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 ルカの腕力をもってすれば、ぼくの細腕を強引に引き剥がすことなど造作もないのに、彼はそうするそぶりも、意思すら微塵も見せない。ぼくは力ではないもので彼を屈服させているのだ。
 ああ、と感嘆が漏れそうになる。他人の体を侵したことも、他人に侵されたこともないルカの清らかな肉体。その不可侵領域にいま、ぼくは踏みいっているのだ。そのことにくらくらするほどの優越をおぼえた。
 さて、と、彼の中で嗜虐の限りを尽くしていた、自分の体の一部を引き抜く。目尻に涙を溜めたルカの髪を無造作に掴み、顔を上げさせた。琥珀色の双眸の焦点は、混濁していておぼつかない。

「ねえルカ……いま、何を考えてるの?」

 あえて声に甘さを含ませて、ひどく優しげに問う。
 身体的に痛めつけられたぎりぎりの状態では、人は本音を取り繕えないものだ。それがぼくの持論である。もしルカがここで反抗的な態度を取ったりしたら、ぼくは高笑いしながらまた彼を痛めつけていたかもしれない。それも、嬉々として。そうすればルカの不貞の憂さ晴らしができたと満足を得て、この部屋から出ていくことができただろう。心のどこかで、それが起こるのを期待していた。
 けれど、ルカは違った。
 唇が二、三度苦しげに開閉したあと、

「私の、心も体も……すべて、あなたのものです」

 掠(かす)れた切れぎれの声ながら、はっきりと言いきったのだ。
 ぼくは不意を突かれて、何も反応ができなかった。
 自分の心は矛盾している。ルカにぼくへの絶対的な忠誠を強いておきながら、その裏で彼を侮り、試し続け、いつかはぼくに不実な態度を取るだろうと予想している。それは根元的に、人間は皆等しくクズだと考えているからだ。普段ぼくに従順なルカでも、これだけ理不尽な扱いを受けたら、塵ほども反抗的な気持ちを抱かないわけがあるまい。その反抗の火種が瞳に宿るのを見て、ほら見たことか、やはり真に高潔な人間などいないのだ、と持論を揺るぎないものにしたいのだ。あるいはここでルカが泣いて許しを懇願でもしたら、ぼくの溜飲は下がったかもしれない。
 けれど、クズの一人であるはずのルカは、どこまでも透明な瞳でぼくを見返し続ける。曇りの一点もないまっすぐな言葉をぼくに向け続ける。
 ぼくはほんの少し、彼に畏怖のような感情をおぼえた。
 先ほどまでの優越感はどこかへ霧散し、高揚した感情もいつしか萎えていた。

「君は……おかしいよ」

 悄然と、駄々っ子みたいに力なく罵言をぶつけると、ルカは真意を探るような目をぼくに注いだ。
 ――やめてくれ。そんな目で、ぼくを見ないでくれ。
 ぼくは君を陥れて手下にして、そのことを微塵も引け目に思っていないのに。なぜ、そんな目ができる?
 当てつけに似た衝動が喉から溢れだしそうになり、その衝動は最終的にぼくの腕を突き動かす。我に返ったときには、ぼくはいつしか、懐に入れていた銀色のナイフの切っ先を、ルカの喉笛に突きつけていた。
 空気が張りつめる。一触即発の状況にもルカは寝そべったまま、何も言わない。ぴくりとも表情も変えない。硬直するわけでもなく、自然に力を抜いた状態で、ぼくの乱心を見つめている。

「ルカ……どうして?」

 絞り出したのはそんな曖昧模糊とした、問いにもなっていない問いかけだった。ぼくは何を訊きたかったのだろう。ルカに何を答えてほしかったのだろう。嵐が通過したあとの木立くらいめちゃめちゃになった心境では、正常な思考回路などはたらくはずもなかった。
 ぼくはルカの表情を歪ませたかった。物理的な刺激でではない。ぼく自身の言葉で、ルカの中の性悪(せいあく)を引きずり出したかった。
 鋭く尖った言葉がほろりと口を突く。

「ねえルカ、もしぼくが――君を殺したい、って言ったらどうする?」

 ルカの目はわずかに見開かれたように見えたけれど、それはぼくの願望が見せた幻であったかもしれない。
 一瞬ののちには、ルカは完全な平常を取り戻していた。

「……然様(さよう)ですか。それでは、お力添えを致します」

 落ち着き払った、平坦で温度のない応(いら)え。
 下からルカの腕がするりと伸びてきて、長い指がぼくのそれに重なる。冷えびえとした手先だった。ルカの掌はぼくのものより二回り以上大きく、柄からはみ出した左親指が刃にかかっており、彼の指にぐっと力が入ると、その部分に添えられた指から血が伝った。暗い中でも、滴る血液がルカの喉元を赤黒く染めるのが分かる。
 琥珀色の瞳には何の躊躇も逡巡もなかった。ナイフはルカの手にこめられる力のベクトルに従い、今にも急所目がけて引き寄せられようとしていた。
 そうすれば、ぼくは吹き出るルカの血潮を浴び、ぐっしょりと紅に塗(まみ)れることになるだろう。自分が音にした望みのままに。

「やめてよっ」

 ぼくは咄嗟にルカの手を振り払う。制止の言葉はほぼ金切声となった。ナイフは床に叩きつけられ、重心を軸にカラカラと音を立てて回転する。それが止むと、部屋はいやに耳を突く静寂に包まれた。
 ぼくは後退りするようにルカの体から降り、ベッドから離れる。ルカはそのあいだもずっと、顔色を変えずにこちらを見返していた。
 全身から血の気が失せていたけれど、乾いた笑いが自ずとこみ上げてきた。大丈夫、ぼくはちゃんと冷笑を浮かべられている。

「ふふ、やだなあ」と横たわったままのルカに言葉をぶつける。「冗談だよ、こんなの……。本気と冗談の区別もつかないんだ? やっぱりどうかしてるよ、君は」
「申し訳ございません」

 ルカはさらさらと、この世のすべての瑕疵はもちろん己にあるのだと言わんばかりに、その言葉を口にする。ぼくは当然自覚している。どうかしているのは自分なのだと。
 ルカは不意に身を起こし、ベッドの縁で姿勢を改めた。

「ディヴィーネ様。これまでもこれからも、私はあなたの味方です。何があろうと、私の心は変わりません」

 それは短く単純ながら、あまりにもまっすぐで衒(てら)いのないメッセージで。ぼくの心臓に、ぐさりと深く突き刺さるようだった。
 胸の内を拒絶の黒い靄が覆う。そんなに簡単に、ぼくのところまで堕ちてこようとしないでほしい。吊り上げた唇の端がひきつる。
 ――ぼくのことなんて、何も知らないくせに。

「……味方なんて要らない。何様のつもり? 君はただ、ぼくの言うことに従っていればいいんだよ」
「はい。差し出がましいことを申しました」

 ルカはすぐに引き下がったけれども、迷いのない目をこちらに注ぎ続けている。ぼくは「……指は大切にしなよ。ピアノが弾けなくなったら、ぼくが困るんだから」と当てこすりみたいな台詞だけを部屋に残し、うっすらと苦い蹉跌(さてつ)のような心持ちを舌の上に感じながら、ナイフを拾い上げることも忘れ、腹心の居室のドアを跨いだ。ルカはきっと、見えなくなるまでぼくの背中を見つめているのだろう。あの、濁りのない宝石のような眼(まなこ)で。
 自分は今、帰り道が分からなくなって途方に暮れる子供と同じ顔をしているに違いない。ふと、大声をあげて泣いたのはいつが最後だったろう、という思いが胸を締めつけた。いつも心の奥底に押しこめて、見ないふりをしている感情が不意に浮上してくる。
 ――ぼくが、自分以外の誰かなら良かったのに。
 益体もない感情をその場に置き去りにするように、ぼくは歩調を早めていった。

――エピステモロジーにさよなら
Good-Bye, Epistemology

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