夏は翳(かげ)る。
 盛夏に終わりが見えなくとも、いつの間にかピークを過ぎている。毎年そういうものだと理解しているはずなのに、なぜだか人は熱気にあてられて、真夏に永遠の幻を見出してしまう。
 俺は入谷との関係も、ずっと平行線を辿るのだと錯覚していた。関係性が不可逆的に変わって初めて、この世では現状維持など叶わないのだと思い知る。
 ――これまでの人生で、いつでもそうだったように。


 散々横暴の限りを尽くしてきた猛暑もようやく盛りを過ぎた。けれど、俺を悩ますふたつのことはまったく変化していない。
 ふたつのこととは、もちろん入谷と常葉(ときわ)のことだ。
 九月に入り、しつこい残暑も落ち着き始めたというのに、俺の心はじりじりと炙られたように、どことなく焦燥めいたものが燻(くすぶ)っている。
 常葉はといえば、サシ飲みでの一件から一夜が明けると、もう何もなかったかのようにけろりと普通の様子に戻っていた。俺にもこれまでどおり話しかけてくるし、飲みの席での話を引き合いに出すこともない。あの夜の彼はかなり酔っていたし、会話内容を忘れている可能性もあったが、下手につついて気まずくなるのも面倒だった。
 そういうわけで俺が取った選択肢は、何もせず従来のままの態度を取り繕うという消極的戦法だった。ゆえに常葉が俺を嫌いなのかどうか、まだ判明していないのだった。
 後輩の発言と態度について、誰かに懸念を打ち明ければいいだろう、と他人は言うだろう。もちろん信頼の置ける親しい相談相手がいれば俺とてそうした。しかし生憎、人生で関わってきたあらゆる人間と、深い関係を構築してこなかった自分にとって、それは高望みというものだ。
 身近すぎる姉・つぼみに吐露しようものなら「その後輩くんってイケメン? 写真ないの?」とか言い出して会話にならないのが目に見えているし、両親に相談するのは大仰だろう。高校や大学の同級生とは、こういったことを気軽に持ち掛けられるほど人間関係が育ってもいない。
 気の置けない同僚でもいればよかったが、同じ課の同期はあの望月である。「俺たちを馬鹿にしてる」と常葉を決めつけている彼に相談しようものなら、「ほら、やっぱり言った通りだろ?」とドヤ顔で言ってくるに違いない。それは少し、というかかなり癪に障るので絶対に避けたい。ネットで見ず知らずの素性も知らない人間に投げかけるほど、状況が切羽詰まっているわけでもない。俺自身がもやもやを内に秘めていればそれまでの悩みだが、だからこそなかなか厄介な案件とも言えた。
 自分が相談できるとしたら。それは入谷くらいだろう。
 入谷紫音。俺の同僚よりは立場が遠く、でも仕事内容に理解があって、自分より常葉に年齢が近い。相談相手としては適格だ。ただ、彼にそのような面倒事を持ち込むのはいかがなものか?という思いも否定できない。
 俺を好きだと言って憚らないあの青年写真家は、きっと相談に真摯に対応しようとするだろうから。
 結局何も決めきれないまま、もやついた気持ちを抱えて早二週間ほど。昼休みに社内で社食を食べ終え、喫煙ルームのドアを俯き加減で開くと、中には先客がいた。常葉である。
 均整のとれた彼の長身が視界に入ると、全身がわずかに強張った。自分でも馬鹿らしいと思うが、意識して少しだけ緊張してしまうのだ。
 だから俺はここのところ、喫煙の回数を意図的に減らしていた。だからこの場に来てしまったのは無意識の行動である。ドアを開けてしまった手前、何事もなかったかのようにまた閉めるわけにもいかない。
 常葉が先にぺこりと頭を下げてきた。

「お疲れ様ッス。なんか、ここで橘さんと会うの久しぶりスすね」
「ああ……実は最近、禁煙しようかと思っててさ」

 言い訳として口にしたそれは、あながち嘘でもない。三十路(みそじ)を過ぎて健康が気になる年齢に差し掛かって、喫煙のリスクが心配になってきてはいたのだ。ここで常葉と顔を合わせるのが気まずくなり、なし崩しに煙草を辞められるならそれはそれで良いかもしれない。
 後輩はそうスか、と気のない返事をしてから何でもないことのように続ける。

「橘さんが煙草辞めたら、今よりもっとヤバくなりそうですよね」
「え……? 今よりヤバくなるっていうのは……?」

 常葉の含みが分からず、鸚鵡(オウム)のように聞き返してしまう。今より、ということは今現在もそこそこヤバいってことか? 俺の何がそんなに……と半ば呆然としていると、

「そりゃもちろん、女性陣からの人気に決まってるでしょ。禁煙なんてしたら群がってきますよ、きっと」

 と何でもないことのように相手は言葉を継ぐ。
 なんだ冗談か、と内心でほっと息をついた。それにしたって群がるとは、もっと言葉があると思うのだが。
 常葉はちらりとこちらの顔をうかがって眉を曇らせる。

「あ、その顔、信じてないッスね。今のはジョークじゃないんスけど。橘さんのマイナス要素なんて喫煙者であることくらいなんだから」
「そうなの? でも煙草辞めたとしても、ほら……俺は特別イケメンでも背が高くも性格が良くもないし、普通だからさ。何においても」
「分かってないなあ。その"普通"が難しいんじゃないスか」

 常葉は常のように無表情のままつらつらと喋る。

「大人が他人を採点する基準なんて結局は減点法ですからね。橘さんみたいに平均点が高くて欠点が見えない人の方が好かれますって」
「そうなのかなあ、全然実感ないけど」

 好かれると言われても実際問題嬉しくはない。会社では常識人みたいに振る舞ってはいるが、俺は誰かを特別大事に思ったり扱ったりできない人間なのだ。表層の平均点などで評価してもらっても、自分は期待に応えることができないから、困るだけだ。
 不意に会話が途切れ、しばしお互い無言が続く。

「橘さんが辞めるなら、俺も禁煙するかな」

 独り言めいた思わぬ呟きに、「え?」と目を剥いてしまう。

「そう……なんだ?」
「ええ、そしたら俺が煙草吸う理由も無くなるんで」

 常葉は長い指に煙草を挟んでふーっと煙を吐く。会話をしているはずなのに、全然目が合わない。
 彼は意味があって喫煙していたのか? 考えたこともなかった。常葉の言わんとすることを捉えあぐねていると、唐突に相手がこちらを向く。かろうじて肩が跳ねるのをこらえた自分を褒めてやりたい。

「そうそう。橘さんに前から訊こうと思ってたことがあったんだった」
「……訊きたいことって?」

 俺に、前から、とは一体何だ。若干身構えながら次の発言を待つ。

「橘さん、確かジムに通ってますよね? どこのジム行ってるのか訊いてもいいスか」
「ジム? ああ、ジムね……」

 思わぬ話題を振ってくる。なんだそんなことか、と拍子抜けした。別にそれくらい、前置きなしに気楽に訊いてくれていいのに。
 俺は会員登録しているジムの場所と名前を口にした。ジムの話題を出してくるということは、彼も何か体についての気がかりを抱えているのだろうか。常葉は見る限りスマートな体型だが、運動不足を懸念しているのかもしれない。それか、単純に身体を鍛えたいとか。
 さっきの煙草を辞めようかという発言も、健康について考え始めたから出てきたのか?とちらりと想像する。
 常葉は得心した風にふんふんと頷いている。

「あー、駅前のあそこっスね。分かりました」
「ジムに通うなら紹介しようか? 入会料が無料になったりとか、そういう特典あるばすだから」

 それは気を利かせたつもりの提案だったのだが、

「いえ、そういうのは求めてないんで。大丈夫です」

 常葉の返事はにべもなかった。
 まただ。またこの壁を感じさせる突き放し。俺は口角の辺りに強張りが生まれるのを感じた。

「そ……そう? 遠慮しなくていいのに」
「いえ、遠慮とかじゃなく。通うなら橘さんとは違うところに行くつもりですし」
「……そっか」

 どの角度から聞いても好意を感じられない物言いに、胃の底あたりの温度がふっと冷えたように感じた。
 常葉は「あ、別に深い意味はないっスよ」と言葉を重ねてくる。

「だってジムってトレーニングウェアとか着て薄着で息乱してたりするでしょ? 知り合いのそういう姿ってちょっと、見るのは微妙じゃないすか」
「それは……。うん、そうかもね」

 自分は呼吸が乱れるほど負荷をかけてはいないが、確かに三十過ぎの同僚がぜえぜえいっている姿を見たいかと言われたら否定するだろうな、と変に納得してしまう。暗に不快だ、と言われたようで二の句が告げないでいるあいだに、常葉は煙草を灰皿にぐりぐり押しつけて踵(きびす)を返していた。

「それじゃ橘さん、俺はお先に」
「うん」

 縦に細長い彼の後ろ姿を見送りながら、考える。
 会社や居酒屋で言われたことを総合しても、やはり彼に嫌われているか好かれているのか、まったく分からない。別にどちらでもなく歯牙にもかけられていない可能性もあるが、これほど心が読めないと収まりの悪いもどかしさがある。これがジェネレーションギャップというやつだろうか?
 飲み下せない思いを抱えつつ、午後からの仕事の準備を済ませる。会社から出て社用車のハンドルを握ったところで、「どうすればいいのかなあ……」と思わず独り言(ご)ちてしまい、自分の割り切れなさに苦笑した。
 気持ちを切り替えなければいけない。これから久しぶりに入谷のオフィスを訪(おとな)うのだから。
 俺への好意を隠さない青年写真家からは、自分の用件はできる限り一日の最後にしてほしいと要望が出されている。それはつまり……そういうこと、だろう。
 仕事相手と会うたびにいかがわしい行為を繰り返す。不健全な関係だと十全に理解してはいる。けれど、頭では理解していても、本能的な部分で体が疼いてしまう自分もいるのだ。
 駄目だと分かっているからこそ生じる、背徳的な快感という底無し沼めいた深淵に、俺は足を浸(ひた)しつつあるのだろう。さらなる深みに進むのも、爛れた感情を振り切ってきっぱり陸地に戻るのも、だらだらと先伸ばしにしている。これまでもずっとそうやって、クラゲのように流され生きてきた。行き着いた先で、いつか手酷い精算を迫られる時が来ると予感しながら。
 俺は悪い男だ。


 入谷の前の客先で、営業の自分には手に負えない機器トラブルが発生してしまい、技術畑の同僚に引き継ぐのに時間を取られた。薬品汚れのついた作業着を見下ろす。入谷の小綺麗なオフィスにはこの格好で行くのを避けていたのだが、予定が押してしまっては一度社内に戻ることもできない。
 社用車のシートで入谷に断りの電話を入れることにした。
「はい。入谷です」と受ける声音はごく普通で、久しぶりに会話する高揚は感じられなかった。

「入谷さん、申し訳ないんですが、今日そちらに作業服で伺っても大丈夫でしょうか? 薬品の汚れも少々ついてしまっている格好なんですが……」
「もちろん構いません。うちでも色々な薬品は使っていますし気にしませんよ。わざわざ断らずとも、橘さんの都合のいいようになさって下さい」
「では、ありがたくそうさせてもらいますね」
「今まで気を遣って下さっていたんですね。僕は橘さんの作業着姿を拝めるのは嬉しいです」
「……っ」

 また、入谷お得意の不意打ちだ。何気ないところに趣味嗜好の話を差し挟んでくる技量は、ある意味で天賦の才かもしれない。

「そんな、良いものじゃありませんよ。うちのはよくある平凡な作業着ですから」
「ふふ、デザインが問題なのではありません。それでは、また後ほど。楽しみにしていますね」

 そうして電話は切れた。どれだけこちらの気持ちを掻き乱したら気が済むのだろう、彼は。速まった心拍を抑えるために深く吐いた息には、夏の名残ではない熱が混じっていた。
 日を置いて接する入谷の涼やかな容貌と佇まいは、何度目であっても真新しい感慨を俺にもたらす。
 今日の彼は柔らかそうな素材のシャツに、光沢のある深いブルーのベストとスラックスという格好で、ほんのりした微笑と共に出迎えてくれた。嬉しげに細められた瞳で、そのまま頭から爪先まで舐めるように眺め回されるのでやや気まずい。
 こちらの格好といったらグレーなのかくすんだグリーンなのか、何とも言いがたい色の作業着の上下なのだ。そんなに目新しいものでもなかろうに。

「作業着、良いですね。まさに働く男といった雰囲気で」

 笑みを深くして満足そうな入谷に、はあ、と曖昧な返事を返すことしかできなかった。
 前回のように応接スペースに通され、持ってきた薬品の検品をしてもらう。サインを貰い、事務員の須藤さんがアイスコーヒーを持ってきたところで、入谷がふいと視線を外した。

「須藤さん、今日はもう上がっていいですよ。片付けは僕がやっておきますから」

 須藤さんはごく自然な様子でその申し出を受け入れた。「お疲れ様でした」とその場で頭を下げてから、自分の机へ移動していく。その際にこちらをちらりと見やる彼女の流し目は底が深く、雇い主とのあれこれを全て見透かされているようで、どうにも座りが悪かった。
 ソファの上でもぞもぞするこちらに構うことなく、入谷は話題を別のものへ移す。

「橘さんにお持ち頂いた薬品でカラープリントの試作品を作ったんです。良かったらご覧頂きたいと思いまして」
「ああ、それはぜひ拝見したいですね」

 そうだ、最初に作品の相談役としてこの仕事を仰せつかったのを忘れかけていた。そのお鉢がやっと回ってきたということか。
 自分に入谷の相談役など務まるとは思えないが、彼のカラー写真の仕上がりを見てみたい気持ちは確実に存在する。モノクロ写真であれだけ情緒を表現できる人が、カラーで作品を作ったらどうなるのか。
 身を乗り出す俺に、入谷は意味深長なほほえみを向けてきた。

「それでは僕の家にお出で頂けますか。現像した写真はそちらに保管していますので」
「それは……はい、もちろん」

 ああ、やはりこういう流れになるのは避けられないのか。思わず天を仰ぎそうになるものの、これは仕事の依頼だ、疚(やま)しいことを考えるな、と己に言い聞かせる。直近で入谷と会った自分の家では空気に流され、相手の艶(なまめ)かしさに当てられ、結局セックスする寸前まで行った。あのような痴態は繰り返してはならない。絶対にだ。
 考えない考えない、と心の内で復唱しながら入谷の後に続く。
 彼の生活空間は相変わらず綺麗に整頓されていた。俺の部屋のように物がなさすぎて殺風景なわけではなく、趣味を窺わせるものはたくさんあるのに不思議と統一感があるのだ。
 入谷は俺をリビングのソファに座らせると、ダイニングへと一旦下がっていく。そのあいだにちらと常葉の顔が過ったが、相談できるような雰囲気ではないなと思い直す。切り出すにしてもタイミングを見計らわねばならないだろう。
 一旦奥へ引っ込んだ入谷はいつものようにお茶菓子でも持ってくるのかと思ったが、戻ってきた彼の手の中にあったのは、ラッピングされた薄い箱形の包みだった。
 入谷はそれを胸に抱くようにしてはにかみ笑いをする。初めて見る表情だ。

「本題の前に、橘さんにお渡ししたいものがありまして」
「えっと、それは……?」
「僕からのちょっとしたプレゼントです」
「えっ」

 予想外の単語に瞠目する。プレゼントとはどういう意味か。

「いやそんな、私は何かを頂くようなことは何もしていませんから。受け取れません」
「僕がただ、あなたにプレゼントしたいだけです。言わばこれは僕のエゴです。どうでしょう、年下の男のわがままと思って受け取って頂けませんか」

 眉尻を下げ、困り顔の相手の口元には、目元に反していたずらっぽい笑みが浮いている。誘うような蠱惑的な表情でそこまで言われ、固辞できるような強い精神の持ち主でもない。貰っておくのが礼儀だろうと自分を納得させ、包みを受け取った。
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