ハイボールのジョッキに手をかけた常葉が、皮肉っぽく唇の端を吊り上げてみせた。

「あん時の俺、生意気すぎてヤバかったッスね。自分が課長だったら全力で腹パンしてましたよ。あの後練習して愛想笑いもできるようになりましたけど、橘さんがいなかったらたぶん今でもイキったままでしたね。橘さんもさすがにムカついたでしょ?」
「どうかなあ」天井から吊り下げられた和紙の照明を見上げつつ腕組みする。「むしろ面白い子が入ってきたなあと思ったかもしれないね」
「マジすか? 橘さんて変わってますよね、やっぱり」
「そうかなあ……。ねえ、やっぱりってどういうこと?」
「ははは」

 常葉は答えずに器の中身をぐっと呷る。説明するまでもないということなのか。彼がそう思うなら深入りすることもないだろう。
 後輩はアルコールで濡れた唇もそのままに、再度こちらに視線を注いだ。

「ていうかさっきの話、橘さんは忘れてたんスね。俺にとってはけっこうデカい出来事だったんですけど」

 口調には俺を責める響きはない。事実確認のような、ごく淡々とした調子だ。
 それを受け、体の前でひらひらと手を振る。

「忘れたわけじゃなくて、記憶にはあったよ。常葉くんの話を聞いたら思い出した」
「それを忘れてるって言うんじゃないスかね」常葉はなぜか愉快げに体を揺らす。「橘さん、俺に全然興味ないですもんね」

 ――全然興味ない。
 無造作に放たれたその一言が、鋭い矢のように心臓に突き刺さる。気づいていたんだ、と思った。
 常葉が強く記憶している物事を、俺は同期からのヒントがあっても思い出せなかった。
 つい先ほども、俺は常葉の言う「やっぱり」の意味を深追いしなかった。
 それはなぜか。彼に特段の興味がないからだ――彼の看破する通り。今も、申し訳ないという気持ちより先に、痛いところを突かれたなという気持ちが先に湧いてくる。

「それは……ごめん」
「否定しないんですね。いやいや、あなたはそうだから良いんですよ。そのままでいて下さい」

 いつも舌鋒鋭い後輩の声音は存外に柔らかかった。興味を持たないままでいてくれなんて、何やら不思議なお願いもあったものだ。
 責めているわけではないのなら、ありがたく言葉通りにさせてもらおう。きっと、指摘されてなおスタンスを変えようとしない俺のこういったところも、望月なら冷たいとか怖いなどと評するのだろう。そう考えると、口に含んだ烏龍茶がビールほどに苦く感じられた。
 その後、しばらく他愛もない会話を続けてふと、待てよ、と脳が数分前の会話を反芻する。
 興味ないですもんね、と常葉は俺に言ったが、そう言う自分自身はどうなのだろう。この、目の前でつくねを頬張っている、何にも熱を持っていなさそうに見える青年に、興味を持っているものなどあるのだろうか?
 だんだん夜も深くなってきた。周囲のほろ酔い気分のざわめきに当てられたか、後輩に少々意地の悪い質問をぶつけてみたくなった。

「常葉くんはさ、今までの人生で何か熱中したものってあった? 部活でも趣味でも、何でもいいんだけど」
「ん、俺スか?」

 不意の質問だったのだろう、相手はもごもごと咀嚼してからそれを飲みこむ。

「んー、それって人でもいいです?」
「うん、何でも」

 頷きつつ、心の内では返答を意外に思った。「社内恋愛なんて面倒なだけ」と言い切るクールな青年が、誰かに熱中していたということか。想像がつかない。
 常葉はおしぼりで手を拭いてから、

「熱中したっていうか、現在進行形なんスけどね。俺のは『今日も推しが尊い』ってやつです」

 そうおどけたように言って、長い指と指とを合わせ、拝むような仕草をする。
 推しが尊い、とは。急に飛び出した馴染みのない言葉の組み合わせに、きょとんとしてしまう。

「推しって……アイドルとか、そういうのだっけ」
「んー、そもそもはそっちの界隈から出てきたワードらしいですけどね。今は何にでも使っていいんですよ。俳優とかバンドとか作家とか、アニメとか漫画のキャラクターとか、友達とかはたまたペットとか」
「へえ……」

 常葉の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。それは常ではあまり見られない、自然な笑顔に思えた。

「俺の推しはまあ、普通に人間ですけど。俺はね、その人が毎日健康に憂いなく過ごしてくれてるなら満たされるわけですよ。推しの心配事は全部俺が引き受けたい、くらいの気持ちでいるんです」
「そう、なんだ」
「推しがいる生活ってのは良いッスよ。日々潤いがあるって言いますかね、大袈裟だけど自分にとっては生き甲斐に近いかな」

 常葉はいつになく饒舌だ。俺の知らない、純粋な光を瞳に宿している彼は、まるで別人のように見える。その姿がひたすらに眩しい。
 推しとは元々アイドルに使う用語だそうだが、常葉のそれはなんとなく、手の届く身近な範囲にいる人を指しているのではないかと思われた。

「常葉くんは、その人と……どうにかなりたいとか、そういう風に思ってるわけじゃないの?」
「違いますね」間髪入れない、きっぱりした否定だ。
「むしろ、俺の推しだってことをその人には気づかれたくないス。絶対認知されたくないですね」
「そういうものなのかあ……」

 俺は圧倒される思いだった。その人の与り知らぬところで、見返りを求めるわけでもなく、対象の人の安寧をただ願っているなんて。推すという感情を通り越してもはや愛の域に達しているのではないか。
 クールを凝縮したような後輩の中に、そんな温かく大きい感情があったとは。
 意地汚い質問をしたつもりだったのに、俺はもう何も言えなくなっていた。並走していた相手が急に目の前を追い抜いていったような、そんな心臓のあたりに隙間風が吹くような感覚だけがあった。

「……さん、橘さん」
「あ、ああ、なに?」
「大丈夫スか? 具合悪い?」

 押し黙ってしまった俺の顔を常葉が覗きこんでいる。見ず知らずの人みたいに思える彼の顔を、新鮮な心持ちでじっと見返した。容姿が整っているのは言うまでもなく、仕事においても優秀で、他人を深く想うことができる。こんな風に先輩を心配する気遣いも持っている。
 なんだ、完璧な男じゃないか。どうして俺は、この青年のことを同類だなんて思いこんでいたのだろう。

「体調は大丈夫。でも……勿体ないね」
「え?」

 脈絡のない台詞に相手が目を瞬かせる。今言うべきことじゃない、と脳はブレーキをかけるのに、口がそれを無視するものだから言葉がどんどん押し出されていく。

「常葉くんが今の会社にいるのは勿体ない気がしてさ。うちみたいな年功序列の会社じゃ、常葉くんには役不足なんじゃない? 外資系とか、実力主義の会社の方が君の能力を発揮できそうに思うよ。……今の会社しか知らない俺が言うのもなんだけど」
「……どうしたんスか、いきなり」
「常葉くんと話してたらふと思い浮かんだんだ。もし会社に色々不満があるなら悪いなって」
「それって、橘さんは俺が別の会社に行ったらいいって思ってるってことですか」

 後輩の目が鋭くなる。何やらこちらを試すような、剣呑な視線だった。

「いや……そこまでじゃ。俺は君にあれこれ言える立場じゃないし。個人的には、常葉くんみたいに優秀な後輩がいてくれた方が助かると思ってはいるよ」

 繕うように返すと、細められていた両目が丸くなる。数秒経つと、今度は10cmくらい前を睨むような顔つきに変わった。どういう感情の顔なのか全然分からない。

「それ、どういう表情?」
「……あんまりそういうこと、言わないでもらっていいスか」

 まったく目を合わせないまま低く呟かれる。どうも俺の発言が気に障ってしまったみたいだ。言うべきでないことを口にしてしまった罰だろう。

「ああ……ごめん。先輩に"いてくれた方が"助かるなんて言われたら、転職しにくくなるよね」
「そういうことじゃ……はあ。無自覚なのってほんと厄介ですよね」
「? ん……?」
「いいッスいいッス、何でもないです。悪いんですが、一本だけ煙草いいスか」

 噛み合わないままの会話が、常葉の要求によって断ち切られる。食べる席で彼が喫煙を求めるなんて珍しい。というか、これまでに一回もなかったはずだ。どうぞ、と掌で促せば、常葉はむっつりしたまま壁の方を向いて咥えた煙草に火をつける。
 推しについて語っていたときはあんなに楽しげだったのに、普段社内で見るよりも厳しい仏頂面になっている。相当機嫌を損ねてしまったらしい。
 ふうっと紫煙を吐き出すアンニュイな様子の常葉を見ていたら自分も吸いたい気分になり、シャツのポケットをまさぐったが、残念ながらそこは空だった。車の助手席に上着と一緒に置いてきたのだろう。
 口寂しさを誤魔化すように、グラスの底に残っていた氷の塊を口に含んでがりりと噛み砕く。冷たさがきんとこめかみあたりに沁みた。


 結局店には二時間半ほど腰を下ろしていた。
 そろそろ会計をしようと、伝票代わりの席番号が書かれた木の板に手を伸ばそうとしたところで、常葉にぐっと手首を掴まれる。掌にははっとするほど力がこもっていた。
 反射的に後輩の顔を見ると、こちらを咎めるような厳しさがある。彼はすぐに手を離した。

「やめて下さい。今日は俺が払いますから」
「いや、でも」

 6学年も下の後輩に払わせるのはさすがに気が引ける。向こうからの誘いの席とはいえ、普通に俺が払うつもりでいたのだが。

「集(たか)るためにメシ誘ったわけじゃないですよ」
「それはもちろん、分かってるよ。じゃあせめて割り勘で――」
「俺ばっかり酒頼んでたのに? そういうわけにはいきませんて。今度橘さんから誘われたらご馳走になりますから、今日は払わせて下さいよ」
「……常葉くんがそう言うなら」

 後輩の意思は固いらしい。そこまで言われては折れないわけにいかなかった。
 時々こういう、彼とのあいだに壁を感じるタイミングがある。一線を引こうとする頑なな態度から、もしかしたら本当は俺のことが嫌いなのかと思うほどだ。
 嫌われているからといって、関わり方を変えるつもりはないけれど。自分にとっては、最低限仕事で上手くやっていければそれでいい。好かれる必要性はないのだ。
 出入口で後輩を待っていると、彼が帰り際に女性の店員さんに袖を引かれているのが目に入る。何やら紙片を渡されているようだ。常葉は断ろうとする仕草を見せたものの、結局押し切られて受け取ったらしい。
 ほう、と他人事なので少し感心してしまう。大方、連絡先を握らされていたのだろう。
 靴を履くタイミングで「本当にあるんだねえ、ああいうの」と後輩に声をかけると、途端に苦いものを噛んだように眉間に皺が寄る。

「まあ……そっスね」

 くしゃりと紙を握り潰しながら、吐き捨てるように言う。見目の良い後輩にとっては今のようなことも日常茶飯事なのかもしれない。
 先に履き物を替えて振り返ると、靴に足を入れようとしている常葉の、その足元が不安定に若干ふらついていた。
 まずい、とさっと思考が切り替わる。あれだけハイボールを飲み進めていたのだ、顔には出なくとも、やはり酔いが回っていたのだろう。暢気に構えずに適当なところで止めるべきだった。同席していた俺の責任である。
 見たところ、住所を聞き出せないほどの酩酊状態ではない。自分が車で来たのは幸いだった、と思いながら常葉に声をかける。

「常葉くん、大丈夫? ごめんね、俺が途中で止めるべきだった。車で送っていくよ」
「いや、平気です。一人で帰れますから」
「遠慮しなくていいんだよ」
「遠慮とかじゃないんで」
「っ、危ない!」

 語気を強めた常葉の長い脚が縺れ、崩れそうになる肩を咄嗟に両腕で支える。その拍子に煙草の香りがふわりと立ちのぼった。
 何か声をかける前に、常葉は俺からぱっと離れて距離を取る。突き放すような動作と一緒に。
 びっくりして常葉の横顔を見ると、何やら顔色が悪く青ざめている。

「常葉、くん?」
「……その、人を何とも思ってないのに誰にでも優しくするところ、良くないですよ」
「え?」

 聞き間違いだろうか。ぼそぼそと呟かれた言葉を俺が咀嚼しているあいだに、常葉は上から下までぱんぱんと手で払って身なりを整える。
 すっと背筋を伸ばせば、いつもの冷めた雰囲気の彼に戻っていた。

「色々とすみません、我が儘で」
「そんなことは、ないけど」
「じゃあ、俺はこれで失礼します。……今日はちょっと、喋りすぎました」

 ぺこりと会釈ひとつを残し、後輩はそそくさと去っていく。
 店の前でぬるい夜風に吹かれながら、やや覚束なく揺れつつ遠ざかっていく常葉の背中を、俺はぼうっと眺めた。俺が肩を支えた直後に彼の表情に浮かんだもの。あれは、怯えや畏れといった感情ではなかったか。
 なんとなく、常葉も人間なのだなという思いに駆られた。言うまでもなく当然のことなのだが、彼の中に熱い感情があることを、俺はちらとも想像したことがなかった。
 後輩が想いを注ぐ、身近なところにいるらしい推し。クールな常葉にも熱中するものがあった。
 俺は自分の人生で熱中するものなんて見つからないと思っていたし、それでいいとも思っていた。けれど今は、少しだけ物寂しさを感じている。
 俺にとって、その対象があの入谷紫音だという可能性はどれくらいあるのだろう。駐車場に足を向けながら、しんみりとそんなことを考えた。
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