「その……前から思ってたんですが、どうして俺を下の名前で呼ぶんです?」
「僕がそう呼びたいからです。今日はお互いプライベートで会っていますし、堅苦しいのも変かと思いまして。お嫌でしたか? 今まで駄目だと言われなかったので、自重していませんでした」
「いえ、嫌というのでは……ただ、落ち着かなくて」

 俺は仕事相手と会っている認識だったのだが、そうか。プライベート、なのか、入谷の中では。
 思考を巡らす俺を何と思ったのか、相手は不敵な笑みを深くして言う。

「僕だけ名前でお呼びするのが落ち着かなければ、柾之さんも紫音と呼んで下さっていいのですよ」
「いや、それは……」

 どういう論理がはたらいてそうなるのか、さっぱり分からない。やはり入谷相手に不用意に発言すると、おかしな方向に持っていかれてしまう。注意しなければ、と思うが、俺が一度でも主導権を握ったことがあったか、という自問には否を返すしかないのだが。
 苦い気持ちを実際の苦味で上書きするように、ブラックコーヒーを口に含む。慣れ親しんだはずの苦さが、今回ばかりはよそよそしく舌の上に残った。

「……やっぱりおはぎには、お茶の方がいいですね」
「そうですか? 僕はコーヒーも好きですよ」
 いやに「好き」が強調されて聞こえたのは、自意識過剰というものであったのだろうか。


 結局おはぎはぺろりと無くなってしまった。入谷曰く、おはぎはエネルギーの吸収効率が良いらしい。忙がしくて食事をゆっくり摂れない時などに、普段から好んで食べているという話だった。
 二人ともコーヒーは二杯目になっている。食後の一杯と雑談を交わしながら、普通に和やかな時間を過ごしていることにふと疑問が過った。そうだ、訊かなくてはいけないことがあるではないか。

「そういえば……今さらなんですが、今日はどういったご用件で?」
「用件?」突然異国の言葉を耳にしたように、入谷は切れ長の目を瞬(しばたた)かせる。「特にこれといってありませんが。あなたが住んでいる場所を見てみたかっただけです」
「はあ……そうなんですか」

 頷いてみせたものの、釈然とした思いが拭えない。三十路を過ぎた独身男のつまらない部屋を見て何になるというのか。
 入谷はカップを置いて優しげに微笑する。

「先日は僕の部屋を見て頂きましたからね。好きな人がどんなところで生活しているか、気になるのは自然でしょう?」
「好(す)……ッ」

 この距離でストレートに衒いなく言われると困ってしまう。非常に困る。
 つまり、自分の家を見せたのだからお前の家も見せろ、という等価交換のつもりなのか? 入谷は俺の家に来るつもりが元々あったから、先を見据えて自宅に招いたのだろうか。彼の魂胆が分からない。
 分からないが、何にせよこの話題を続けるわけにはいかない。話をすり替えるため、かねてより抱いていた印象を問いにする。

「あの……前から思っていたんですが、入谷さんは和菓子がお好きなんですか? 前々からお菓子のチョイスが渋めだなあと思っていたんですが」
「渋い……そうかもしれませんね。撮影旅行で海外に滞在することが多いもので、舌が和風の味を求めがちというのはあると思います」
「ああ、なるほど……」

 間が抜けた嘆息が漏れる。そうだ、目の前にいるこの青年は、世界的にも名の通った写真家なのだ。偶然知り合ったに過ぎないしがないサラリーマンである俺の家に、そんな華々しい人物がいるという事実。改めて考えても現実味がない。

「ああ、そうだ。柾之さんにお渡ししようと思っていたものがまだあったんです」

 何かを思い出したように、入谷はおはぎが入っていたのとは違う紙袋を取り出す。中から現れたのは一冊の大判の本。表紙に見覚えがあるそれは、写真家・入谷紫音の写真集だった。

「これ、ご迷惑でなければ受け取って下さい。いつもお世話になっているお礼です。少々古い作品も収録してあるので恥ずかしいのですが」
「ありがとうございます。でも、代金はお支払いしますよ。おいくらですか」
「お代は結構です。差し上げます」
「しかし……」

 無料(ただ)ですんなり受け取れるほど、俺は義理を果たしてはいない。
 押し問答になる予感を遮って、入谷が伝家の宝刀――つまりにやりとした笑み――を抜く。

「あなたに受け取って頂けないと僕が悲しいです。それに、今後一生このことを根に持ちますが、それでもよろしければお代も頂戴します」

 そこまで言われて、嫌とは言えない。
 手渡されたものを確かに受け取って、ぺこりと会釈をした。その場でぱらぱらと捲(めく)りたい気持ちをぐっと堪える。そんなことをすれば、また入谷の前で痴態を曝す事態になりかねないからだ。

「では、ありがたく頂きます。あまりじっくり見られないかもしれないので、先に謝りますね。すみません」
「いえ、いいんですよ。僕が勝手に押しつけただけですから」

 写真集の中身は見ないまま、記憶のギャラリーで入谷の作品を思い起こす。街角、港、草原、道端。どれも情感ある作品だったが、ひとつとして生き物をメインに据えた写真はなかった。

「ところで、入谷さんの写真って風景がメインのものばかりですよね。生き物は撮らないんですか」

 素朴な疑問のつもりだったが、入谷の表情から柔らかさが消える。触れてはいけない部分だったか、とこちらが焦り始めた頃、入谷は静かに答えを返した。

「そうですね。僕は……生き物を撮るのが下手なんです。上手く、撮ってあげられない」
「え……」

 意外な言葉だった。写真のことなど何も分からない俺が惹きつけられるほど、魅力的な写真を撮っているのに。
 混乱したが、おそらく下手というのは技術的な瑕疵を指しているのではない、とは窺えた。この話は続けない方がいいのかもしれない。けれど、俺の眼裏には先刻の入谷の瞳の輝きが焼きついている。だから、止められなかった。

「でも、生き物がお嫌いなわけでは、ないんですよね? さっきもクラゲを熱心にご覧になっていたし」
「それは……そうですね。どちらかと言えば好きです」
「入谷さんの生き物の写真、興味あります。もし良かったら、そこのクラゲとか撮ってみませんか? 気楽な感じで」
「……」

 テーブルの上あたりに視線をさまよわせ、口ごもる入谷の姿は初めて見るものだった。
 そこではっとする。どれだけ無礼なことを言ってしまったか。彼が生き物を撮ったらどんな写真になるのだろう、という興味の気持ちが先走ってしまった。それくらいには、俺は入谷の写真が好きだ。

「あ……すみません。お仕事にしてるものに気楽とか言って。失礼でしたね」
「いえ……。……そうですね、今日はカメラは持参していないので、今度撮ってみようかな」

 顔を上げた相手の表情は、真剣そのものだった。冗談を言っているようには見えない。

「その時はまた、連絡下さいね。俺ならいつでも予定空けますから」

 そう言いつつ、これは実質次の約束を取りつけているのと同じでは? と思う。入谷が家に来ることに尻込みしていたくせに、一体俺は自分から何を言い出しているのだろう。我ながら苦笑してしまう。
 そんなことを考えていたものだから、次に放たれた「好きというなら、柾之さんも同じじゃないですか?」という相手の言葉の意味を図りかねた。

「同じ……というと?」
「先ほどはクラゲに思い入れはないと仰っていましたよね。本当は、割とお好きなんじゃないですか?」

 入谷の視線につられ、リビングの隅にある水槽を見る。普通の水槽と違い、エアーのゴボゴボという音は聞こえない。クラゲがあてどもなくたゆたっている様はどこまでも静かで、その静けさがこちらの心の中にひんやりと広がるようだ。
 クラゲがいる水槽を見るのは確かに、好きだ。けれど、クラゲ単体だとどうだろう。

「好きかどうかは……でも、シンパシーを感じるのは事実かもしれません」
「シンパシー、ですか」

 それはきっと、深層心理で感じていたこと。これまで言語化したことのない気持ち。それが入谷からの問いによって、浮き彫りになっていく。
 浮遊するクラゲたち。丸いかさを規則的に動かしながら、その実彼らは泳いではいない。

「クラゲって、自分に似ている気がするんです。あいつら、泳ぐ動作をしてはいるけど、ほとんど水流に流されてるだけなんですよ。俺も今までずっと、特にやりたいことがあるわけでもなく、周囲に流されて生きてきたから。だから似た者同士なのかなって」

 その自覚はきっと、入谷と出会ったことで決定的になったのだろう。流されて生きてきた自分と、確固たる意思を持ってひとつの道を選んだ他人とを、比べるなんてことは今までなかったのに。そのふたつの道に優劣はなく、ひとつひとつ独立した生き方だ。そのはずだった。
 高校はなんとなく進学校を選び、就職に有利そうだからという理由で大学は経済学部に進み、先輩の紹介で特に思い入れのない会社に就職して、無難に毎日の業務をこなしている。今まで何かを熱で選んだことのない人生。他の会社に行ってもそこそこ上手くやれるだろうが、きっとどこに行ってもその場所に愛着は湧かない、そういう人間。それで不満も不足もない。
 けれど、接近すれば見えてしまう。目を逸らしても、瞼を閉じても、他人の人生の眩しさは近づけば伝わってくるものだ。
 俺はきっと、気づかないふりをしているだけで、入谷への淡い負の感情を抱いているのだろう。それは明確な劣等感にも満たない、マイナスで不定形の何かだ。その感情は、入谷が自分の知らない知識を持っているといった、単純な差から生じているのではない。言うなればそれは、生きる世界の違いによるものだ。
 どんなにささやかでも、翳った感情には己をちくちくと刺す棘がある。心に刺さった針は簡単には抜けない。

「柾之さんは、流されて生きるのは良くないことだと思われますか」
「!」

 すぐ近くから聞こえてきた声にはっとする。入谷がいつの間にか、俺が座るソファの傍らに屈み込んでいた。
 彼には分かるのだろうか。俺の心の深い部分が。

「それは……」
「勘違いでしたらすみません。柾之さんはそういう生き方を、良く思っておられないようにお見受けしたものですから。僕は、流されるのも悪くないと思いますよ。あなたが言うところの流された先で、あなたは立派に勤めている。それは何ら後ろめたく思うことではないはずです。素晴らしいことです」

 そこで入谷はやおら手を伸ばすと、俺の頭を優しい手つきで撫でた。体も頭も途端に固まる。なんだ、これは。
 誰かに撫でられるのなんて、おそらく子供の頃ぶりだ。年下の同性に撫でられている謎の状況に混乱しつつも、内心嫌ではなかった。
 むしろ、髪のあいだを通る指先が気持ちよくて――。
 おかしな心地になる前に慌てて身を引く。

「ちょ、ちょっと、何をするんですか」
「ふふ。なんだか撫でてあげたくなって。可愛かったから」

 さっきまでのどこに可愛い要素があったのか意味不明である。たぶん、彼は芸術肌だから俺みたいな凡人とは感性が別物なのだろう。そういうことにしておく。
 入谷はすぐ手を引っ込めて、俺の目をじっと覗きこむ。意思の強い瞳だ。流されるのも悪くないと言いながら、彼はそんな風に漂泊(ひょうはく)の時間を生きたことはないのだろう。
 現像室の暗がりみたいな深さの双眸を、しっかり見返すことが今はできなかった。

「立派……ですかね。それでも、入谷さんほどじゃないと思いますが」
「僕ですか?」切れ長の綺麗な形の目が二、三度瞬く。この距離だと一重なのに目立つ睫毛の長さがよく分かる。「うーん……経歴だけなら確かに立派に見えるのかもしれないですね。子供の頃から写真の道一本でしたから。でも正直、芽が出なかったら今頃野垂れ死んでいたかもしれませんし、すべては結果論に過ぎません。写真以外に何もしてこなかったので、僕は他に何もできませんし」

 それに、と入谷は口元を弛める。

「人って誰しも、何かしらに流されて生きているものでしょう。例えば、運とかに。生まれてくる時、子は親を選べませんしね。僕も別の家庭が羨ましく思えることもあります。親も子を選べないのは、同じですが」

 はっとした。入谷の中に他者への羨望の気持ちがあるとは想像していなかった。自分の狭量さにやや居たたまれなくなる。
 でも確か、入谷少年は芸術家の父親にカメラを買ってもらったと聞いた覚えがある。それは、恵まれた家庭というわけではないのだろうか。才能だって、ある程度は遺伝の運とも言えるのでは。

「……そういえば以前、入谷さんは芸術家のお父さんにカメラを貰ったと仰ってましたよね。やっぱり血は争えないってことなんでしょうか」
「それは違います」入谷は途端に表情を厳しくして、きっぱりと否定した。こちらが気圧(けお)されるくらいの勢いだった。
「父親は芸術家だとしても、写真家ではありません。僕の写真の技術は自分の努力で得たものです。金銭的援助はあったにしても、僕の腕と親は関係ありません」
「……すみません、勝手な言い方をしました」

 慌てて言い添えると、入谷の眉間から力が抜けた。ばつが悪そうな、はにかむような笑みが口の端に浮く。

「いえ……僕の方こそすみません。他人の生育環境なんて分かるはずないのにね。どうぞお気になさらず。それにしても……ふふ、ずいぶん真面目な話をしてしまいました」

 入谷が目を伏せる。そうすると華やいだ微笑は少しけぶって、奥ゆかしい小ぶりな花にも似た雰囲気になる。彼の頬がすぐそこに――手を伸ばせば簡単に届く場所に――あることを今さら自覚してしまい、心臓が大きく脈打った。
 入谷はソファの肘掛け部分に手を突いて、俺を上方から覗きこんでいる。
 目線が交錯する。奇妙な沈黙が部屋に満ちる。唾を飲み込んだら、相手に伝わってしまうだろう。
 無音に堪えかねて、俺は思いきって立ち上がった。

「俺、食器を片付けちゃいますね」

 片付けると言ってもシンクに食器を下げるだけなのだが、入谷から離れる口実はこれくらいしか思いつかなかった。
 あせあせとぎこちなく手足を動かす俺に、「あの」と声がかけられる。
「は、はい?」恐る恐る振り返ると、眉尻を下げた入谷が申し訳なさそうな表情をしていた。

「大変恐縮なのですが、お手洗いをお借りできますか」

 なんだ、そんなことか。内心ほっとしながら、廊下を出て左手です、と説明した。


 それから何分経っただろう、俺はソファに座って思案に暮れていた。
 というのも、一向に入谷が帰ってこないのである。
 既に片付けは洗い物まで済んでいる。十分以上待っているが、さすがに遅すぎる気がして心配になってきた。もしや急病で、一人で倒れている? 悪い想像が膨らみ、急いでトイレを確認してみたが、既に彼はそこを出た後だった。洗面所にもいないし、その先の風呂場まで見たがそこにも当然人影はない。狭い廊下ですれ違えるわけもなく、この家にはあと一部屋しか残っていない。
 まさか、そんな。
 信じがたい気持ちを抱きつつそろりと開けたのは、いつも自分が寝起きしている、寝室のドアだった。そして、果たしてベッドには。
 入谷が掛け布団の上に全身を投げ出していた。寝ているとか具合が悪そうとかではなく、俺の見間違いでなければ枕の匂いを機嫌良さそうにふんふんと嗅いでいる。
 急に立ちくらみを感じた。この家に彼がいるだけでも非日常なのに、それ以上の非常事態が巻き起こっている。寝室を見せるなんて露ほども思っていなかったので、ぶわりと焦りが湧いてきた。思わず大きい声が出る。

「入谷さん? そこで何をやってるんですか」
「あなたの匂いを嗅いでいたんです」

 相手は平然としたものだ。それはまあ、見たら分かるのだが……。俺が言いたいのは、なぜそんなことを、という方だ。もしかして臭いんですか、とは恐ろしくて訊けたものではない。
 入谷はごろりと仰向けになり、うっそりとほほえむ。そちらへ誘(いざな)うような表情を見て思わずぎくりとした。先ほどまでとはまるで雰囲気が変わっている。服装は同じなのに、言わばフォーマルな入谷からプライベートな入谷へと変貌を遂げていた。
 眩暈がする。目の前で進行している現実が、現実と思えない。
 ここは他ならぬ俺の家。俺の部屋。
 入谷は余裕綽々にほのかな笑みを浮かべ、しどけない様子でこちらを誘っている。
 ごくりと大きく自分の喉が鳴った。総柄のシャツの胸元は寝転んだせいで乱れていて、綺麗な形の鎖骨が見え隠れしている。

「柾之さんのお宅に来た当初から、僕は本当は我慢していたんですよ?」

 ここであなたが毎日生活していると考えたら、たまらなくなってしまって――。
 入谷はそう吐息混じりに口にする。
 距離はそこまで近くないのに、耳元で囁かれているように感じ、脳髄から全身へぶるりと震えが広がった。

「柾之さんはこのベッドで、僕を想像してご自分を慰めたことはあるのかな」

 それはぽつりと、独り言みたいに漏らされて。
 自分を慰めるって、そういう意味だよな? 俺はまごつく。自慰なんて……何回もした。入谷と最初に会った日に始まり、彼の目を、舌を、指を想像しながら、何度も何度も――。
 何も言えないでいると、相手は笑みを深くする。

「僕はありますよ、たくさん。あなたのものに貫かれるところを、何回も思い浮かべました」

 入谷は舌なめずりをするように、ゆっくりと唇を舐める。あまりにも蠱惑的な様子に、俺は金縛りにでも遭ったみたいに立ち尽くす。ここは自分の家なのに、完全に入谷が作り出す空気に呑まれていた。

「柾之さん……」

 切なく名を呼ばれ、つ、つ、と足がそちらに向いてしまう。このままでは、前回までの二の舞になってしまう。駄目だ。辞めなければ、と決めたじゃないか。
 入谷の濡れた視線に貫かれながら、どうして? と自分の中のもう一人の俺が訊いてくる。
 駄目だと思うのはどうしてなんだ? 彼が客先の人間だから? 人間性をほとんど何も知らないから? それとも、相手が同性だから?
 俺は、入谷のことをどう思っているのだろう。
 駄目な理由を並び立てる前に、本当に俺が向き合うべきなのは、"俺自身が入谷をどう思っているか"なんじゃないか?
 ふらつきながら、一歩一歩入谷の方へと近づいていく。
「好きだ」と言う彼の考えが分からない、俺にどうしてほしいのか分からない。そう及び腰になっている俺自身はどうなんだ? いけないと自分に言い聞かせながら、やることはやっているじゃないか。夜に入谷を想い、体を熱くし、ふとした時に彼の顔を思い浮かべてしまう。
 こんなに烈(はげ)しい気持ちを、俺は知らなかった。
 出し抜けに手首を強く引かれる。いつの間にか入谷の間合いに入っていた俺は身構えることもできず、彼に覆い被さる形でベッドに倒れこむ。なんとか手を相手の脇についたけれど、俺が押し倒したような格好になり、三十cmほどの距離で見つめ合う。
 身を引く前に、入谷の脚がするりと下半身に絡まってきてぎょっとした。

「今日は攻められたい気分なんです」
「あの、入谷さん、俺は」
「お嫌ですか……? 嫌でないのなら、してくれるまで離しませんから」

 そんなの脅しではないか。言葉を探しているうちに、入谷の指が項(うなじ)に伸びてきて、ざわりと総毛立つような感覚に襲われる。「首、弱いんですね」という笑いを含んだ声に、自分の体温が上昇させられるのを感じる。
 往生際悪く相手の表情を窺った。俺はおそらく情けない顔をしていたことだろう。

「その……こんな昼間から、するんですか」
「昼間にしてはいけない、なんて法律はないでしょう? それに、その方が背徳感で燃え上がるというものです」

 粘度のある響きが耳にねっとり残る。俺の中には、先ほど入谷の努力を軽んじるような発言をしてしまったことへの罪悪感が、確かに蟠(わだかま)っている。本人は気にしていない風だったが、ここで断るのは負い目がある俺には無理そうだ。
 それに。今までの以上のことをしたら、自分が入谷に対してどんな感情を抱いているのか、はっきりするかもしれない。
 心臓の音がばくばくとうるさい。ごくりと唾を飲み、努めて声を抑えて尋ねる。

「……入谷さんは、どういう風にしてほしいんですか」
「おや、リクエストを聞いて下さるのですね」黒曜石のような双眸が蕩(とろ)ける。「そうですね……まずは髪を撫でて頂けますか?」

 そのくらいならハードルは低い。片腕で体を支え、右手で入谷のつやつやした黒髪に触れる。髪は柔らかく、適度な弾性があった。指で髪のあいだを梳くようにすると、下にある体が快感を堪(こら)えるようにぶるりと震える。
 は、と吐息が漏れた唇に目が惹きつけられた。半開きの口から、白い歯と舌がかわいらしく覗いている。欲しい、と言わんばかりのその様子。
 初めて、自分から入谷にキスをした。みずみずしい唇に触れ、優しく食み、舌先でねぶる。入谷の方から伸びてきた舌を己の舌で迎え、水音を立てながら貪り合う。甘さの残る咥内を味わいながら、下腹部の奥底の方にじわりと熱が灯るのを自覚する。
 口を離すと、入谷の目はどことなく潤んでいるように見えた。ほとぼった頭のせいで、自分が自分でなくなったようだった。衝動に突かれるみたいに、入谷の耳たぶを愛撫しながらその耳管に直接問いかける。

「それから?」
「胸……触って下さい」

 入谷の吐息にも熱いものが混じっていた。彼のいじらしい態度に、腹の奥のものがかき混ぜられる感覚を覚える。
 シャツのボタンを焦らすように外していく。昼間だと余計に入谷の白い肌は目に眩しかった。指を伸ばしてひんやりする胸に触れ、中心を探る。最初はふにふにと柔らかかった先端は、刺激を与えていくうちに固く尖っていった。と同時に入谷は徐々に眉をひそめていく。気持ちいいときの癖なのかもしれなかった。

「入谷さん、上はシャツしか着てないんですね。ちょっと無防備すぎるのでは?」
「あなたの前だけですから、大丈夫ですよ……」

 どうしよう。入谷がこんなに健気なことを言ってくれるとは思わなかった。つい指先に力が入ってしまう。
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