眩暈がする。目の前で進行している現実が、現実と思えない。
 気鋭の写真家・入谷紫音がそのほっそりした肢体を横たえているのは、俺がいつも寝起きしているベッドだ。
 ここは他ならぬ俺の家。俺の部屋。
 入谷は余裕綽々にほのかな笑みを浮かべ、しどけない様子でこちらを誘っている。
 ごくりと大きく自分の喉が鳴った。


 出社の途中、ぎゅうぎゅうになったエレベーターの中で、昨日の夕刻以降の出来事を思い返す。入谷紫音のオフィスを話半分に飛び出したあと、会社に戻った俺を待ち受けていたのは営業事務員の同情の視線だった。
 同僚の望月に指定されていた薬品を急ぎで客先に届けると、玄関先でそわそわしながら待っていたらしい担当者はあからさまにほっとした表情を浮かべた。小言のひとつやふたつは言われるか、との予想は空振りに終わった。

「ありがとうございます、これでお偉いさんにドヤされなくてすみますよ。申し訳ないけど、朝イチで仕上げなきゃいけないものがあるので、私はこれで」
「ご迷惑をおかけしました。今後このようなことが起こらないように徹底しますので」
「あなたも大変でしたね。担当者じゃないのに、ご苦労様」
「とんでもない。恐縮です」

 俺は腰を折って頭を下げた。それはもう、深々と。自分のミスでもないのに謝るなんて、などというひねくれた意識は微塵もない。それよりも、この場にミスの原因であるインターン生がいてほしかったな、と思った。自らのミスによって自分が怒られるだけなら大したこともなかろうが、犯したミスのせいで他人が、それも社外の人が叱責を受けることだってある。それをあの学生には実感してほしかった。
 エレベーターから吐き出されて仕事場に着く。営業一課のフロアにはぼちぼち人が出社してきていた。営業は客先から直行のことも多いが、件の学生とメンターである望月(もちづき)は二人とも揃っている。学生がぺこぺこと望月に頭を下げているところだ。
 俺が席に着くと、望月がちらりとこちらに視線をやった。「俺はいいから、橘に謝ってこい」という同期の声が聞こえる。
 PCの電源を入れ、横から近づいてくる足音を聞く。橘さん、と呼びかけられて振り仰げば、ぎこちなく薄ら笑いを浮かべているインターン生がいる。

「あの、昨日はすみませんでした。本当に」

 殊勝ぽく言って頭(こうべ)を垂れるのが、どこかへらへらしているようにも見えた。
 この彼はきっと、謝り慣れていないのだろう。比較的裕福な家庭に生まれ育って、それが恵まれたことだと強く自覚する機会もなく、大学に苦もなく行かせてもらえている。そんな風に感じるのは俺の偏見かもしれない。
 無論、育ちがいいのはよいことだ。社会に出る前の苦労なんて、しないに越したことはないのだから。
 この人は温厚そうだから、とりあえず謝っておけば済むだろう。そんな相手の心の声が聞こえてくるようだ。目の前の彼だけではなく、今まで何度もそんなことはあった。初対面で舐められるのには慣れているし、誰を侮(あなど)るのも勝手だが、社会人には社会人の謝罪の方法というものがある。

「ああ、別に大丈夫だよ」

 俺はわざと何でもないように微笑を作る。相手はすぐさま、胸を撫で下ろしたように笑みを浮かべた。
 そうしてから、言ってやる。

「インターンでそれくらいの仕事意識と態度なら、どうせ卒業後もうちには来ないでしょ? だから別に、どうでもいいよ」

 場の空気がぴり、と張り詰めるのが分かる。空気も一瞬で凍りついた。
 学生の顔から色がなくなり、口がぱくぱくと何回か開閉されるが、言葉は何も出てこない。

「俺のことはいいから、お客さんに謝った方がいいんじゃない」

 冷たい口調で勧める。あ、それは、はい……ともごもご答える学生を差し置き、俺は立ち上がって足先を喫煙ルームに向けた。しばらくここにいない方がいいだろう、学生のためにも。
 始業にはまだ少し時間があるから丁度よかった。排煙設備を動かし、無人の部屋で煙草を吹かす。ドアが動いたので横目でそちらを見れば、予想通りの顔がそこにあった。やや深刻そうな表情の望月。彼は禁煙しているはずだから、もちろん俺に用があるのだろう。

「橘」
「なに」
「なにって、お前さあ……さっき周りの空気凍りついてたぞ。気づいてたか?」
「もちろん。そうなるだろうと予想して言ったんだから」

 深く息を吸い込み、また深く吐く。周囲の雰囲気が悪くなることは当然分かっていた。狙ってやったのだ。自分は学生に嫌われるだろうが、どうせ一生深い付き合いになることもない。
「出た出た、お前の怖いところ」と同期の同僚は苦笑する。でも、と続けた内容は、俺には予想外のものだった。

「あいつには逆効果だったかもな。心入れ換えて頑張りますっつって張り切ってたぞ。ありゃ再来年には俺らの後輩になってるかもな」
「そっか」

 先ほどの学生に放った台詞ではないが、自分にとってはどちらでもいいことだ。あれで火がつくような暑苦しいタイプは面倒だろうな、とは思う。望月とは気が合うかもしれないけれども、俺はこの同僚も正直あまり好きではない。
 どのみち、好き嫌いで物事を決めるなんて絶対にないので、どちらでも構わないのだ。
 望月が長めの髪を無造作にわしゃわしゃと乱す。きっちりセットしているのに勿体ない。

「ああーもう、そうやってクールに決めちゃってさ……。お前って無自覚に後輩に火をつけるところあるよな、常葉(ときわ)もそうだったし」
「ん?」

 突然優秀な後輩の名前が出てきて、耳がそこに反応した。

「常葉くんって? 彼は最初から何でもできてたじゃないか」
「違う違う」望月は掌をひらひらと振る。「覚えてないのか? お前と話すようになって意識変わったって聞いたぜ、飲みの席で」

 ま、俺も酔ってて詳しい内容はあんまり覚えてないけど、と無責任に言ってうははと笑う男を睨む。
 どうにも思い当たる節がなく、思わず顔をひそめてしまう。俺は一体、常葉に何を言ったのだったか。
 考えを巡らせる自分の横で、望月はいつもの調子を取り戻してからりと笑う。絵に描いたような営業スマイルだ。こいつはいわゆる営業っぽい営業で、いつも顔に貼りついている笑顔はよく言えば人懐こく、悪く言えば押しつけがましくて胡散臭い。

「そうだそうだ、肝心のお前にお礼を言ってなかったな。昨日は助かった、ありがとう。今度飯でも奢るよ」
「いいよ、わざわざ。お前が悪いわけじゃないし」
「遠慮するなって。あ、今日でもいいぞ? 久しぶりにサシで飲むかあ」

 望月は伸びをしながら白い歯を見せる。俺の話聞こえてないのか、こいつ。これだから押しが強い人間は嫌なのだ。
 まあ、営業職に向いているのは本来彼のようなタイプなのだろう。誰にでも興味を持てて(あるいは興味があるフリが上手くて)、どんな話題にも愛想良くついていける、そんな人間。

「遠慮はしてない。お前と二人だと気詰まりだし」
「あのなー……それ面と向かって言うことじゃないだろ、そういうとこだぞ。じゃ、キャバクラにでも行くか」
「行かない。お前、既婚者だろ……お子さんだってまだ小さいじゃないか」
「えー、別に行ってもいいだろ、そんくらい。それに子供を寝かしつけるまで帰ってくるなって嫁さんに言われてるんだよな〜」
「知らないよ。そんなに行きたきゃ一人で行け」

 もう、どうしてここまで話が噛み合わないのだろうか。そもそもキャバクラ云々なんて朝にする会話じゃない。
 ため息を吐きながら、スタンド灰皿に吸殻を押しつける。

「相変わらず冷てえなあ、橘センセイは」
「もう始業時間になるぞ。仕事戻れよ」
「はいはい、真面目くんだね」
「俺は普通だよ。そっちが不真面目なだけだろ」

 真面目、という何の変哲もない単語がちりちりと思考を灼(や)いた。思わず冷笑が浮かびそうになる。数回しか会ったことのない、素性すらほとんど知らない客先の人と、口に出すのも憚(はばか)られるようなことを繰り広げている自分。そんな人間が真面目なわけがない。それをここで話題にできるはずもないけれど。
 オフィスに戻ると、こちらの姿を認めた学生が勇ましく歩み寄ってきた。俺に声をかけたくてうずうずしていたのだろう。その体から放出されているエネルギーに体が引けそうになる。相手は引き締まった表情で、ほぼ九十度になるまで勢いよく腰を折った。

「昨日と、先ほどは申し訳ありませんでした! 今後は心を入れ替えて、改めて仕事に当たります。どうかご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」

 その勢いに面食らってしまう。へらへらしていた態度は鳴りを潜め、ものの数分でまるで別人のような雰囲気になっていた。俺が火をつけたなんて信じられず、ああそう、頑張ってね、と聞きようによっては冷淡な励まししか返せなかった。
 ぴりぴりしていたフロアの空気が、いつしか通常と同じほどに和んでいる。

「すごいですねえ、橘さん」

 と近くの席の営業事務の女性が言ってくる。いえ、俺は何も、という返答を謙遜と受け取ったのか、視線をPCに戻す前に彼女はにこりと笑みを見せた。
 皆の目には、俺は比較的真面目に映っているのかもしれない。ギャラリーや入谷のオフィスで行われたことは、周囲の想像の範囲外に違いないと、自分だって自覚している。付き合っているわけでもない取引先の責任者と、会うたびに他人には到底言えない行為を繰り返しているなんて、どこからどう考えても絶対によくない。
 もうやめよう、こんな爛(ただ)れきった関係は。心に固く決める。
 ――そんな俺の小さな決意は、すぐ打ち砕かれることになるのだが。


 本日一件目の客先との約束より早めに会社を出て、コンビニの駐車場に社用車を停める。
 駐車場を使わせてもらう駄賃に缶コーヒーを買って、今はスマホの暗い画面をじっと見つめているところだ。
 ――昨日、礼を失したことを謝るために、今すぐ入谷に電話すべきだ。
 そう分かっているのに、なかなか踏ん切りがつかないまま一分、二分と時間が流れる。
 これ以上引き延ばすと次の予定に支障を来(きた)す。そんな局面になってやっと、発信のアイコンをタップした。が、何と言うべきか考えがまとまっていない。仕方ない、もうどうとでもなれ。
 相手は二コール目で出た。本来の声とは少し違う音に変換された、でも同じなめらかさを持った声が、通話口から流れ出てくる。

「はい、入谷です。いかがされましたか、橘さん」

 その落ち着いた声音に内心ほっとする。昨日のことを根に持っている気配は感じない。良かった、いつもの調子だ。

「昨日のことをお詫びしたくて。不可抗力とは言え、途中で飛び出してしまい失礼しました」
「途中、ですか。何の途中でしたか」

 揶揄するような色を滲ませて入谷が問うてくる。セックスの、とは口が裂けても言えるはずがない。
 昨日も彼は俺の耳元で、湿った声で囁いていたのだっけ。そう回想すると、入谷の声が耳のそばから聞こえてくるのに耐えられない気持ちになり、たまらずハンズフリー通話に切り換える。

「……入谷さん、からかわないで下さい」
「僕は何も言ってはいませんよ。想像したのはそちらですから。……ご用件はそれだけでしょうか」
「あ、いえ……お詫びと言ってはなんですが、私にできることがあれば拝命致しますので。何かありましたら、いつでも仰って頂ければと」

 それは社交辞令のつもりで、そこで会話を切り上げるつもりだったのだが。

「そうですか……では、橘さんのお宅に伺いたいです」
「えっ」完全に想定の範囲外の要望がすぐに返ってきて、素っ頓狂な声が出る。「うちに、ですか」
「ああ、もちろん僕の個人的な希望なので、駄目でしたら無理にとは申しませんが」

 ストレートに願望を口にしながら、入谷はすぐしおらしくこちらを気遣う。計算ずくなのか、そういう性格なのか、分からない。いずれにしても俺はその揺さぶりに翻弄され、決然とした態度を崩されてしまう。

「いや……いえ、無理というわけでは。でも、本当に何もありませんよ、うちには」
「構いません。では、今週末などいかがでしょう」

 またこの揺さぶりだ。入谷はこちらの懐にするりと巧みに入ってくる。しかし、今週末なんて――すぐに来てしまうではないか。
 脳内にある箱をあれこれひっくり返して断る理由を探す。元々の持ち物が少ないから大がかりな掃除は必要ないし、土日に外せない重要な用事があるわけでも、その他入谷に来られたら困る理由があるわけでもない。
 駄目だ。これは……断れない。
 自宅で昨日のような事態になってしまえば、もう逃げ場はないだろう。どうやら週末までに、覚悟を決めておく必要があるらしい。

「分かり……ました。詳しくはまたメールでもして頂ければ」
「それでは、楽しみにしていますね」

 いつでも冷静沈着な写真家の少し弾んだ声が、俺には追い詰める言葉に聞こえた。


 入谷は、何を考えているのだろう。「好き」と言う割に、俺にどうしてほしいのかはまったく口にせず、距離だけ詰めてくるあの青年写真家は。「付き合ってくれ」というならシンプルで分かりやすいのに。
 ――夢の中で無体をはたらいておいて、いざ心の準備ができていないなんて抜かす自分も、大概不誠実だが。
 予想どおり、週末はすぐにやってきた。いつもは休日になるのを指折り数えているようなものなのに、客先への訪問や社内の打ち合わせ、接待、後輩との食事などを消化しているうちに、いつの間にか土曜の朝になっていた。
 部屋の掃除は済んでいる。来客用のスリッパも用意してある。コーヒーメーカーのスイッチを入れてしばらく経った頃、インターホンが鳴らされた。約束の十一時を数分過ぎたところだった。
 ドアホンの確認もすっ飛ばしてドアを開けると、私服姿の入谷がそこに立っている。

「こんにちは。押しかけてしまい、すみません」

 青年写真家はそう言いながら薄い色のサングラスを外す。こんにちは、と返しながら、この時点で俺は少々動揺していた。初めて見る入谷のオフの姿に、見入ってしまっていたからだ。
 上半身は幾何学模様の総柄の半袖シャツ、下半身は麻っぽい生成(きなり)のストレートパンツ。足元はラフな印象の靴――エスパドリーユというのだったか――で、踝(くるぶし)と細い足首が覗いている。
 全体的に華やかさと爽やかさが同居しており、写真で見るモデルのように完璧な出で立ちだった。外は酷暑だというのに、涼やかな白皙の美貌には汗ひとつ浮いていない。こちらが適当なシャツとチノパン姿なのが申し訳なくなってくるほどだ。
 そこまでで自分が思う以上にじろじろ見てしまっていたらしく、可笑(おか)しげに相手が口の端を引き上げる。

「ふふ。そんなに僕の格好が物珍しいですか?」
「あ……すみません。入谷さんがすごくお洒落だったので、びっくりしてしまって」
「あなたに会えるので、気合いを入れて選んできたんですよ。なのでそう言って頂けると嬉しいです」
「そう、ですか」

 俺に会うから、気合いを入れて? 不可解な台詞だが、こんなところでいつまでもやり取りしているわけにはいかない。

「すみません、玄関先で長々と。どうぞ上がって下さい」
「お邪魔します」

 入谷が会釈をし、履き物を脱ぎ、屈んで靴を揃える、その何気ない動作がすべて洗練されていて美しい。眩(まばゆ)いばかりのオーラを放つ彼がこの平凡なマンションの一室にいることに強烈な違和感を覚え、足元が少し覚束なくなった。
 今日この日、彼の目的は一体どこにあるのか? 身構えておくに越したことはないだろう。
 入谷がリビングのドア近くに置いてある水槽を認め、「あ、クラゲ」と声を上げる。
 ほとんど殺風景と言っていいこの家の中で、その丸い形の水槽だけが異質な存在だった。水で満たされた中には水草も砂利もなく、ただクラゲたちが寄る辺なくふわふわと水流に流されている。種類はごく普通のミズクラゲだが、個人で飼育しているのは確かに珍しいかもしれない。
 目を丸くしてほの明るい水槽を覗きこむそのときだけ、入谷はどこか幼く見えた。
「お好きなんですか? クラゲ」と問う彼の瞳は好奇心できらめいている。

「好き……というか、元カノが置いていったものを管理し続けてる感じですかね。水槽を死蔵するのも処分するのも面倒ですし。クラゲに思い入れはあんまりないですが、動きを見ると癒されるので」
「なるほど、そうですか」

 相手は水槽に視線を戻す。こちらのつまらない説明に鼻白んだのか、それに関係なく面白がってくれているのか、横顔からは察することができない。
 元カノをわざわざ引き合いに出さずともよかったかもしれない、なんて、俺は何を気にしているんだろう。入谷は取引先の責任者で、俺はただの担当者。別に"そういうの"じゃないんだからと、言い聞かせてもちくりと胸が痛むのはなぜだ。
 入谷に二人掛けのソファを勧め、自分は一人掛けの方に座る。と、入谷は手に提げていた紙袋から箱を取り出してテーブルの上へと滑らせた。パッケージの端に小さくロゴが印刷されていて、上品な印象を受ける。

「これ、手土産です。良かったら一緒に食べましょう。僕が好きなお店のもので、お口に合えばいいんですが」
「ありがとうございます、わざわざ」
「いえ、こちらが無理を言って訪問しているのですから。おはぎはお好きですか」
「おはぎ……ですか?」

 てっきり洋生菓子か和菓子あたりの箱かと予想していた俺は思わず目を瞬(またた)かせてしまう。おはぎといえば、大昔に祖母が作ったものを食べたきりだ。当時はあまり美味しいと思えなくて、ほぼ食わず嫌いなまま今まで来ている。
 何と言ったものか口ごもるこちらをよそに、入谷の繊細な指先が包装を解いていく。中にはちょこんとした可愛らしい大きさのおはぎが、仕切りに収まって行儀よく整列していた。餡は様々な色があり、種類はあんこだけではないようだ。色とりどりなそれらは、一見しておはぎと分からない。

「美味しそう、ですね。それにすごく綺麗」

 偽らざる正直な感想だった。「今、皿と飲み物持ってきますね」と腰を浮かせると、入谷は目元を緩ませた。
 リビングと一続きになっているダイニングを抜け、ほとんど無用の長物になっているオープンキッチンの天板部分で作業をする。二人ぶんの取り皿とコーヒーカップを用意しつつ、ソファに座る入谷の様子を見やる。背筋をすっと伸ばしたいい姿勢のまま、彼は室内を眺めているようだった。ただ座っているだけなのに存在感がすごい。
 おはぎならお茶の方がいいだろうが、生憎この家には茶葉も急須もなかった。不準備を詫びると、「おはぎにコーヒー、初めての組み合わせです。試してみるのも楽しそうですね」と社交辞令だろうが入谷はほほえんでくれた。
 取り分けたおはぎを、付属していた黒文字(くろもじ)で半分に割ってみる。断面を見ると、ご飯はほとんど原形がなくなるまで潰されており、見た目だけなら内と外がひっくり返った大福のようだ。一口大に切り分けて口に入れると、まずあんこのほどよい甘さが舌に広がる。一回、二回と噛むごとに、つぶあんとご飯の風味がほろりと一体化して口いっぱいに広がり、素直に美味しいと思えた。

「ん……! 美味いですね、これ」
「それは良かった」

 入谷は上品に、かつ流れるような動作でおはぎを食べ進めている。まるで彼の周りだけ清涼な風が吹いているかのようだ。
 あんこのおはぎの次は、かぼちゃ餡を試してみる。こちらの方が甘くなく、デザート感は薄い。感想を差し挟むのも忘れ、ぱくぱくと最後まで食べてしまっていた。
 そこでふふっと笑い声が聞こえて視線を上げると、何か楽しいことがあったかのようににこにこ顔の入谷と目が合った。

「……何か、面白いことでもありました?」
「いえ、柾之さんの笑顔を拝見できて嬉しいなと思いまして。ご馳走さまです」
「……っ」

 彼が"ご馳走さま"に合わせていたずらっぽく手を合わせる。思いがけない不意打ちに、ぼっと頬のあたりが熱を持った。気の抜けた無防備な顔を見られたようで、だいぶ気恥ずかしかった
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