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 既に覚悟はできていた。
 己の息の根を止める異端審問官がきっとルカであろうことも、最後に彼へ投げかけたい言葉も考えてあった。だから、もう心残りはない。
 この世界に別れを告げる心構えはできている。


 かつての研究室のボスとともに、世界の果ての地で共同研究をおこなう、マシューにとっては奇妙に懐かしい生活が始まってしばらく経った。
 教授は実験の待ち時間などに、マシューに色々な話をして聞かせた。彼は大学を退官してのち、しばらくは自宅の庭を季節の植物で埋め尽くすことに熱を傾けていたらしいが、バイオ系のベンチャー企業に声をかけられ、ここ数年はそこの特別フェローに就いていたそうだ。週3日ほど技術指導のために出勤する、楽しい日々だったと語ってくれた。
 行動がすべて監視下にあるとはいえ、元ポスドクと久方ぶりに会話する教授はたいそう嬉しそうだった。そんな彼の表情を、マシューは実のところ居たたまれないような、苦々しい気持ちで見ていた。
 トゥオネラに連れてこられた当初、教授は"罪(ペッカートゥム)"に協力することを躊躇っていた。当然の反応だろう、好き好んで禁忌に触れたがる研究者などそうそういるわけがない。そんな彼にディヴィーネは、ルカとマシューが聞く前で、あの独特のなめらかな声で静かに語りかけた。研究が一段落着いたら、この施設での記憶だけをピンポイントで消してあげると。非合法の研究に手を染めたというあなたの過去は綺麗さっぱり消え去り、罪悪感も持たなくて済むのだと。マシューは知っていたが到底言い出せなかった。そんな都合のいい技術が実用化されたなどと聞いた覚えはないし、この先開発される可能性もないだろうことを。
 記憶を消すなどといった、まどろっこしい手法をわざわざ生み出す必要はない。用済みの人間は、単に殺せばいいからだ。
 もちろん、マシューはかつてのボスをみすみす死なせるつもりはなかった。恩義があるし、彼ほどの権威を失うことは科学にとって大きな損失だ。しかしながら、既に目を付けられて立場を危うくしている自分が、大っぴらに動くことはできないのも事実で、選ぶとしたら方法とタイミングはひとつしかない。
 自分の身の振り方について考えるマシューは、自室で煙草をふかしながら確信を新たにしていた。


 前触れなくマシューの居室のドアがノックされ、思索に沈んでいた意識が現実へ浮上する。短くなりはじめた煙草を灰皿の縁に置き、こんな時間に誰だろうとドアロックを解除した。
 そこにうっそりと佇むのは、薄着の長身の女だった。異端審問官のひとりであるポーラ。真っ赤なルージュを引いた唇が、蠱惑さを見せつけるように弧を描いている。

「ご機嫌よう、マシューさま」
「……姐(あね)さんか。何の用だ? こんな時間に」

 眉をひそめて尋ねる。ポーラがマシューの元を訪れたことは今までに一度もない。豊かな胸元を惜しげもなくあらわにした女は、中で話してもいいかしら、と言っている最中に部屋の敷居を跨ぐ強引さを見せた。
 仕方なく彼女を迎え入れてから、流し目で突然の来訪者を観察する。マシューはなぜか彼女のお気に入りであるようで、事あるごとに絡まれてきた経験がある。好みの女性のタイプではないし、そもそもポーラと深く関わることは死と同義なので適当にあしらってはいたが、危険性がなかったら体の関係くらいは持っていたかもしれない。正直、妄想の中でなら最後までなだれこんだことがある。比較的淡白なマシューにさえそう考えさせるくらい、ポーラは扇情的な存在だった。
 被虐性を煽る冷たい灰色の眸。いつも深紅に塗られた爪と唇。血管が透けるほど白くなめらかな肌。すらりとした健康的な体躯に、たっぷりした豊満な胸。つくづく男の欲望を具現化したような女だ。本人にも少なからず、男の劣情を刺激しようと意識している部分もあるのだろう。これ見よがしに開けられた服の袷に目をやると、歩くのに合わせて大きな脂肪の塊が揺れていた。
 ポーラはつかつかと居室の奥へと歩みを進める。構成員に割り当てられた部屋は全て同じ造りなので遠慮もなにもない。彼女は灰皿の吸いさしの煙草をするりと拾い上げ、ためらいもなくそれを咥えた。そのままリビングを抜け、マシューが寝室として使っている部屋まで進み、ベッドに腰かけて足を組む。下着も穿いていないはずなのに、よくそんな芸当ができるものだと感心する。
 ポーラはふうっと気だるげに白煙を吐き出してから、マシューに告げた。煙草の吸い口に口紅がべっとりとついている。

「今夜はお願いがあって参りましたの」
「夜伽の相手ならほかを当たってくれよ。俺はまだ死にたくないんでね」

 肩を竦めて牽制すると、ポーラは愉快げに目元を緩める。

「茶化さないで下さいな。……あなたにしか頼めないことがあるのですわ。ね、ルカさまの弱点を教えて下さらない?」
「ルカの? なんでまた……」

 訝りながら訊き返す。ポーラとルカは同じ枢機卿であり異端審問官なので、役職的に同じ立場にある。ポーラはマシューよりも古株で、ルカはディヴィーネとともにここへ来た新参者という違いはあるが。その彼の弱味を握ろうとする意味が解せない。

「弱点たって……大体、会話が筒抜けなのにそんな話をしてたら問題になるだろ。ルカは俺たちの主様のお気に入りだぜ。俺は元々嫌われてるから構わないが……姐さんの心証が悪くなるんじゃないか」
「心配ご無用よ。ボスは今、ルカさまの独奏会をお聞きになっているもの。あの方たちは防音室の中に二人きりでいらっしゃるわ」

 そこまで折り込み済みなのか、とマシューは呆れた。「二人きり」の部分を強調する含みのある言い方が若干気になるが、突っ込まないことにする。ルカはよほどこの怖い女(ひと)の恨みを買っているらしい。大変だな、あいつも。
 目の前のポーラが不意に笑みを深めた。

「もちろん、ただでとは言いませんわ」

 すらりと長い腕が伸びてきて、出し抜けに手首を掴まれる。そのまま手がぐいと引かれ、服の下で激しく存在を主張している胸元へと掌が押し当てられた。指が沈みこみ、男を狂わせる弾力と柔らかさが布越しに伝わってくる。あまりにも唐突で大胆な行動に、どく、と体の奥の方が脈打ち熱を持つのが分かった。
 だが、マシューの心に純粋な喜びはない。ポーラの"ご褒美"は死と隣り合わせだからだ。ここで言う通りにしなければ殺すという脅しなのかもしれず、目の前に快楽か死かの究極の選択を突きつけられているとも言えた。マシューは今、理性で身の危険を感じながら、本能で愉悦を求めかけていた。
 試すような目線がこちらを捉え、どう答えたものかと思考を走らせる。先日聞いた、ルカの身の上話は弱点に入るだろうか。とはいえ、入るとしてもそれを目前の女に教える気はさらさらなかった。曲がりなりにもルカを友人と公言したのだ、たとえこんな状況でも――ルカが自分を何とも思っていなくても――己の気持ちを裏切ることはできない。
 代わりに、落としどころとして思いついたことを口に出す。

「ルカの弱点なんて思い浮かばないがな。間接的に弱点になりうるものなら教えられるぜ」

 ポーラの瞳に興味の色が表れる。マシューは語った。己とルカがたびたび、ヴァイオリンとピアノで共に演奏していたこと。その行為により、やっかみかどうかは定かではないが、主の怒りに触れたらしいこと。

「演奏自体は楽しかったがね。俺のやったことで、ルカの立場を危うくしちまったかもしれないとは思ってる。そこがウィークポイントと言えなくもないんじゃないか?」

 ディヴィーネはどうやら、ルカが弾くピアノを大切に思っている。その独占に分け入って、またルカと二人でのデュエットに持ち込めば、意図的にルカが責められるよう仕向けることも可能だろう。だがおそらくそれは、自惚れでもなくマシューにしかできない。
 理論上弱点と言えなくもないが、実際には弱点とはならない箇所。それがマシューが得た、自身もポーラも納得させる落としどころだった。
 目の前の女は返答を聞いて剣呑にほほえむ。

「それ、ご自慢?」
「は?」

 思いもよらない反応に小首を傾げる。女は短く溜め息を吐いて、灰皿はあります? と逆に訊いてきた。マシューは懐から携帯灰皿を取り出し、騎士のようにそれを恭しく差しのべて、煙草をひねり消すささやかな圧力を受け止めた。
 それが済んでから、だって、とポーラが甘えるような声を出す。

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