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 悶々としたものを飲み下せないまま、またシューニャや鈴たちの隠れ家へ行く日が巡ってきた。
 妻に会えるのは嬉しいはずなのに、今回だけは敷居を跨ぐ足取りが重い。と思えば、鈴と顔も合わせないうちにシューニャがずかずかと歩み寄ってきて、「こっちへ来い」と面会室へ俺を引っ張っていく。有無を言わさぬ勢いである。これは珍しい事態、というか初めてのことだ。
 外見だけは美少年の上司は、椅子に俺を座らせ、珍しく医者然とした顔でこちらを見やる。手元には今時珍しい紙のカルテを持ちながら。

「ふむ。辛気臭い顔をしておるの」
「……何の用だ?」
「先日鈴からとある相談を受けてのう。それでお主にもヒアリングが必要かと思ってな」

 心臓がどくりと跳ねた。夫婦二人まとめてのカウンセリングが必要で、医者の管轄になるものといったら思い当たる節はひとつしかない。心を読まれたかのようなタイミングに、胃の腑がぐっと重くなる。
 ――鈴が、夫である俺との夜に不満を抱いている?
 そう思ったらつい声に焦りが混じり、語調が早口になった。

「鈴が……あんたに何か言ってきたのか? それは、夜の俺が至らないということか? それとも」
「他の患者の言い分は他言できん。じゃが、そう急くな。こちらからお主に訊くからの。鈴との性生活で、相手に言えずに溜め込んでいることはないか?」

 ストレートに切り込まれ、体の末端からすうっと熱が引いていく。やはり鈴が、俺に不満を抱いている。それをシューニャに相談した。そういうことなのか。
 腿の上でぐっと拳を握る。

「不満なら……ないぞ。鈴相手に、あるわけがないだろう」
「お主ならそう言うじゃろうな。まあ、ここであると言っていたらわしが許しとらんかったが」

 言い方は冗談めかしているが、シューニャの双眸は真剣そのものだ。灰色の瞳はこちらをじっと見据えている。

「不満までいかなくとも、言いたいけれど言えていないことは多いんじゃないか? お主らのことじゃ、欲望をあけすけに口に出して相手にぶつけるなんて無理じゃろう?」

「それは……」確かに、そうなのだが。
 自分はともかく、鈴にも俺に言えていない欲があるのだろうか。何でも言ってくれていいのに。鈴の希望なら何でも叶えるのに。欲望――鈴にも、あるのだろうか?
 それは思いもよらぬ問いかけだった。そして、唐突に理解した。俺は結局、鈴に優しくしているつもりで、どこまでも自分本位だったのだと。
 言い淀む俺の心情を何と思ったか、シューニャは眉間に皺を寄せ、ふうと深く息を吐く。

「お主の性格は大体分かっとるぞ、セルジュよ。お主は以前付き合っていた気の強い女性に押し倒されて、無理にそういう行為に持っていかれた経験があるはずじゃ」
「は? おいじいさん、なんでそれを知っている? 誰にも話してないぞ」

 背後から突然ナイフで刺されたような意外性に、ぎょっとして声が大きくなる。完全に図星だった。相手は事もなげに鼻を鳴らす。

「わしとて伊達に長く生きとらんのでな、それくらい予想できるわい。その時いつもより興奮したじゃろう? お主は本来そういうのが好みなんじゃ。違うか?」

 ずけずけと指摘され、とうに忘れたと思いこんでいた記憶が、急速に脳裏に甦ってくる。
 今よりずっと若い頃だ。影の任務で疲れ果てて家に帰ると、交際している女性の腕が後ろから体に絡んできたことがあった。それを振り解く気力も湧かないまま、俺はベッドルームへと歩みを進める。

『ごめん、今日は疲れてるから』

 そんな言い訳は聞き飽きたとばかりに、相手が体重をかけてきて、バランスを崩した俺はベッドに倒れこんだ。腹のあたりに跨がる彼女は、そうする時間ももどかしそうに、みるみる衣服を脱ぎ捨てなめらかな肌をあらわにしていく。

『あなたはただ寝てればいいわ。私が全部やってあげるから』

 口元は不敵に笑んでいるが、目は逆にまったく笑っていない。そうだ、そのぎらぎらした瞳の光に、俺は釘付けになったのだ。
 俺の衣服を剥ぎ取っていく熱い指先を、止めようとすればいくらでも止められた。断ろうと思えば力づくにでも断れたのに、断れなかったのではなく断らなかったのは、シューニャの言う通り、満更でもなかったからだ。
 だからといって。今でも俺がそんな欲望を抱いていると思うなら、それはシューニャの読み間違いというものだ。

「違う」
「ふむ?」
「他の女性とは仮にそうだったとして――鈴に同じようにしてほしいなんて思うわけがない。当たり前だろう」

 強く否定した俺を、シューニャは静かな目で見返している。自分に言い聞かせるように、言葉で思考を整理していく。

「俺一人の好みがどうとか、そういう次元の話じゃない。俺たちはもう……夫婦なんだから」

 そうだ。さっき理解したように、これは自分一人の問題ではない。大事なのは、二人でどうしていきたいかだ。一方的に気持ちを押しつけるのではなく、相手の声に耳を傾ける。思っているだけでは何も伝わらない。それは俺も、鈴も一緒だ。
 自覚したら、とても単純なことだった。今すぐ鈴に会いたくなる。自分がどうしたいのか、どうしてほしいのかなんて二の次で、鈴の率直な気持ちをどうしても知りたい。きっとそれが、悩みの解決策だから。

「老いぼれの医者の助言なんぞ、要らなかったようじゃの。ここに来たときよりいい顔になっておるぞ」

 逸(はや)って腰を浮かせかける俺を、シューニャがやや目を細めて見上げる。自虐的な言葉に反し、狸爺の掌の上で踊らされた気がして、どこか癪だった。
 部屋から出ていこうとすると、背中越しにシューニャの声が追いかけてくる。

「セルジュよ、ひとつアドバイスをくれてやろう。鈴ももう一人の大人じゃ。お主が思うほど、か弱くはない」
「……アドバイス、ありがたく受け取っておくよ」

 舅(しゅうと)のような上司から貰った言葉の意味を考えながら、鈴の元へと歩調を早めた。

* * * *

 面会室からセルジュが出ていき、美貌の医師はカルテに何事か書きつける。

「あれだけ外見が違うのに、頭の中は似たもの夫婦なんじゃな」

 そう呟く声には、感慨がこめられている。

「さて……"治療薬"も届いておることだし、あとはあやつらに任せるとするか」

 シューニャは知っている。たとえ思い悩む日があっても、あの二人なら手を取り合って明るい方へ歩いていけると。傍目に見ていてもあんなに、おしどり夫婦という表現が似合う二人はいないのだから。
 二人で奏でる旋律が、いつでも軽やかな長調というのはあり得ない。時には短調の音が混じることもある。それも人生を深める味わいになるのでは、とシューニャは思う。
 老獪な医師は首を回し、やれやれといった風に腰をさするのだった。

* * * *

 勇んで会いにいったものの、愛しい妻はどこか上の空で、そわそわとしていた。もしかしたらどこか具合が悪いのかもしれない。なに、焦ることはない。こちらの心は決まっているのだ。言葉を交わすのはゆっくりやればいい。
 夕食を隠れ家の皆で摂った時、鈴は普通に食べて談笑もしていた。体調不良ではないようで安心する。入浴を済ませてやっと夫婦二人の時間になった。パジャマ姿でベッドに腰かけ、鈴がシャワーを浴びるかすかな音を聞きながら仕事のメールを処理していると、やがて寝室のドアが開いた。

「あの……セルジュ様、もう寝ますか?」
「うん? そうだな、そろそろ――」

 いつもより上ずって聞こえる細い声。PCをスリープさせ、声の主の方を仰ぎ見て。
 俺は絶句した。鈴の格好に。
 常のような、すとんとしたネグリジェ姿ではなかった。ふわふわとした白いレースのような薄い布が上半身を飾るそれは、ベビードールと呼ばれるものだろう。妻の頬や耳までが朱に染まっているのは、湯上がりだからというだけではないはずだ。鈴はそれでも、大きな瞳で気丈にこちらを見つめている。双眸が潤んで見えるのは気のせいか。
 ベビードールはキャミソールの裾を伸ばしてひらひらさせたような形で、胸の部分以外は肌が透けている。透けているのだ。ところどころに桃色のリボンがあしらわれ、前開きになった布地の端からは、ちょこんとしたへそやベビードールと共通したデザインのショーツが、ちらちらと見え隠れしていた。
 妖精と表現するには扇情的で、妖艶と言ってしまうには可憐さが勝るその立ち姿。最初の衝撃と動揺が治まってくると、今度は自分の体温が急上昇するのを感じた。なんと可愛らしい格好をしているのだ、我が妻は。
 きっとシューニャだな、という確信はあった。何を鈴に着させているんだ、と少し憤慨が湧くものの、愛しさが遥かにそれを凌駕する。悔しいかな、そのデザインは自分の趣味にばっちり嵌まっていた。
 ベッドから立ち上がり、鈴に歩み寄る。そのまま目に毒すぎる体を抱き締め、耳の近くで囁いた。

「シューニャに着ろと言われたのかい?」
「っち、違います。これは、自分の意志で……」
「それなら、今夜は訊かなくてもいいんだね? 自分で着たのだから」

 はい……と消え入りそうな肯定が返される。体の内側から激しく突き上がる衝動に任せ、鈴の細い体を抱え上げた。そっと妻をベッドに横たえると、澄んだヘーゼルの瞳がゆらりと不安げに揺らめく。

「あの、旦那様は……この服、お嫌いではないですか」
「嫌いなわけない、好きだよ。でも服が好きなんじゃなくて、それを着てる君が好きかな。……綺麗だから、興奮するよ」

 おそらく今、自分は欲の熱に炙られた目をしているのだろう。いつもなら口にしないような言葉もすらすらと形になっていく。
 薄い耳朶を食むと、妻の肩がぴくりと震えた。

「電気、消そうか」
「あ……今日は、このままで……」
「分かった。鈴、俺にしてほしいことがあったら何でも言ってくれ。不器用な夫を助けると思って、どうか遠慮なく」
「はい……分かりました」

 気持ちが熱く昂っているのは、彼女もなのだろうか。寝そべる鈴に口づけると、首の後ろにするりと腕が回ってくる。そのまま互いの舌が絡まり、今までになく激しいキスになった。手に力が入りすぎないように注意しつつ、光沢のある布の上から胸のふくらみに触れる。ん、と鈴が身動ぎした。掌にすっぽり収まる大きさのそれは、手に馴染む柔らかさだ。
 鈴の唇から口を離し、今度は胸の頂部分を、布ごとべろりと舐め上げた。
「……っあ」鈴の体がよじれる。しばらく刺激していると、布越しにもそこがぷっくりと形を主張し始めるのが分かった。頭上から漏れ聞こえる吐息はどんどん熱っぽく、甘くとろけていく。
 頃合いを見て、ショーツの中に指を差し入れる。ほとんど抵抗なく潤んだそこに迎え入れられた。熱い襞に指を包まれ、脳髄まで焼き付くような感覚に襲われる。

「もう、とろとろだね」
「……っ」

 鈴は掌で口元を押さえ、声を殺していた。我慢しなくてもいいのに、と思うが、その仕草さえ愛らしい。
 しばらく指での愛撫を続けていると、体の下の鈴が「だんな、さま」と苦しげな声を上げた。瞬間的にしまった、とひやりとする。

「ごめん。痛かった?」
「違う、のです。あの……」

 鈴はとうとう両手で顔を覆っている。切れ切れに漏れ聞こえる声を聞き逃すまいと耳をそばだてた。

「そんなに、優しくなくても大丈夫、なので……」

 羞恥で震える言葉を理解した刹那、電撃にうたれたみたいに全身が硬直した。すべての音が遠退く。脳機能がフリーズするとはこのことか、と他人事みたいにぼんやり実感した。愛する相手にそう言われて、どうにかならないほど自分は人間ができていなかった。
「鈴……!」がばりと妻に覆い被さり、首筋に軽く歯を立てる。

「そんな風に言われたら、我慢が利かなくなる」
「いいのです……我慢、なさらないで」

 たまらなかった。理性が吹っ飛びそうになるのをなんとか堪(こら)えている状態だ。ベビードールの裾から手を差し込み、肌に直接触れる。

「鈴……その格好、誰かに見せた?」

「と、とんでもない……!」問うと、相手が首を激しく振る。その振動が全身に伝わってくる。

「そうか。君のその姿は、俺が一人占めしてるんだね」
「格好だけでは、ありません。旦那様……わたくしの全ては、あなたの」
「鈴。君は」

 言葉尻をとらえて嗜める。あなたのもの。そう言いかけたのだろうが、俺は鈴を自分のものなんて思ったことはない。
 両手を突いて真上から妻を見つめる。彼女は凛とした目で俺を見つめ返していた。

「分かっています。わたくしは物ではない、と……けれど敢えて言わせて下さいまし。今の時間、わたくしを、セルジュ様だけのものにして下さい」
「……君が望むなら」

 鈴が紡いだ切々とした言葉に、眼前が潤むほど感じ入ってしまう。
 さらさらとした感触を掌に感じながら、彼女の腿を持ち上げた。ベビードールの裾は乱れているが、陶器ほどになめらかな肌は完全にはあらわになっていない。隠されている部分がある方が、興奮が高まるのはなぜだろう。
 これからの行為でなるべく痛くないよう、気休めかもしれないが手を絡める。幾周りも小さい手がこちらの指に絡み、心臓のあたりがきゅうとなった。

「少しでも嫌だったら、嫌だと言うんだよ」
「大丈夫です。セルジュ様がすることで、嫌なことなんてありません」

 上気した頬に、うっすらと微笑が浮く。
 目の前が一瞬、白飛びしたように感じた。鼓動が止まらなかったのが不思議なくらいの衝撃だった。今日はあまりにも動揺しすぎている。全然全く、嫌ではないけれど。

「鈴……そんなことを言ったら、男は付けあがるよ」
「構いません。言う相手は、あなただけですから……」

 鈴が言ってくれる言葉ひとつひとつが俺を揺さぶる。喜びとか嬉しさよりも、もっと原始的な感情で頭が沸騰しそうだった。
 こちらの頬に片手を添えながら、妻は柳眉をほんのりとひそめる。

「こんなわたくしを……お嫌いになりますか?」
「まさか。どんな鈴も好きだよ。むしろ、さらに好きになった」

 至近距離で視線が交錯する。
 今までにない特別な夜になる予感に、二人でしっとりと身を浸していく。酔いしれる準備はもう、できていた。

――ラブバードの囀りはブルー・ノートで

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