その後の席は概ね和やかに話が弾んだ。
 常葉との飲みで最も盛り上がる会話が、外回り中に見つけた飲食店情報の交換である。営業社員の一日の楽しみといったら一番は食事なので、美味しい食事情報はいくらあっても困らない。あそこの店は味はいいが、大将が店員に怒る声が聞こえてくる。あの店は接客がほどほどで干渉が少なく、居心地がいい。等々、実際足を運んでみないと分からない生の情報も得られるのがよい。
 そのあいだ、後輩がここらの飲み屋で一等味が濃いと思われるハイボールをかなりのペースで飲み進めていて心配になったが、顔色は変わらないのでおそらく大丈夫なのだろう。彼は会社の飲み会にはあまり参加しないが、別にアルコールが嫌いなわけでも、飲めないわけでもない。単に場が好みでないようだ。
 今まで出席率100%だったのは始まる時間が毎年早い忘年会だけで、他の出席状況はばらばら。2回続けて飲み会に来ることもあれば、半年ほどまったく顔を出さないこともある。営業一課ではレアキャラとして扱われていた。そして、彼が参加する飲み会は女性陣の出席率が異様に高い。
 さっき、望月が常葉に誘われないことを愚痴っていたっけ。
 同期の嘆きを後輩に伝えると、途端に表情が渋いものに変わる。「ええー」と不機嫌さを隠さない口調はだいぶ刺々しい。

「あの人、俺と飲みたいんスか? よく分かんないなあ……。望月さん、毎回飲み会で俺に彼女がいるかどうか根掘り葉掘り訊いてくるんスよ。それ聞いて何かなるわけでもないのに。橘さんからもやめろって言って下さいよ」
「それは……なんか申し訳ないね。でも望月も一応、あいつなりに常葉くんのこと考えてるんだと思うからさ。あんまり嫌わないでやって」
「分かってますけど、それと好き嫌いは別問題ッス」

 辛辣にばっさりと切り捨てられた望月のことを、俺はひっそり心の中で憐れんだ。
 そこで店員さんが料理を何種か持って来て、それを受け取りテーブルに並べながら常葉が言う。

「まあでも、たまに望月さんのこと羨ましくなりますけどね。橘さんと同期だから、遠慮ないやり取りができていいなあって」
「ああ、常葉くんの同期は営業一課にはもういないからね。やっぱり同期はいた方がいいかあ」

 羨ましいという言葉にうんうんと頷く。
 常葉と同年に入社した営業の後輩は、転職してしまって既に社内にはいない。別の課なら同期もいるだろうけど、携わっている業務が違うと色々人付き合いの勝手も違ってくるだろう。何だかんだ言いつつ、同じ課の同期は同じ時間を同じ環境で過ごしてきただけあって、やはり先輩とも後輩とも違う特別な存在であることは確かだ。
 俺の返答に、しかし常葉は遠い目をする。

「……そういうことじゃないんだけどな……。まあいいや」
「?」

 そういうことじゃないとは、ではどういう意図だったのか。常葉には説明する気はないようで、今来たばかりの揚げたての唐揚げをむしゃりと頬張っている。まあ、わざわざ口にするまでもないことならそれでもいいか。
 後輩は一人で、タルタルソースがたっぷりかかった唐揚げをはくはくと平らげていく。対してこちらはちびちびとたこわさを口に運んでいる。相手の様子を眺めているだけで胃がもたれてきそうだ。なんて、きっと俺も常葉くらいの頃は先輩にそう見られていたのかもしれないが。
 不意に、常葉のいつも眠そうな両目がこちらに向いた。

「橘さんも食います? 鳥唐」
「え? いや、大丈夫」

 あまりにも良い食いっぷりだったものだから、見つめすぎたかもしれない。物欲しげな目に見えていたのなら気恥ずかしい。
 常葉は口の中のものを嚥下してから、俺の手元をそれ、と顎で示す。

「たこわさって味します? 俺、未だに良さが分からないんですよね」
「味がないことはないよ? 良さはまあ、人それぞれの好みだろうけど」
「なんつうか、たこわさって捉えどころがないじゃないスか。白子とかもですけど、そういう得体の知れない食べ物苦手なんスよね。存在の意味が分からないというか」
「存在の意味かあ……」

 どこかおかしみがある常葉の言い分を聞きながら、食べ物の意味とは何なのだろう、と考えこんでしまう。改めて言われると、栄養以外の食べ物の存在の意味とは何なのか? 議論になったら俺は何も発言できないなと思う。
 相手は噴き出しそうになるのを拳で押さえていた。

「いやいや、橘さん。そこは別に真剣に考えなくていいとこでしょ。望月さんだったら"お前の方が意味分からんわ!"って笑ってますよ」
「まあ、そうかもしれないけど。でも、俺も若い頃は常葉くんと似たような感じだったかもなあと思って」

 懐かしさを覚えながら返した言葉に、常葉はなぜか口の方の片端を引き上げる。

「若い頃って。俺も橘さんもあんまり変わんないでしょ」
「いや、全然違うよ!?」

 つい声が大きくなってしまった。変わらないなんてことはまったくない。大いに違う。後輩は冗談と受け取ったらしいが、こちらとしては同意しかねる。
 よく考えずとも、25歳と31歳は明らかに年代が隔絶している。6年前の自分を思うと、ほぼ別人のような気がするほどに。
 常葉はまだ納得がいっていないらしく、小首を傾げていた。

「えー、そうスかね」
「だって年代で言ったら中一に小一が同じだろって言ってるようなもんだよ? さすがに変わらないことはないでしょう」

 と口では言いつつ、年上に対してと年下に対してでは年の差の感覚が違うのは確かかもしれなかった。例えば自分の場合、同じ二歳差でも33歳と聞けば同年代で話も合いそうな気がするが、29歳だったら二十代だし、若くて感覚が違いそうなイメージだ――例えば、入谷紫音は俺からすれば若い。さすがに6歳差もあると、常葉のようにあんまり変わらないなどと口が利けたものではないが。
 後輩は一応得心したようだった。

「あー、まあそう言われたらそうスね。でも橘さんは普通にまだまだ若いと思いますよ」
「そう見えてるなら嬉しいけど、やっぱり味覚とか色々変わってるからね。体調がいいときでも元気いっぱいって感じではないし、徹夜はもう、完全に無理だし」

 二十代前半だった時との違いを並べていて、自分で少し悲しくなってくる。若くないと口先では言いつつ、精神年齢はさほど変わっていないからだ。気持ちは二十代の頃と同じようでいても、体の方は年齢に正直である。なんとも世知辛い。

「そういえば、前に上手く眠れなかったって言ってましたよね。あの時、何かあったんスか」

 何杯めかのハイボールを飲み干した常葉が訊いてきて、しばしきょとんとしてしまう。
 俺が寝れなかったって? そんなこと話したかな……と言いかけながら記憶をたどると、そうだ。確かに思い出した。
 あれは最初に入谷に会った翌日のこと。下半身がどうにも昂って自慰がやめられず、そのせいで寝不足になったという情けない理由で、後輩にコーヒーを恵まれたことがあったっけ。
 今の今まで忘れていた。よくそんな細かい出来事まで覚えているものだ。
 急に秘密の一端をつつかれて、平静を装おうとしたのに舌が縺れてしまう。

「いや……あれは、仕事には関係ないことだから。今はちゃんと眠れてるから平気だよ」
「ふうん、そッスか。仕事に関係ないところでは何かあったってことスね」
「……それは」

 語意を的確に掬い取られ、急に喉がからからに渇いてくる。
 あった、などとは口が裂けても言えない。常葉は何かを探ろうとしているのか? なんとか違和感なく切り抜けなくてはいけない。肌の表面の体感温度がすっと下がっていく。
 沈黙を破ったのは相手の方だった。こんな空気になったのが不本意だとでも言うように、頬を軽く掻いている。

「ああ、すいません。別に私生活のことをあれこれ訊く気はないんです。そんなことしたら望月さんと同類だし」
「はは、言うねえ……」

 二人のあいだの雰囲気が和らいだのに安堵したのも束の間、「ああそうだ」と言葉を継がれ、心の準備をする暇(いとま)もなかった。

「ずっと気になってたんですけど、入谷紫音て写真家の人、男じゃないスか?」

 今度こそ呼吸が一瞬できなくなった。周りの心地好い喧騒も、静かな琴のBGMも、急速に遠退いていく。思わぬところで今日ずっと脳裏をちらついていた名前を出され、心臓がどくんと強く跳ねた。
 どうしてこの流れで入谷が話題に出てくるんだ。ずっと気になってたって、なぜ常葉が入谷を気にする?
 わざわざ調べたのか、入谷紫音という人間のことを。彼が男であることはホームページには載っていないけれど、おそらく新聞記事や外国のニュースを見ればすぐ分かることだと思う。ただ知るには能動的に調べる意思が必要なはずで、常葉がそこまでする理由はないはずだ。
 悪い想像だが……もしや彼は何か勘づいているのか。仕事場の先輩が、得意先の責任者と、会うたびにどんなことをしているのかを。
 いやいやそんなはずは、とばくばくうるさい心臓を必死に宥める。

「それは、うん。男の人だけど……?」

 相槌を捻り出すと、常葉の方が訝しげに眉をひそめる。

「橘さんに"美人なんですか"って訊いた時、そうだって頷いてたじゃないスか。てっきり女の人なのかと思ってましたよ」
「いや、その……男性だけど、美人って言葉が一番しっくりくる人なんだよ」

 俺は一体何を弁明しているんだ。常葉は一体何を知りたいんだ?
 へえ、と何の気持ちもこもっていない感嘆を漏らして、後輩がこちらの目の奥を探るようにじっと見つめてくる。アーモンド型の形のよい目には遠慮もぶれもない。息苦しいほどの、無言の圧。時間にしてほんの数秒だったはずが、俺には何十分も見られ続けたように思えた。
 ふ、と前兆なく常葉が視線を外す。間髪入れずすっくと立ち上がったものだから、こちらの胃の底が冷えた。何だ、次は。

「ちょっとお手洗い行ってきます」

 そう言い残し、こちらの反応も待たずに風のように去っていく。
 足音が十分遠ざかったのを確認して、ふうっと深く息を吐いた。冷や汗で湿った首筋をおしぼりで拭い取る。
 今のは何だったのだろう。命拾いした、とでも独白してしまいそうな自分に気づき、ひきつった乾いた笑いがひとりでにこぼれた。


 席に戻ってきた常葉は、先ほどのやり取りがまるでなかったかのように、いつもの気だるげな様子に戻っていた。
 何にもあっさりしている彼のことだから、きっと先刻の件にはもうけりがついたのだろう。そういう風に解釈しておこう。
 俺は相手が席を外しているあいだホッケの身をほぐしていたが、手先を動かしながら常葉に訊きたいことがあったのを思い出していた。同僚の望月が言っていた、俺が常葉の心に火をつけたらしい件である。
 何か話題を振られる前に、こちらから口火を切る。

「――って望月が言ってたんだけど、常葉くんは心当たりある?」
「それを本人に訊いちゃいますか」

 常葉は珍しく、はははと声を上げて笑った。白く綺麗に揃った歯がちらりとこぼれる。言葉とは裏腹に、機嫌が良さそうな笑い方だった。

「分かりますよ。もちろん覚えてます。俺、研修が終わって初めて客先に挨拶に行った時、全然愛想よくできなかったんで会社に戻ってから課長にめちゃめちゃ怒られたんスよ。その時のことでしょうね」
「ああ……」

 そうだ、話を聞いたら記憶が甦ってきた。
 あの時は確か、営業車の傍で常葉がこんこんと叱られていたのだっけ。あまり人が通らない時間帯だったけれど、商品を取りに帰社した俺が偶然二人に出会したのだった。
 課長は明らかに頭に血が昇っていて平常心でなく、まだ学生然とした雰囲気の常葉が終始むすっとしていたのも火に油を注いでいた。なぜ課長が憤っているのかは、少し聞いていれば充分察せられた。
 これはまずいなあ――と思い、咄嗟ににこやかな表情を貼りつけて声をかけた時の、二人のはっとした顔は今でも思い出せる。

「課長、そのくらいでいいんじゃないですか。N車の車がありますし、もう部長さん見えているのでは」
「ああ、そうか……そうだな。橘、常葉のこと頼めるか」
「はい」

 上司に首肯してみせ、彼が足早にその場を去ってから、大丈夫だった?と常葉に尋ねようとした。が、その言葉は喉元ですぼんで消えてしまう。相手はほっとした表情を浮かべるわけでもなく、俺のことさえ冷めた目で睨みつけていたからだ。相手の方が背が高いため、なかなかの迫力である。はああ、という新入社員らしからぬ長い溜め息が常葉の口を突いて出た。

「馬鹿ばかしい」

 吐き捨てるようにそう続いたものだから、思わず驚いて目を丸くしてしまう。

「常葉、くん?」
「何も楽しくないのににこにこ笑って、それで仕事ができるようになるって? あなたもそんな風にへらへらしてると、みっともなく見えますよ」

 若さが滲む常葉の毒舌を受けて俺が思ったのは、その気持ち分かるなあ、ということだった。

「……そう。俺、笑ってるように見えた?」

 微笑を保ったまま問いを投げかけると、常葉は怪訝に眉をひそめながらも「……はい」と頷く。意外と素直な反応だ。根が悪い人間ではないのだろう。
 俺が顔からすべての力を抜き、すうっと笑顔を消せば、相手の表情筋が目に見えて強張った。瞳の奥に恐怖の色が一瞬走って消える。無表情の俺はたぶん、そこそこ冷たい目をしているのだと思う。

「俺はさっきから全然笑ってなかったよ。笑顔を作っているだけ」
「……」
「常葉くんは、愛想笑いするのが馬鹿らしいって思ってるんだよね。実は俺も同じだよ。心から笑ってるわけじゃない。でも、君には笑っているように見えた。だったら、それで充分じゃないかな?」
「それは」
「さっき君は仕事ができるようになるのかって言っていたけど、ただ口角を上げてないだけで仕事以前のことを注意されるなんて、それこそ馬鹿らしいと思わない? 実際は笑ってなくたって、他人に笑顔に見えればそれでいいと思う。そうだな、顔の筋肉の運動とでも考えてみたら?」

 それでどうだろう、とにっこり笑いかけると、常葉は一歩後退った。ああ、これは引かれたかな、と頭の冷徹な部分が判断する。まあでも、別に構わないだろう。直接指導もしていないし、この先接点ができるかどうかも怪しいし、すぐ辞めるかもしれないし。
 ところが常葉が次にした行動は、決然とした瞳をこちらに向けることだった。

「あの……!」
「はい?」
「先輩の名前、訊いてもいいですか」
「ああ、橘です。……よろしくね、常葉くん」
「よろしくお願いします」

 常葉はそこで深く頭を下げた。そこから懐かれているのかいないのか、けっこうな時間を社内外で共に過ごして今に至る。
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