空疎に浪費している――そう思うと嘆息が止まらない。「私の部屋に今夜、いらして下さいませ」とポーラが言い出した場にはディヴィーネも同席していた。偶然、ではない。明らかに女はシチュエーションを選んでいて、主からの「ルカ、行ってあげればいいじゃない」という促しも確実に彼女が狙ったものだった。

「きっと、お越し下さいね? そうしなければ死の接吻があなたに訪れますわ」

 静かに怒りに燃えるルカの耳元に、ポーラはいけしゃあしゃあと吹き込んだ。そんな脅し文句に踊らされずに無視すればよかったのだ。別にポーラを返り討ちにするくらいどうということはない。主とて、正当防衛だとルカが主張すれば強く咎めはしなかっただろう。
 その仮定ももう意味がない。ポーラの自室に足を踏み入れてしまった今、ルカは自力でここを出ていくことができないのだ。
 "罪"の本部(トゥオネラ)の居室は内側からも出入口をロックできる構造で、解錠にはそれぞれの部屋主の生体認証が要る。ここでポーラを死体に変えたところで目的は果たせない。蛇にそっくりな女の気まぐれで、ルカを巻き上げたとぐろが解かれるのを待つほかにないのだった。
 ポーラの居室の浴室はルカの居室のものよりよほど広かった。面積でいうと二倍近くあるだろう。部屋主のニーズで間取りがカスタマイズされていることを、ルカは"罪"に来て十年近く経って初めて知った。が、極めて無用な知識だった。
 不意に、カーテンがすっと引かれてポーラの姿があらわになる。いつしかバスタブには湯が満ちていた。乳白色の湯に全身を半ば浸して女がこちらを見上げてくる。凪の海に浮かぶ孤島のごとく、豊満な胸がその存在を声高に主張するように水面を大きく押し退(の)けていた。

「ねえ、せっかくだから背中を流して下さらない?」
「お断りします」
「そう? あなたも服を脱いで一緒に入浴するのでもよろしいですけれど」
「……。私に何か御用でしたでしょうか」

 何がせっかくだ。ルカは意味不明な誘いを黙殺してから、苛立ちもあらわに問い質す。
 ポーラはにやあ、と口の端を弓形(ゆみなり)に吊り上げると、灰色の冷たい目を酷薄に細めた。

「何か、って。だからさっきからお誘いしているじゃありませんの。あなたとは一度肌を合わせてお話ししてみたいと思っていましたのよ」
「無駄なことを……」

 ポーラと交わすべき言葉など一語もない。天を仰ぎそうになって、どうせ無機質な浴室の天井しか見えないのだと首の動きを止める。
 帰りたい。心の底からそう思う。ここにいて靄を浴びていると、体の中から何かが一秒ずつさらさらと零れ失われていく気がする。自分の時間は主のためにあるものなのに。

「何を考えていらっしゃるの? 主さまのこと?」

 我に返ると、ポーラはこちらに背中を向け、浴槽の縁に腰かけていた。男の体とは驚くほどに違う、起伏のある輪郭と陶器に似た滑らかさの肌を惜しげもなく晒しながら。

「私といるのに他の方のことを考えるなんて、ねえ……。非道いお人」
「……」

 肩越しに右目だけでこちらを見る女は、どこか深淵へ誘うような眼差しをしていた。だが、ルカはそちらにはあまり注目していなかった。水を弾く肌の上に刻まれた、抽象的な線の集合体に目を留めていたからだ。
 ポーラの右の肩甲骨の上。そこに、片翼を象った刺青があった。単純な直線と曲線の集まりであり、線濃紺一色で描かれたそれは、しかし全体としては複雑な紋様になっていた。女の刺青は奇妙な印象をルカにもたらした。刺青は肩甲骨の形に反し、体の中心線に向けて羽を広げる格好になっていたためである。
 ポーラは明らかにそれを見せつけて、ルカの反応を待っている。何度目かの深い嘆息を漏らしつつ、ここは大人しく彼女が思い描くストーリーに乗った方が賢明だと結論を下す。

「その刺青は、一体何です」
「あら、ルカさまも気になって?」ポーラは白々しく目尻をとろかす。
「おかしな模様でしょう? これはね、私の最愛の人――ヨハンと二人でひとつの刺青なの。ヨハンの左肩にはね、私のを鏡映しにした形の刺青がありますのよ。二人が並んだ時にだけ、翼が完成する。つまり、私たちは片翼をもがれた鳥のような存在ということ。主さまとルカさまが来てから彫ったものなのですわ……あなたたちと我々はまったく違っている、という無言の主張の象徴でしてよ」
「然様ですか」

 ルカが一言で返答を済ますと、女はそれきり話題への興味を失ったようだった。

「リビングに出て待っていて下さる? じきに私もそちらへ行きますから」

 この女を――ルカは加害衝動に駆られる。バスタブに沈めて息の根を止めてはどうだろう? 窒息なら気を失うまで苦しい思いをするに違いない。女の苦悶の顔が見られれば、少しは胸が空くのではないか。
 ちらと浮かんだルカの考えを嘲笑うように、再びシャワーカーテンが閉じられる。垣間見えたポーラの表情は、遥か高みから見下ろすような艶麗で余裕のある笑みだった。
 バスルームを出ると、リビングの冷ややかな空気が頬を撫でる。
 ルカはゆっくりと部屋を見渡した。何かポーラの弱味に繋がるようなものが置かれていないだろうか、と。物騒な気持ちでリビングをゆっくり渉猟していると、大きな食器棚が目に入った。おそらくマホガニーか何かの木材で作られた、立派な佇まいのアンティークらしき家具である。扉に填められたガラスの向こうに、たくさんの皿が飾られているのが見えた。
 こんなもの、何のためにあるのだろう。あの女がまさか料理などするまい。この部屋には調理のための設備だってない。
 整然と並べられたたくさんの皿たち。ルカは冷徹な視線を注ぐ。ヨーロッパで作られたであろうもの、東洋風のもの、ロココ風の趣味のもの、繊細な絵柄のもの、大胆なもの、深い青一色で描かれた一見素朴なもの、金縁の装飾もなされた色とりどりの豪華なもの。一貫性はないのに、同じ空間の中ですべてが不思議と調和している。ほとんどコレクションと言っても差し支えない数だ。
 ポーラと皿の関係を思う。誘惑して部屋に連れてきた人間を捌いて人肉にして、生のまま皿に盛りつけ、ナイフで裂いて食らってでもいるのだろうか? それは妙に生々しいリアリティを内包した想像だった。あの年齢不詳の底知れない女なら、秘密裏にそのような行為に及んでいても驚きはない。あの常に真っ赤な唇が、ヒトの鮮血で染められていたとしても意外だとは思わない。
 ルカは夥しい数の皿と共に陳列された、鈍く銀色に光るカトラリー類をじっと見つめた。

back


(C)Spur Spiegel


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -