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ラブバード [lovebird]
 (名)
一、ボタンインコ
二、(lovebird‐s)仲の良い恋人、おしどり夫婦



 鈴はここ最近、とある悩み……とも言えない小さな、しかし切実な煩悶を抱えていた。それは夫のセルジュに関わることだ。
 夜の静けさに身を浸しつつ、シーツの表面をさら、と指先で撫でてみる。
 勿論、彼に不満があるはずはない。月に何日も会えないことは寂しいけれども、毎日一緒にいたいという望みを、組織の状況が許してくれないことは鈴自身よく理解しているつもりである。そう、頭では。
 セルジュと夫婦になって早数年が経った――といっても、共に過ごした日数は累計で半年にも満たないけれど。このところ一人でベッドに横になると、どうしても夫の目や声や手つきが脳裏に浮かんでしまい、居たたまれないような、切ないような、なんとも焦がれた気持ちになる。
 こちらを見つめる深々とした一対の瞳。ベルベットのようになめらかで落ち着いた低い声音。壊れ物に触る時ほどに優しい手つき。
 それらの幻想が鈴の体の内部に熱を生ませ、そのもどかしさに何度も寝返りをうつ。鈴にはその焦燥感にも似た熱さを解放、または解消する方法が分からなかった。夫の武骨で大きい手を想像し、思いきってネグリジェの上からそっと胸に触れてみるけれど、ただ自分の掌が自分の肌に触れたという感覚をもたらすだけで、より一層焦れったさが募る。
 誰にも言えない煩悶を抱えながら、そうして夜が更けていく。


 実を言えば、相談相手ならいないこともないのだった。
 それは最初から分かっていたけれど、いざ行動に移そうとすると、内容が内容だけにかなりの気力が要る。逡巡するうちに二日が経ち、一週間が経ち、ひと月が過ぎようとしていた。このままでは、永遠に悩みを吐露することができなくなりそうだった。
 相反する気持ちを天秤にかけ、恥を振り切り、今こうして鈴はシューニャの前にいる。彼は本業は外科医だけれど、自分が抱えている問題はきっと医師のカウンセリングの範疇に入るだろう。そんな心境で来たはいいが、自身の現状を面と向かって言葉にするのは別の勇気が必要だった。なかなか本題を切り出せず、丸椅子の上でも指先をもじもじ絡める鈴を、シューニャは急かすでもなくじっと待ってくれている。

「あの……実は、少し悩んでいることがありまして」

 やっと口火を切った鈴に、美少年の姿をした医師は小さく頷き返す。もう全てを了承しているように。

「わざわざこの場に来るということは、セルジュにも話せず、その上医療がカバーする分野というわけじゃな? となると、性交渉についての悩みかのう」

 鈴の薄い肩がびくりと震える。シューニャが医者らしく、衒いなく単刀直入に切り込んでくれるのはありがたかった。はい、そうです、と答える鈴の声は限りなく細い。

「して、セルジュに何か不満があるわけか」
「そんな、滅相もありません……!」

 慌てて手を体の前で振る。常に優しく、気遣ってくれる彼に、不満などあろうはずがない。

「そういうわけでは……むしろ、旦那様がわたくしに満足しているのか、それがとても不安で」

 鈴は腿の上で両手をきゅ、と握り合わせる。つまり悩みというのは、自分への不満が夫に溜まっているのではないか、という心配だった。
 セルジュに出会う前の鈴は言うなれば、色づけられる前のまっさらな画用紙だった。セルジュに手取り足取り全てを――誇張でも何でもなく、本当に全てだ――教わり、鈴は自身の中の新しい己を知った。
 そんなだから、結婚して数年経つというのに、あらゆるものの刺激がまだ強く、恥ずかしさもまだ色濃く、夫の裸の体すらちゃんと見たことがない。ベッドに横たわったまま、手足を相手に伸ばしたり、口づけを返すくらいが精いっぱいで、あとは与えられる波に翻弄されるばかりだ。
 どうしても、彼と以前交際していた女性について鈴は考えてしまう。セルジュから何か聞いたわけではない。けれど、前の彼女は何々をしてくれたのにとか、夫が考えているのではと想像してしまうのだ。
 セルジュは人間ができた大人だから、夜の営みに限らず、鈴に不平不満を漏らすことはない。彼の胸の内に黒いものが溜まって渦巻いていたとしても、経験不足がすぎる鈴には察する術がなかった。セルジュが今の状態で果たして満足なのか、いつか飽きられてぽいと放り捨てられるのではないか、鈴はそんな恐れを抱き始めていた。

「わたくしは……セルジュ様と出会うまで、何も知らなかったものですから。経験が豊富でいらっしゃる旦那様がどう思っているのか、分からないのです……」
「ふむ。あやつもそれほど場数を踏んでいる男ではないと思うがのう」

 シューニャは思案げに顎を撫でながら、ばっさりと切り捨てる。

「きっとお主が心配しているようなことは何もないはずじゃよ。それはわしが保証する。しかしのう……」

 患者の意図を捉えようとする医師の視線が、こちらをまっすぐに射抜いた。鈴は椅子の上で居住まいを正す。

「あやつに対しての懸念はおそらく、お主自身が抱いている懸念――フラストレーションとも言えるかのう、その裏返しではなかろうか」
「それは、どういう……」
「セルジュにもっとこうしてほしい。そう思っていることはないかな」

 鋭い指摘を受け、にわかに鈴の頬が熱を持つ。
 セルジュはいつも優しい。ともすれば優しすぎるほどに。手つきなどは壊れ物を扱うそれそのものだ。そんなに優しくなくても、傷ついたり壊れたりしないのに、と鈴は思う。最初こそ彼の大きく厚い体に恐怖心がなかったわけではないけれど、今はもう、全身を包まれるような安心感だけがある。
 たっぷり一分ほど逡巡してから、言った。

「こんなことを言うのは烏滸がましいのですが……その、旦那様はとても優しいです。それは嬉しいのですけれど……そんなに優しくしなくても、わたくしは……」

 言葉は先細りして、それ以上は羞恥が勝ってしまい、音にならなかった。それでもシューニャには、すべて伝わってしまったようだ。

「なるほどのう。あやつにもっと荒々しくしてもらいたいということじゃな」

 淡々と言い募るのがさらに鈴の羞恥心を煽る。彼は悩みの本質がそちらだと、造作なく見抜いているのだろう。

「それを直接本人に言うのはどうかの? 奴は別に嫌がったりせんはずじゃ。むしろ嬉しがる可能性の方が高いと見るが」
「そうなのですか? はしたない人間と思われないでしょうか……わたくし、あの方に嫌われるのだけは嫌です……」

 鈴は俯き、自分の頼りない両手を見る。

「優しくしなくていい」なんて、セルジュの優しさを無下にする恐れ以上に、彼に嫌われてしまいそうで到底言い出せないと思った。鈴が背負っているものを丸ごと受け入れてくれた、心の広い彼に嫌われるのが怖い。「君がそんな女性だとは思わなかったよ」と夫に片目で冷然と見下ろされる場面を想像すると、全身がふるふると震えてしまうほどに。
 シューニャは鈴に静かな眼差しを向けている。鈴の奥ゆかしい性格を思えば、直接言うように勧めても実際口に出すのは難しいと、分かっているのだろう。
 子供の姿をした壮年の医者は、自分を納得させるような首肯を何度か見せた。

「それならばわしの方で、言葉無しでも問題を解決できる"薬"を"処方"するとしよう。手配するのに数日かかるが、次に奴が来るまでには間に合わせるでの」
「そんなものが、あるのですか」

 そんなお誂え向きのものがあるのかと、不思議に感じた鈴はこくりと首を傾げる。

「うむ。こういった繊細な事情では時に、言葉よりも雄弁なものがあるのよ」
「あの……危険なものでは、ありませんよね?」
「無論、体に害はありゃせんよ。使いどころを誤ると、少々"危ない"かもしれないがのう。ほっほ」

 シューニャの顔色は変わらないが、どこか愉快そうにしている気配がある。薬の正体が気になるものの、相手は仔細を語らぬ心積りらしい。それならばきっと、今訊いても仕方ないのだろう。と鈴は自身を半ば強引に納得させた。

「それではあとは任せておけ。お主が思うより、あやつは単純な生き物じゃ。憂うことはないぞ」
「あの、今日ご相談したこと……旦那様には……」
「勿論言わんよ。患者のプライバシーは守る。それが医者というものじゃ」

 シューニャは無表情のまま、長い睫毛に縁取られた片目をばちんと瞑ってみせた。

* * * *

 明かりを落としたホテルのベッドルームに、自分の荒い息の音だけが、いやに響いて聞こえる。
 要人との三日間に及ぶ非公式の会議を終え、一人で一息ついていたときだった。そういう気のゆるんだ瞬間には決まって妻の顔が思い浮かぶ。浮かんで、どうしようもなく恋しくなる。ここに、隣に、彼女がいてくれたら。艶やかな黒髪を撫で、小さい体を抱き締め、そして彼女が俺に笑いかけてくれたなら。全身を重たくする疲れなど一瞬で吹き飛ぶだろう。
 そう想像してしまうともう駄目で、疲れも相まって下半身が熱を持ち始める。構わずに寝ようとするも、変に目が冴えてしまい叶わない。妻がある身だから、そういった趣旨の映像を見たり、金銭で女性との夜を買ったりするつもりは微塵もなかった。結局は妻のすんなりとした肢体と恥じらう姿態を思い起こしながら、自らを慰めることになる。
 抑えきれずに切れ切れに漏れる愛らしい声。指先をためらわせつつ、おずおずと絡められる手。妄想はいつしか、鈴にしてもらったことのない行為にまで及び始める。
 俺の下腹部へ伸びる細くたおやかな指。ぎこちなく上下に扱き始める薄い掌。懸命に愛撫する小さな口と舌。閉じられた瞼の膨らみと、伏せられた睫毛の震え。
 想像の中で鈴の口に咥えられたまま、俺は達した。
 快感のピークが過ぎてしまえば、後に取り残されるのは妙に冷静な自分だけ。

「……、はあ……また……」

 息が上がっていた。べたべたになった右手を見下ろせば、またやってしまった、という自責の念にとらわれる。自慰のあとは決まって、脱力感とともに激しい自己嫌悪に陥るのが常だった。それでも辞められないのは、妻に会いたいという衝動が切実に大きいからだ。
 しかし、自分はなんと卑しいのだろうか。己の欲望を発散させるためだけに、想像上の妻に一方的な願望を押しつけ、自分のいいように弄んでいる。ポルノと一体何が違うだろう? 俺のこんな姿を見たら、きっと鈴は軽蔑する。いや、悲しげに表情を曇らせて、言葉もなく俺から離れていくかもしれない。自分が嫌われるだけならまだいい。鈴を傷つけることだけは絶対に嫌だった。
 妻との夜に、度々感じることがある。
 恥じらって両手で顔を覆い、細い体を目の前で悶えさせている彼女を見ていると、自分を律している箍が外れかけるのだ。
 肌を重ねながら、脳内がifでいっぱいになっていく。もしここで鈴の体を抱え上げ、後ろからの体位に変えたらどんな反応をするだろう。触って、舐めてくれ、と言ったらどんな顔になるだろう。ぎりぎり痛くないくらいに、もっと力をこめたら? 上に乗ってくれと言ったら? 鈴の体の状態を、意地悪く耳元で囁いたら? そうしたら、妻は。
 齢三十も超えたというのに、初めての感覚を覚えて俺は戸惑っている。自分の中で鎌首をもたげる、この嗜虐的とも言える気持ちは何なのだ。
 優しくしたい。鈴が辛いことはしたくないし、嫌なこともさせたくない。自分にしてほしいことがあるなら言ってほしい。二人の生々しい気持ちをもっと解放して、剥き出しのものをお互いにぶつけ合ってみたい。そのどれも、本心だ。
 口に出してしまえれば楽かもしれない。しかし鈴に嫌われ、取り返しのつかない事態になったらどうする? いつも誘うのは俺ばかりで、もしかしたら相手は自分とするのがそんなに好きではない可能性すらあるのに? 鈴に冷めた視線で蔑まれたら立ち直れない――そんな冷たい目も想像したら悪くないと思ってしまうが、今はそういう問題ではない。
 要するに、不安なのだ。悩みはその一言に収束する。十も年上の男が、我も忘れてがっついてきたら、妻は幻滅するのではないか、と。
 三十にもなったらもっと落ち着いた人間になっているものだと思っていた。全然、理想には程遠い。

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