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 ぼくが初めてお酒を飲んだのはいつで、それはどんなシチュエーションだったろう。
 もう忘れてしまったけれど、どうせろくでもない状態で口にしたのに決まっている。自分の人生は万事がそんな調子だ。自身がそんなだから、7年間ずっと共にいるルカにはなるべくまともな場を作ってあげたいなんていう、ぼくらしくもない親心めいた何かが、この心の中に吹き溜まっていたことは否定できない。
 いつも書斎として使っている小ぢんまりとした部屋。そこが、今はちょっとしたバーのような居心地の好さを纏っている。円形のテーブルと二脚の座面の高い椅子はぼくが運びこんだものだ。灯りは間接照明以外完全に落とされていて、本棚のない壁に映っているのは備え付けのプロジェクターから投射された風景映像である。こうやって演出すれば無機質なトゥオネラの一室だってちゃんと見栄えがする。
 書斎には、ふたりだけ。ぼくはルカの強ばった表情をほぐそうと、従順な青年へにこりと笑みを作った。


 事の発端は、「そういえばルカ、君はお酒を飲んだことはあるんだっけ」「いえ、まだありません」というぼくらの何気ない会話だった。
 ルカは先日、18歳の誕生日を迎えて成人となった。ぼくも彼もそのこと自体に特段感慨を覚えてはいなかったけれど、自分が寝酒を舐めているときにふとルカの顔が思い浮かんだ。18歳なら飲酒も合法だ――とはいえ、日常的に散々法律違反を犯しているぼくらが気にするのも可笑しい話だが。
 訊いてみるとやはり、ルカはまだお酒を嗜んだことはないらしかった。出会ったときに11歳の少年だったルカがもう大人の仲間入りだなんて、改めて考えてみるとどことなく不思議な心持ちがする。そうしてぼくは、自分でも驚くくらいにすぐさまルカを酒の席に誘っていた。もちろん彼の返答は是だった。
 この組織では嗜好品の購入に制限はない。マシューくんやポーラは愛飲している煙草があるようだし、食事は完全栄養食のバーで済ますルカも、毎朝わざわざイタリア製のエスプレッソマシーンでコーヒーを淹れて飲んでいる。資金なら余っているくらいなので、希望すればビリヤード台や高額な楽器だって自由に手に入るのだ。
 ぼくは適当に見繕ってきたワインを何本か抱えて書斎のドアを開けた。ドレスアップしたような部屋の空気の中で、一人所在なげにテーブルに就いていたルカの、やや張り詰めた顔がはっとこちらへ向けられる。これから始まるのは何のことはない、ルカの出身国ではありふれたただのアペリティーヴォだというのに。
 テーブルにたんまりと用意してあった、種々のチーズの皿には手をつけられた形跡がない。先に食べていてよかったのに、ルカはまるで待てをされた犬みたいだった。

「どうしてそんなに緊張しているの?」

 ロゼワインの栓を抜きながら、こんなときでも律儀に喉元までネクタイを締めた黒シャツ姿のルカに問う。相手は暫時視線を泳がせて、「緊張しているつもりはないのですが……」と語尾を濁らせた。そんなことを言って明らかに肩はがちがちに固まっているし、そんな様子のルカを見るのは初めてだった。

「楽しめばいいんだよ。お酒の席ってそういうものだから」
「楽しむ……ですか」
「そうそう。君には難しいだろうけど、力を抜いて自由にしていたらいいよ。リラックス、リラックス」

 手袋をしていない素のままの指にワイングラスを持たせ、とくとくと薄紅色の芳しい液体を注いであげる。
 ぼくも手酌で自分のグラスにワインを注ぎ、杯を掲げて軽く乾杯した。

「最初だから飲みやすい味のを選んだつもりだよ。さあ、どうぞ」
「恐れ入ります」

 他人と酒席を共にするのは久しぶりだったから、一口目はじっくり舌の上で液体を転がし、鼻を抜ける風味までをしみじみ味わう。そうしてから「どうかな、飲めそう? 美味しい?」とルカに問おうとして瞠目した。なんとルカはグラスを勢いよく呷り、中身を一息に飲み干してしまっていたのだ。
「えっ」ぼくが目を丸くすると、彼の表情がにわかに曇る。

「申し訳ございません、何か……不作法でしたか」
「いや、不作法ではないけど……一気に飲んで大丈夫? ワインって少しずつ味わって飲むものだから」
「そうなのですか。どうか無知な私をお許し下さい」
「謝らなくていいよ、飲み方に間違いがあるわけじゃないし」

 ルカは悄然と項垂れる。今のは完全にぼくが悪い。お酒を飲んだことがないのに、ワインの飲み方が分かるわけがないのだから。
 そうか、とここに至ってぼくは納得する。ルカは普段と違い、この席が命じられたものではないから戸惑っているのだ。楽しむという言葉の正解が分からず、緊張というよりは困惑しているのだ。彼はきっと、ぼくの前ではぼくの求める正しさを追い求めずにはいられない。ルカの性分でこの場を楽しめるはずもない。
 そう思うと、うら寂しさを覚えた。秋深くに足を這いのぼってくる、底冷えに似た寂しさを。
 そんな場違いな感傷をおくびにも出さないよう、お酒の味わい方とそれぞれのワインに合うチーズを逐一指南する。軽い口当たりのプロセッコにはミルクそのものの風味を味わえるフレッシュチーズを、重い赤ワインには熟成の進んだ濃い味でコクもあるハードチーズを。
 ルカは美味しいとも口に合わないとも言わなかったけれど、そうしているうちに彼の体から強ばりが抜けてきて、ようやく本来のアペリティーヴォらしくなってきた。

「私はこのようなことをして頂ける身分ではないのに……」
「いいから、いいから」

 ワインを注ごうとする度にルカがそんな様子だから、あまり宴という雰囲気ではなかったが。どうやら彼は酔うと気分が落ちるタイプのようだ。
 ぼくもほろ酔い気分になって、好きな銘柄のフルボディのワインをちびちびやりながら、壁に投影されている風景を眺める。今映っているのは砂漠の日の出の光景だ。延々と続く砂漠の山のなめらかな稜線と、明け方の空とを鮮烈に染めながら、赤々とした太陽が刻一刻と変化するグラデーションを作る。その様子は息を飲むほどの美しさだった。
 自然の美を味わうのは好きだ。この星はとても美しい――■■さえいなければ。
 次にグラスに口をつけようとしたそのとき、何かそばで物音がした。どさり、と質量のあるものを落とすような、鈍い音。
 反射的に振り返ったすぐそこで、ルカがテーブルに突っ伏していた。今しがた倒れであろうグラスから、紅色の液体が天板へと急速に広がっていく。

「ルカ! 大丈夫?」

 彼の上体はぼくの目の前で崩れ落ちようとしていた。椅子を蹴り倒すように降り、今まさにずるずると頽れていく体をなんとか抱え留める。ルカもろとも床に倒れこむ羽目にはなったけれど、頭を打つことはぎりぎりで阻止できた。
 ルカを胸に抱えた格好のまま、顔の様子を観察する。呼吸は規則正しくしているし、目も薄くではあるが開いている。ただ、普段病的なまでに白い頬がぽうっと赤らんでいて、目も潤んでいるように窺えた。となると、これは。

「ずいぶん酔いが回っていたんだね……ごめん、気がつかなくて」
「主よ、どうかあやまらないで下さい……」
「ううん、注意を怠ったぼくの責任だよ。君がお酒に弱いとは思っていなかったから……。なんて、言い訳にもならないけど」
「申し訳ございません。私のせいで、お手をわずらわせてしまうなんて……」

 ぼくがふるふると頭を振っても、ルカは呂律の怪しい舌で謝罪の言葉を発し続ける。頭部を打っていたら何か影響が出ていたかもしれないのに、ぼくを責めるつもりは微塵もないようだ。
 心臓のあたりが不意にきゅっと締めつけられる。最初からずっと、いい気分になっていたのはぼくだけだ。これじゃ、ただの一人芝居じゃないか。
 歯痒い気持ちのまま、足元が覚束ないルカの肩を支え、自分の寝室へと連れていく。寝室と書斎は続き部屋ではあったけれど、ベッドに辿り着くまでには相当骨が折れた。がっしりとまではしていないとはいえ、しなやかな野生動物のような体つきの、身長180cm以上の男を運ぶのは容易ではない。酔いで力が入らずへにゃへにゃするルカの全身をなんとか立たせ、シーツの上に苦労して横たえると、ぼくのベッドから足先が盛大に飛び出てしまった。
 すぐにとって返して水差しからコップに水を汲んでくる。ベッドの上体部分をリクライニングで起こして、目がわずかしか開いていないルカに差し出した。

「お水、飲める?」
「はい……」

 ルカはこくこくと頷くものの、手にうまく力が入らないと見え、コップを何度も取り落としそうになるものだから、ぼくが介添えして何とか一杯分の水を飲んでもらうことに成功する。
 そうするあいだにも謝罪を繰り返すルカの表情は苦悩そのものだった。既に罰に耐えているように眉をひそめ、それでいながら頬は朱に染まり、見上げてくる目はうっすら涙に覆われている。普段とあまりに異なる彼の様子を見ていると、なんだかぼくの中の、世俗にまみれていた時分に置き去ってきたものが熱を持ち疼くのだった。
 特段の感情も伴わないまま夜を共にした、数多の男たち、女たち。その中にルカに似ている人間はいただろうか。
 妄執を払うように頭を振る。ベッドを水平に戻し灯りを消して、このままこの夜をお仕舞いにしてもよかったのだが、ぼくは既に気づいていた。くったりと身を横たえるルカの、その首元。

「シャツの襟、緩めた方が良さそうだね」

 お酒の席だというのにぴっちりと締められたままのネクタイとシャツが、ルカを苛んでいるように見えた。
 ベッドの端に腰を下ろし、上からルカを覗きこむ。トゥオネラに来てからこんなアングルで従者を見下ろしたことなど、皆無と言っていい。


※次ページには性的描写が含まれます。
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