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 夜の公園は、ここだけが別世界のようだ。
 公園灯がスポットライトのように、ぽつぽつと照らす空間以外は、初冬の夜の中に暗く沈んでいる。公園の大部分を占める緑地にも、昼間は子供のはしゃぐ声を乗せているであろう遊具にも、今は誰の気配もない。公園を取り囲む団地の灯りだけが、俺と桐原先生とを見下ろしている。
 こんな時間にこんなところで先生となぜ二人でいるかというと、彼からあることを教わるためだった。先生が入院していた時に交わした「退院したら護身術を教えてほしい」という約束を、彼は叶えてくれようとしたのだ。
 しかしながら、護身術どころか体の動かし方もろくに分からない俺を見かねた先生から「まず体力作りから始めよう」という提案があった。そんなわけで、今夜はこの公園でランニングと簡単なトレーニングを一緒におこなったのだった。
 11月といえど、体を大きく動かせば暑くなる。俺はベンチの上で長袖を捲りつつ、拳三つほどの距離を空けて隣に座る先生を横目で見遣った。学校で見慣れたスーツやワイシャツ姿ではなく、スポーティーなトレーニングウェアを着ている。俺はそういう、ちゃんとした持ち物がないので上下とも学校のジャージだった。
 桐原先生がペットボトルの飲料をぐっと呷る。その際、目立つ喉仏が動くのになぜだかはっとさせられる。
 ふと、俺はいつかこんな風に格好いい大人になれるだろうか、と思う。格好いい大人どころか、ちゃんと大人になること自体、今の自分にとっては途方もないことに感じている。現時点で、格好いい大人のビジョンはまったく見えていなかった。
 中学の頃は漠然と、自分は大人になる前に死ぬんだ、という曖昧模糊とした予感を持っていたけれど、そんな根拠のない確信もいつしか薄れて霧消してしまい、16歳の俺の中には、ただ漠然とした掴みどころのない不安だけがある。
 例えて言うなら、真っ暗な海の上で、右も左も前後も分からず、頼りない小さな船でずっと漂流し続けているような、そんなどうしようもない不安だ。

「今日は初回だったから、こんなところか。茅ヶ崎、君はどう思う」

 俺がぼんやりしているあいだに、桐原先生がこちらへと視線を移していた。

「あ……はい、充分だと思います。今日はありがとうございました」ぺこりと頭を下げつつ、俺はずっと喉元に引っかかっていた疑問を、音にしてみることにした。「あの……ひとつ、先生に訊きたいことがあるんですけど」
「何だね?」
「今日のこととは全然関係ないんですけど……最近テレビとかで聞いて、疑問に思ったことがあって」
「ふむ」

 隣の先生は体ごとこちらに向き直り、居ずまいを正した。軽々な内容ではないと伝わったのだろう。こんな風にちゃんと正面から話を聞いてくれる大人を、俺は他に知らない。

「この前何かの番組で、高校生と大人が話し合ってたんです。その時に大人の方が『自分が高校生の頃は何も考えてなかったよ』って笑ってて。俺はそれを聞いて、なんか……そんなわけないだろ、って思って。その人だけじゃない。そういうこと言ってる大人ってたくさんいるじゃないですか。なんで大人は、何も考えてなかったなんて言うんですか? そんなわけないのに。俺はいま、こんなに苦しいのに。何も考えてないで大人になれるなら、なんで、俺は苦しんでるんですか」

 話しているうちに言葉に熱がこもり、最後は詰(なじ)るような口調になってしまった。目の前にいる桐原先生を責めたって何にもならないと、分かっているはずなのに。彼は敵じゃなく、俺の味方でいてくれる人なのに。
 急に脈絡のない話を長々とした俺を、先生は静かに見つめていた。少し思案するような時間があり、相手は注意ぶかく口に出す単語を選んでいく。

「これは私の考えだから、間違っているかもしれない。その前提の上で、聞いてくれ。『高校生の頃は何も考えていなかった』、そう言う大人もきっと、当時何も思い悩むことがなかったわけではないと思うんだ。けれど、時間が経つと、忘れてしまうんだよ」
「いまこんなに、苦しいのに?」

 桐原先生は重々しく頷く。

「君は……君たちはいま、嵐の中にいるようなものだ」
「嵐……」
「君はちょうど、身体的にも社会的にも、子供から大人になる途上にある。内的な変質にも外的にな変化にも曝されて、様々な要因が君を大人に作り替えようとしているんだ。自分が今までの自分ではない存在になろうとしているなんて、大事(おおごと)だと思わないか? そんな大変な状況のただ中に、君たちはいる。当然不安定で、脆くて、そんな自分を守るために攻撃的にもなるだろう。そこへ人生の選択も揺さぶりに加わってくるのだから、悩みもいっそう募る。そういう、一番大変だった時のことを、人は正確に覚えていられないんだ。自分の中に全てを保っていると、重みで崩れてしまうから」

 彼は淡々と言葉を継ぐ。そこに深い実感が伴っているのを、俺は感じ取る。

「大人になるにつれて、忘れようとしなくても忘れてしまう。いつの間にか、その苦しみはなかったことになってしまうんだ。だから、君が聞いた人たちは、何も考えていなかったなんて言ったのではないかな。私の、推測に過ぎないが」

 そうか。そうなのか。
 ぐ、と拳を握り締める。到底信じられなかった。この、身をばらばらにするような苦しみを、忘れてしまうなんて。なかったことになってしまうなんて。
 俺に将来があるなら、高校時代を振り返るときに、何も考えてなかったなんて言いたくない。

「だったら、俺は忘れたくないです」

 自分が思ったよりも、大きな声が出る。先生は眼鏡の奥の目を丸くして、こちらを見上げていた。俺は無意識に、立ち上がっていたのだ。
 ふ、とそばにいる彼の目元が優しく緩む。その優しさには、傷を耐えているような痛々しさもあって。

「君はぜひ、覚えていてくれ。それは将来の君のためにも、君の後で大人になる、たくさんの子たちのためにもなることだと思うから」
「覚えておくのが、他人のために……なるんですか」
「きっとそうなる。――細かく覚えておくには、書いておくといいだろうな。これと決めたノートなんかに、思ったことをできるだけたくさん、書きこむといい。自分の気持ち、周りの出来事、見聞きした内容、そういうことを」
「俺、やります。覚えておきたいから」

 宣言すると、先生はまたひとつ、深い頷きを返した。
 話が切れたタイミングで、何気なく公園内の時計を見る動作が、二人して揃う。時刻は21時になろうとしていた。思った以上に話しこんでしまったらしい。

「すみません。色々話して」
「謝る必要はない。教師は生徒の話を聞くためにいるのだから。だが、そろそろ帰らないと、親御さんに心配をかけてしまうな」

 腰を上げた先生がさっと服を払う。
 帰路へと足先を向け、自分より幾分高いところにある横顔を眺めながら、不意に心の内に湧いてくる感情があった。

「俺、先生とお酒が飲んでみたいです」

 すぐそこにある顔が、途端に渋いものになる。

「茅ヶ崎。二十歳になるまでは、飲酒は絶対に駄目だ。自分はいいと思っても、責任の所在は周囲の大人に」
「も、もちろん、大人になったらの話ですよ!」

 慌てて先生の話を遮る。この人の真面目さを舐めてはいけなかった。

「そうか。そう言ってくれるのは嬉しいな。……君の誕生日はいつだ?」
「7月22日です」
「それでは、あと4回君の誕生日が来たら、喜んで付き合おう」

 そう相手は言って微笑する。なんだか嬉しくなって、にやけてしまいそうで、ジャージの襟に口元を埋めた。
 桐原先生はそこで、はたと何かに気がついたように、顔をしかめた。

「しかし、その時は私は34になっているのか……そう思うと少し複雑な気持ちになるな」
「あ、でも先生はなんか、いい年の重ね方をしそうです。俺の勝手な想像だけど」

 ぴたり、と彼の歩みが止まる。俺は二歩ほど行き過ぎてから振り返った。まずい、失礼なことを言って怒らせてしまったか?
 見ると先生は一瞬の沈黙ののち、あははと声を上げて笑った。今まで聞いたことのないくらい、朗らかでからりとした笑い声だった。

「いや、すまん……自分の生徒にそんなことを言われるとは思わなかったから。期待に応えられるかは分からんが、私も楽しみにしているよ」

 そしてまた歩きだした先生の背を、俺は追っていく。外気は鋭く冷えていたけれど、心はほこほこと温かくなっていた。
 先のことは分からない。自分の将来を考えると、途方もなくて呆然としてしまう。けれどいまは、一歩先のことだけを考えていようと思う。
 今日ここで交わした約束があるから、きっと大丈夫という根拠のない気持ちが、俺の中に芽生えていた。
 迷い続ける俺を導いてくれる大きい背中、その存在を強く感じながら、意識して一歩一歩を踏み出していく。

――かつて少年だったあなたへ/いつか大人になる君へ

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