鞠は10分遅れてやってきた。
 僕が座っている座席の方へ、周りをちらとも見ずにまっすぐ歩いてくる。窓際の2人掛けの席にいる、とつい先刻メールしたばかりだった。
 先日梅雨入り宣言がされたものの、空はぐずぐずと陰鬱な雲を増やすばかりで、人がやきもきするほどに雨が降らない。ただ湿度は高いらしく、まだ冷房を入れていないカフェの室内は人いきれも相まって不快なほどむっとしている。
 遅刻は彼女にしてはかなり珍しいことである。奇妙、といっていいくらいだ。
 僕と相対する席に着いた鞠の眉間には深い皺が刻まれていた。憤慨の表情だ。

「珍しいね。何かあった?」
「ナンパされた」
「おっ、モテモテじゃないか」

 何モテモテって、古い、と吐き捨てて、鞠はメニューを手に取った。このカフェには二人で何度も来ているが、鞠は同じものしか頼んだことがない。いつもキャラメルマキアートだ。

「キャラメルマキアートひとつ」

 鞠が店員に告げる。やっぱり、だ。

「鞠はいつもそれだね」
「好きだから」

「でも他にも鞠が好きなものがあるかもよ」
「でも頼んで、好きになれなかったらどうするの? そんなものにお金を払うつもりはないの」
「うーん、そっか」

 僕は苦笑する。鞠の気の強さ、それが彼女を彼女たらしめていると僕は思っている。

「ところでさ、ナンパしてきた男ってどんな感じだったの。俺との約束を反故にしてついていきたくなるような男だった?」
「そんなわけないでしょ。教養も無ければ品も無い、蹴ったら飛んでいきそうな軽い男よ。でも私、見た目で判断しちゃいけないと思って、チャイコフスキーの楽曲だったら何が好き? って聞いたの。なんて答えたと思う?」
「知らない」
「そう、『知らない』って答えたのよ」
「ああ、それは、うん」
「信じられる? チャイコフスキーも知らないなんて。だからこう言ってやった。だったらスクリャービンは? シェーンベルクは? クラシックが分からないなら絵画はどう? 私はシュルレアリスムが好きなんだけど、クレーの絵は苦手なの。あなたにそういう画家はいる? それから、芥川の芋粥の結末についてあなたどう思う? 地獄変でもいいわ、聞かせて、って。そしたら宇宙人でも見るような顔で私を見て、逃げてった」
「それは彼がかわいそうなんじゃないかなあ」
「かわいそうなのは私よ。巽と話す時間を10分も削られたこの私」

 しれっとした顔で言い放つ。
 キャラメルマキアートが運ばれてきて、鞠がぺこりと小さく頭を下げて受け取った。その手の爪は何色もの鮮やかな色で彩られている。
 鞠はいわゆる、ギャルと呼ばれるような外見をしている。脱色した髪をコテで巻き、耳にはおおぶりのピアスを着け、目元へ重点的に化粧を施し、胸元のばっくり開いた服を好み、さらには背中も太ももも肩も惜し気もなく公衆の面前に晒す。それでいて実際は太宰治と芥川龍之介と萩原朔太郎をこよなく敬愛し、聞く音楽は専らクラシック、そして趣味は美術館巡りときている。

「なんでああいうのしか声かけてこないの。意味が分からない」

 それは君の外見のせいじゃないかなあ、と心の中だけで返事をする。外見で判断されるのは、鞠が最も嫌うところだ。
 鞠とは大学入学直後に知り合った。文学部の入学ガイダンスの教室だった。文学部の新入生は生真面目さと純朴さが外側に滲み出たような大人しい人間が大半で、片肘をつきながら派手なネイルの指で携帯をいじる鞠の周りには、誰一人として座ろうとしていなかった。それはもう見事なくらいだった。

「ここ、文学部のガイダンスの教室だけど。間違ってないよね?」

 僕が彼女に声をかけたとき、B30教室が水をうったように静まり返ったのを覚えている。

「間違ってないけど。私、文学部文学科に合格したから」

 不機嫌そうな声で鞠は答えた。

「そう。それならいいんだ。隣、いいかな?」
「勝手にすれば」
「ありがとう。君、名前は?」
「……宇賀神鞠」
「うがじん?」

 聞いたことのない名字だったため、僕は思わず聞き返した。
 鞠は面倒くさそうな顔を隠さなかった。

「そう。宇宙の宇に、年賀状の賀に、神様で宇賀神」
「へえ、初めて聞いた。あ、俺は武藤巽。同じ文学科だしこれからよろしく、宇賀神さん」
「その呼び方やめて」

 鞠が僕の顔を正面からまともに捉えた。眦(まなじり)がきっと吊り上がっていた。目がびっくりするほど大きくて、僕は場違いにもほう、と感心した。

「なぜ?」
「高校時代、私を外見だけで判断する人はみんなそう呼んでたから。他のにして」
「じゃあ、鞠」

 僕が何気なくそう言うと、今度は鞠がびっくりした表情を作った。ただでさえ丸い目がさらに丸くなる。

「……呼び捨ては初めて。しかも初対面で。あなた結構、失礼な人?」
「うーん、ごめん。そうかもしれない」
「……ま、いいけど。私もあなたのこと、巽って呼ぶから」
「うん。分かった」

 それが彼女との出合いだった。

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