入谷が一糸纏わぬ姿で俺の上に乗っている。
 これは夢だな、とすぐに分かった。分かってからうっすら思ったのは、夢だから何でもできてラッキーだ、ということだった。
 入谷は眉根を寄せ、何かを堪えているような苦しげな顔をしている。それなのに頬を赤らめて、快の混じった吐息を漏らしているのだから、それ以上ないほど扇情的な様子になっていた。そそり立った入谷の昂りからは、透明な液体がとぷ、とぷ、とあふれ出てきている。
 俺の中の冷静な部分が、騎乗位になるなんて迂闊だと微笑する。上に乗るなど、自分で逃げ場をなくしているのと同じなのに。

「紫音くん、ここ? 気持ちいい?」

 俺は相手のすべすべした太腿をがっちり掴み、腰を突き上げた。入谷の体が弓のようにしなる。その拍子に、ぱたた、と彼の汗が腹に降ってきた。

「ちゃんと言ってくれないと分からないよ」

 彼の奥の方の襞をじっくり味わいながら、入谷を揺さぶり続ける。口調はあくまで穏やかに、意地の悪いことを臆面なく囁いているのは、果たして本当に自分なのだろうか。入谷の喉からは甘い嬌声が間断なく漏れ出ていて、こちらの情欲を刺激し続ける。
 たまらない。彼とのセックスは本当に気持ちいい。本当にしたことはないのに、それだけは確かだと断言してしまえる。
 これが夢で良かった、と考えながら、俺は何回も何回も入谷の中に吐精した。
 かと思えば、急に目の前の景色が転換する。次の瞬間には、俺は水槽の中で揺蕩うクラゲになっていた。なぜ分かるのか分からないが、とにかく夢なので分かるのだ。水槽のガラスの向こうには、背後に暗がりを背負った入谷がいる。その人影は巨大だが、きっと彼が大きいのではなく俺が小さくなっているのだろう。何せ俺はクラゲなのだから。
 うっそりと笑う入谷が細い指先を差し出すと、ガラスの壁をやすやすと潜り抜け、俺の傘の部分まで届く。そこを指先でつんと弾かれて、水中で体勢を崩してしまう。入谷の反対側の手には、先日見たばかりの黒文字が握られている。ああ、俺はあれで水羊羹か何かのように切り分けられて、彼の赤い舌に乗せられ、狭い消化器官を押し流されていき、末には入谷の体の一部になるのだろう。その未来を思うと、悪くない気分になるのだった。
 入谷紫音。彼に食われるなら本望だ。
 目元を弓形に笑ませながら、俺を見下ろした入谷がちろりと舌なめずりをした。


 夢の中の俺はどうかしてるんじゃないかと度々思う。先日入谷がうちに来てからというもの、嗜虐的だったり倒錯的だったり、これまでの自分では想像もできなかった内容の淫夢を見ることが多くなった。あれから彼とは顔を合わせていないにもかかわらず、だ。
 俺すら知らない自分の内面を暴かれて、触れられて、意識させられる。それに、快感を覚え始めている自分がいる。
 入谷とのいかがわしい行為は辞めようと決意しているのに、夢とはいえ進んでセックスを楽しんでいるのはどう考えても駄目だろう。自己矛盾に陥っている。流されすぎだ、それこそクラゲじゃないんだから。
 頻繁にそんな夢を見るのに、毎日の仕事は淡々とこなせるのだから人間というものはなかなかよく出来ている。
 昼休み中に会社に戻ると、廊下ですれ違った後輩の常葉に声をかけられた。

「あ、橘さん。ちょうどよかった」
「何かあった?」
「今日の夜空いてますか。仕事終わったらメシ食いに行きません?」

 彼からの食事の誘いは珍しくない。彼を連れ回す先輩社員は何人もいるが、彼から誘われるのはおそらく、今のところは俺だけだ。
 今日は長引きそうな案件はないし、断る理由もない。

「うん、大丈夫だよ」
「じゃ、店は予約しとくんで。19時スタートでいいスか? 場所とかは後でメールします」
 了解、とほとんど業務連絡に近いやり取りをしてそのまま別れる。と、背後からぬっと伸びてきた腕に肩を掴まれた。

「たーちーばーなー」
「うわ、なんだよ」

 俺の名前に恨めしげな節をつけて登場したのは同期の望月である。じっとりした湿った流し目で俺を睨んできた。

「なんだよは俺の台詞だよ。なんで常葉の奴、お前ばっかり誘うわけ? 俺一回も声かけられたことないよ? しかも俺から誘っても全部断られるしさあ。あいつが新人だったとき指導したの俺だぞ? おかしいだろ〜なあ〜」

 なあ〜と体を揺すられても俺の知ったことではない。課の飲み会の時に彼女がどうたらだの、お酒の席のセオリーだの、そういう話題を常葉に振っているから煙たがられていることは端から見れば明白なのだが、それを言ってやる義理もない。
 望月は人の耳を憚るように声を低く潜める。

「ていうか、あいつ絶対俺らのこと内心じゃ馬鹿にしてるよな。橘と話すときの口調も舐めてるしさあ」
「うーん、そうかなあ……。俺は違うと思うけど」

 常葉のあの気だるい口調は素のもので、別に先輩を舐めくさっているから出ているのではない、と俺は理解している。内心で俺たちをどう捉えているかを知る術はないため、完全には否定できないが。
 同期の男はふうと深く息を吐く。

「顔がいい奴はいいよなー。それだけで苦労しなくて済むんだから」

 羨望と批難混じりの調子に、今度ははっきりと拒絶の気持ちが湧いて出てきた。「それは違うだろ」と強く否定する。さっきはきっぱり否定できなかったが、常葉が仕事ができるのは顔が整っているからではないし、苦労していないわけでもないことを、サシ飲みの場で色々聞いている俺は知っている。望月の意見も本気ではないと分かってはいたが、ただの難癖のような言葉を容認できなかった。

「彼自身の能力と、顔の良さ云々は何も関係ないよ」

 望月は気圧されたように身をわずかに引いてから、大袈裟に肩を竦めてみせた。まるで洋画の登場人物のように。

「そんな怖い顔すんなって、ジョークだろジョーク。そこはあれだよ、"望月だって同じくらいイケメンだよ"って言うべきだと思うぞ。なあ、橘センセイよう」
「お世辞でも絶対言わない」
「なんでだよ〜」

 うざったい同期をやっとのことで振りほどき、コーヒーを淹れるため給湯室に向かう。そこの作業台がびちゃびちゃに濡れていたものだから、布巾を出して拭いていると「あの……橘さん」と後ろから声がした。
 振り返ると、二畳ほどの狭い給湯室の出入口から、営業事務の女性がおずおずといった様子でこちらを窺っていた。社歴は常葉より長いはずだが、営業事務員には彼女の後輩がいないからか、どこか新入社員っぽさが抜けきっていないように見える人だ。
 今日はよく声をかけられる日のようだった。

「そこ汚れてましたか? すみません、気がつかなくて」
「ああ、いえいえ」

 社内清掃は外注しているが、こういうところは内勤の社員がこまめに掃除しているはずだ。だからといって、営業が見て見ぬふりをしていいとは思わないが。

「自分の後に来た人に僕が汚したと思われるのも嫌なので。あ、ここ使います? 退(ど)きますよ」
「あっ……いえ」
「?」

 一旦場所を譲ろうとしたものの、何やら決然とした目で見返されて足が止まる。相手は一度深めに呼吸してから、言った。

「橘さん、常葉さんとお食事行かれるんですよね。それ、私もご一緒できないでしょうか」
「え、今日ですか?」

 予想もしない申し出に面食らう。と同時に、ははあなるほど、と納得の気持ちも生じた。
 常葉は社内では冷淡な印象だが、長身で顔立ちも整っている。冷たいとはいえ他人を困らせることはしないし仕事もできるのだから、好意を持たれるのは自然な成り行きと言えるだろう。それを彼が喜ぶかどうかは別の話だが。
 彼女は先ほどの常葉と俺の会話を耳にしたのだろう。そこで意を決して、でも常葉に直接持ちかけるのはハードルが高いので俺に話しかけてきた、そんなところだろうか。さすがに向こうから誘われておいて、勝手に参加人数を増やすことはできないけれど。

「うーん、僕の一存では決められないので……。今日この後会った時に、別の日ならどうか訊いてみることはできますが」
「じゃ……じゃあ、よろしくお願いしたいですっ。よろしくお願いします!」

 勢いよく下げられる頭を見下ろしながら苦笑いする。俺も面倒な役回りを仰せつかったものだ。


「ってことがあったんだけど。常葉くんのことが好きなのかもね」

 常葉が予約を入れた、個人経営の居酒屋でお通しの枝豆を摘まみながら、昼間の出来事を説明する。
 店内は白木が印象的な落ち着いた雰囲気で、柔らかい間接照明と半個室という造りも相まって居酒屋というより小料理屋という趣があった。大通りに面していないからか、玄人が通うような洗練された空気もある。装飾の削ぎ落とされた皿に乗って出てくる料理はどれも美味く、アルコールも日本酒・焼酎をはじめとして多くの種類が取り揃えられていた。
 この店を紹介したのは自分だが、常葉も気に入ってくれたようで、度々飲みに指定してくる。お互い食事中は煙草を吸わないと分かっているから気も楽だ。
 俺が店に到着した時、首元を寛げた後輩は既にビールをジョッキの半分くらい飲んでいた。自分は車で向かったため、退勤の混雑と駐車の手間のせいで約束の時間から15分ほど遅れていた。
 こちらの顔を認めた常葉はぺこりと軽く会釈をする。

「お疲れ様です。すみません、先に飲んでて」
「うん、いいよいいよ。……すみません、烏龍茶ひとつ下さい」

 冷えたおしぼりを持ってきてくれた店員さんに飲み物と適当に見繕った食べ物を注文して前を向くと、ややばつが悪そうな顔の常葉に見返されていた。

「今日、車でした? 俺ばっかり飲んで申し訳ないです」
「いや、気にしないで」

 そして、半分のビールと烏龍茶での乾杯が終わり、会話の手始めに給湯室での出来事を常葉に話したのだった。
 相手は「うわー」と呻いて途端にあからさまな渋面を作る。

「そんな顔しなくても……」
「だって俺、会社には仕事しに来てるんであって、恋人探しとかする気ないスから。迷惑ですよ。それ、誰ですか?」

 にべもない常葉に営業事務の女性の名前を出す。いつも無表情な後輩が、はっきりした憂鬱を顔に浮かべる。

「ああ、あの人かあ。明日から露骨に冷たくしようかな」
「それはやめた方が……そこまで邪険にしなくてもいいんじゃない?」
「何言ってんスか、こういうのは好きとか言われる前に手を打っとかないと。だって仕事関係の人と付き合うとか絶対面倒だし、別れたらどうすんですか? めちゃくちゃ気まずいでしょ、俺は無理ッスね」

 そう、ハーブがたっぷりの自家製ソーセージの盛り合わせをもりもり食べながら言う。最初から別れるのを前提とするのもどうかとは思うが、なんとなく気持ちは分かるので何とも言いにくい。
 ごくり、と喉を動かした直後、常葉ははたと何かに気づいたように呟く。

「あ。でも、逆って可能性もあるか」
「逆?」
「橘さんが狙われてるのかもしんないですね。俺はダシに使われただけで」
「いやいや、それはないでしょう」

 揚げ出し豆腐を一口大に切る手を止めて思わず笑ってしまう。自分は常葉のように特に外見が優れているわけでもなく、同期の望月のように明るく愛嬌があって他人を先導するタイプでもない。会社では極力目立たないよう、悪目立ちもしないように淡々と生きている。
 件(くだん)の女性とは毎日何かしら言葉を交わすくらいの関係ではあるものの、個人的に何かした覚えも特段ないし、何歳も年下にいつの間にか好意を持たれている状況なんて考えられない。
 笑い飛ばした俺に反し、後輩はくすりとも笑わなかった。目を少しだけ細め、こちらを観察するようにじっと見ている。

「俺はもっと危機感持った方がいいと思いますけどね。橘さん、冷めてる割に脇が甘いから」
「危機感って……」
「そのうちぱくっといかれても知らないッスよ」

 ぱくっと、て。俺は小魚か何かか?
 と思った刹那、いつかの夢の光景が脳裏にフラッシュバックする。クラゲになった俺を見つめて、蠱惑的に舌なめずりをしていた青年写真家。
 ないない、とジョークにしてさっぱり流してしまえれば良かったのに、入谷の顔が頭の片隅を過ったことでタイミングを逸する。俺の体のあちこちをぱくりと咥える写真家の、伏せた睫毛の輪郭を芋蔓式に思い起こしてしまいそうになる。あれらは、脇の甘さに付け入られた、と言えるのだろうか――。
 いや、何を考えてるんだ。ここは店で、後輩と二人きりだぞ。変な想像はやめろ。
 入谷についてはイレギュラーな案件として、常葉が言うような危機感など、会社で過ごす中で持つ必要があるとは思えない。皆の中で、俺は同僚その五かそれ以下くらいの認識だろうと思っているからだ。

「でも、今の会社に10年くらいいるけど、そんな気配を感じたこと一回もないけどなあ」
「それは橘さんが鈍感すぎるだけ」
「ええ……」

 常葉は遠慮も何もなく言い放ってビールをぐびりと飲み干す。俺はなぜ、後輩に誘われた席で初っ端からボロクソに言われているのだろう……。
 俺には常葉が何を考えているのか今一つ分からない。こうしてサシ飲みに誘うのだから懐いてくれているようにも思えるが、お互い過度に馴れ馴れしいのは不得手だし、壁を感じるシーンも少なくない。彼の発言のどこまでが本心なのかも不明瞭だ。確かなのは、二人共に深くまで踏み入っていない関係であること。なにせ、俺は常葉がどこに住んでいるかも知らないのだから。
 そうやってぼんやりしていたところ、

「橘さんの気持ちはなんとなく想像できますよ。でも、他人に無関心に生きてても、他人が自分に無関心でいてくれるとは限らないスからね」
「……!」

 急に冷や水をかけられたような感覚に襲われる。
 お品書きに目を落としながら紡がれた常葉のそれは、うっすら喧騒が耳に届く店内にあって、マーカーで強調されたかのようにはっきりと鼓膜に響いた。きっと、俺の心境とシンクロするものだったからだろう。
 他人に無関心を貫いていても、他人が持つ好意や悪感情は自分にはコントロールできない。他人は勝手にこちらを見、自分にとってどんな人かを判断し、プラスまたはマイナスの評価を下す。個々人のスタンスなどお構いなしに。それは改めて考えると、とても恐ろしいことだ。

「分かんないスよ。誰がどこであなたを見てるのか」

 こちらを見上げてくる常葉の目つきには、他人の心をざわつかせる真剣さがあった。
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