張り詰めた空気をわざと崩すように、入谷が口調を軽く、明るく変える。

「そうだ。あなたの体が僕の写真のどの要素に反応しているのか、調べたら楽しそうですね。元のフィルムなのか、現像の方法なのか、構図、被写体……カラー写真をご覧になったら何か分かるかも知れませんね」

 軽口の形で提案された内容に、しかし俺は笑えなかった。ここで愛想笑いもできないようでは、営業職としては失格だ。
 入谷はふ、と息を吐(つ)くと、緑茶を受け皿ごとテーブルの中央へと押しやり、前触れなく立ち上がった。そのまますたすたと歩み寄ってきて、俺の隣にすとんと座る。「?」と思っているうち、「あなたはなかなか笑わない」と低く呟いたが早いか、入谷の華奢な体がぐいっと倒れかかってきた。
 そんな動きは予測していなかったために身構えることもできず、二人して横ざまにソファに倒れこむ。頭がばふんと弾む感覚があった。痛くはないが、なかなかの衝撃だ。

「入谷さん? 大丈夫ですか」

 胸のあたりにある黒髪の旋毛(つむじ)を見ながら尋ねる。
 入谷は面(おもて)をこちらに向け、ふふっと不敵に口元を吊り上げた。至近距離にあるその表情から、なんとも言えない色気が漂っていてどきりとする。

「ずいぶんとお人好しなのですね、橘さん。今のは押し倒したんですよ」
「えっ……」

 思いもかけない告白に絶句するしかない。押し倒すなんて、どうしてそんなことを。
 二人で座ってもゆったりしていたソファは、寝転ぶには狭くてほとんど身動(みじろ)ぎすらできないほどだ。加えて、こちらの体を押さえている入谷の力も弱くはなく、体勢を元に戻そうとする俺の動きを許さない。細く見えるとはいえ男性なのだ、と当たり前の事実をこんな状態になってから思い知る。
 入谷は間(ま)を置かずに次のアクションを起こした。こちらに覆い被さるようにして、俺の首筋あたりをふんふんと嗅ぐ。まず頭に浮かぶのは焦りだった。

「あ、あの! 今日は駅から歩いて来たので……臭いかも」
「大丈夫ですよ。橘さんの匂いがこの前より濃いだけです」

 それって臭いということではないのか。若干ショックを受けているうちに、首をぞろりと舐め上げられた。それだけで、ひ、と危うく声が出そうになるくらい、ぞくぞくとした快感が全身に伝播する。

「ちょっと、こんな時間から――」
「営業時間外になったらいいんですか? 意外と真面目なんですね。営業マンは遊び慣れているのでは?」
「それは……偏見ですよ」

 この状況はまずい。流されたらきっと、後戻りできなくなる。
 頭では分かっているのに、体が早くも熱くなり始めている。なんとか目を逸らそうとするのを、入谷は許してくれない。今や俺の視界のほとんどを、逆光になった入谷の顔が埋めていた。

「先日、僕はあなたが好きだとお伝えしました。そう言っている男の部屋にのこのこ上がっておいて、嫌だと仰るのですか? あなたにも少しはそのつもりがあったのでは?」
「俺は決して……そういうのじゃ」

 本当にそうか? 入谷からメールで午後の遅い時間を提案されたとき、俺はうっすらとでも期待したのではなかったか。
 例えば、このようなことを。

「柾之さん」
「……っ」

 入谷が耳の傍で名前を囁く。甘く脳髄をとろかすようなそれは、まるで麻酔だった。じんと痺れたみたいに身を固くしていれば、耳朶を柔らかく食まれ、舐められて、総毛立つような感覚が背筋を走る。
 相手は唇で肌に愛撫を施しながら、手慣れた様子で俺のシャツのボタンを外しにかかっていた。ああ、このままでは脱がされてしまう。

「あの、待っ――」
「あなたが見せてくれたら僕も見せますよ」

 湿り気を帯びた誘いに、思わず目を見開く。いや待て、見たいのか、俺は?
 上目遣いにこちらを見る入谷と視線がかち合う。その瞳の奥に情欲の光がちらついているのを認めて、なぜだか胸が高鳴った。
 夢で見たばかりの、幻の入谷の肢体が脳裏を過(よぎ)っていく。夢の中では彼の体の細部はあやふやだった。けれど、今目にすることができたなら……。
 ぐるぐる考える俺を、彼は待ってくれない。しなやかな指が蠢いてシャツをはだけさせ、ネクタイを上に退(の)け、あっと思う間もなくアンダーシャツを捲(まく)り上げる。火照りだした肌を、エアコンの冷気がひやりと撫でた。
 入谷は体を起こし、俺の曝された地肌を舐めるように見る。
 これはかなり、いやとんでもなく恥ずかしい。頬を熱くする俺を、入谷はなぜか満足げな顔で見下ろしている。

「柾之さん、なかなか良い体をしていらっしゃいますよね。何かスポーツでもされているんですか?」
「いえ……週二日くらいジムに行っているだけで、あとは何も」

 ジムに行っているのは別にこんな風に他人に体を見せるためじゃなかった。三十路を迎えて運動不足が気になり始めたからで、会社から健康促進のための補助金が出ているからでもある。鑑賞に:堪(た)えられるような体には全然仕上がっていない、と思う。
 相手はなるほど、と首肯した。細い指先が側筋のあたりをつつつと撫で上げ、予期しない刺激に「んん」と鼻から抑えきれなかった吐息が漏れてしまう。なんだか皮膚が敏感になっている気配がした。

「可愛い反応ですね。好きです」

 うっとりとしたその呟きが、どこか遠く聞こえる。
 可愛いだなんて、人生でほぼ言われたことのない言葉だ。"可愛げがない"なら何度も言われたことがある。揶揄でないのなら、きっと入谷は視力と聴力がよくないのだ――。

「さて、約束は守らないといけませんね」

 独り言みたいな呟きが上から降ってくる。
 入谷は俺に跨がったまま、ベストとシャツのボタンを順に外して脱ぎ捨てていく。それはこちらに見せつけるようにじりじりとした、緩慢な速度だった。我知らず、瞬きを忘れるほど真剣に、指先の動きを追ってしまう。
 早く、と俺は声に出さずに懇願していた。
 早く、早く。服を脱いだところを見たい。見せてほしい。
 入谷は、ワイシャツの下に何も着ていなかった。まず綺麗な形の鎖骨が、みぞおちが、うっすら筋肉のついた腹が、順に目の前に現れていく。その光景が眼裏(まなうら)に焼きつき、なめらかな肌に目が惹きつけられて、ごくりと生唾を飲み込んでいた。
 入谷の上半身が、完全にあらわになった。色白な人はやっぱりほくろが多いんだななんて、頭のどこか冷静な部分が他人事(ひとごと)みたいに感想を抱いている。全身に散りばめられたほくろを掌でなぞったら、さぞなめらかで気持ちのよい感触なんだろう。
 そうだ。俺は、この体を夢の中で犯して……。
 思考がぼうっとし始める。下腹に血が集中していくのとは逆に、全身はふわふわとしていた。ギャラリーで、入谷の写真を見たときのように。
 入谷はうっそりと笑んで俺の下半身へと手を伸ばし、

「僕でも起(た)つんですね」

 その一声は冷や水に等しかった。
 そうだ――前回までの二回と今回では、決定的に異なる点がある。前回までは、俺が写真を見ていてなぜか感じてしまったから、責任を感じた入谷がやむを得ず処理してくれただけなのだ。今日はまったく事情が違う。俺は、入谷本人に対して、興奮してしまっているのだ。
 顔が炙られたように火照る。今度は羞恥と、申し訳なさのせいで。

「ッ、すみません、見苦しいものを見せて」
「いえ、僕は嬉しいんですよ」

 そう言って、美貌の写真家はやや悲しげに眉尻を下げた。少し乱暴な手つきで、艶のある黒髪を掻き上げる。

「もどかしいですね。あなたに僕の気持ちが伝わらないのが」

 俺はまだ、疑っている。入谷がなぜこんな突出したところがない男に「好きだ」なんて言うのか。その裏にあるものは何なのか。年上の男を翻弄して、一体何がしたいのか。
 疑いながら、流されている。
 入谷の右手が俺の顎を捕らえる。上顎と下顎のあいだに力をこめられ、だらしなく半開きになった口に、制止する間もなく熱い舌が侵入してきた。火が点いたかのように、一瞬で総身の血が熱く滾る。まるで、そうされるのを待ち望んでいたみたいだ。
 舌を吸われ、呼吸を奪われる。唾液が混じり合い、相手の鼻息が顔にかかる。前回とは少し違う、じっくり時間をかけた絡みつくような深いキスだ。
 下半身には、俺を組み敷いたままの入谷の下腹が押し当てられていて、ねっとりとしたストロークで前後に蠢いている。それに合わせてつい腰が揺れてしまう。これがセックスでないのが不思議なくらいだった。露骨に扇情的な動きは、長年独り身を持て余している男には覿面(てきめん)に効いた。
 自分の屹立に、ぐりぐりと当たるものがある。入谷も起っているのだ。服越しでも擦(こす)れれば痛かったが、その中には快も確かにあった。
 入谷がぢゅうっと音を立てて俺の舌を吸い、柔らかい唇が離れていく。静かに燃えている瞳で俺を見つめ、入谷は熱を孕んだ声で提案してきた。

「下、触りっこしましょうか」

 シリアスな表情に反してその言葉選びは可愛らしく、こんな時でも僅かに可笑(おか)しい。無意識に入谷の体をまさぐっていた右手を取られ、昂りへと導かれた。

「お嫌なら、無理にとは言いませんので」
「いえ……俺だけしてもらうのも、申し訳ないので」

 思えば、ギャラリーでは一方的に抜いてもらうばかりだった。他人のそれを触るのはこれが初めてだが、彼のものに触れることに抵抗を感じていない己が不思議だ。
 自分がベルトを抜いて前を寛げる時間も、相手がスラックスを取り払う時間ももどかしい。興奮のために指先が震えていた。互いの男の象徴は、とうに先走りで濡れている。
 入谷の指が触れて、数瞬音が遠退くほどの快さに脳が支配される。彼の手は何度目でも切なくなるほど気持ち良かった。俺も、自分のよりややほっそりして思える入谷の昂りに指を添わせる。先走りで全体を濡らしつつ、硬く張り詰めたものを親指の腹と掌で挟んで扱く。何かに耐えているように柳眉をひそませる、眼前の表情がたまらなく色っぽかった。
 くちゅくちゅという二重の水音や、互いの荒い息、露出した肌の熱(ほとぼり)、ぎらついた視線が糾(あざな)える縄のように絡み合う。二人とも、次第に高められていくのが分かった。
 どれくらいそうしていただろう、

「……ッ、柾之さん……」
「やば……気持ちいぃ……っ」

 入谷のものが俺の掌の中で、俺のが入谷の掌に包まれて、びくりびくりと痙攣して白濁を吐き出した。その瞬間に、上下感覚が無くなるくらいの快感に襲われる。堪(こら)えきれずに出た猫のような長い嬌声は、どちらのものだったか。
 どちらが先に達したのか分からなかった。いつの間にかお互い肩で大きく息をしている。首を傾けると、自分の腹の上でどろどろに混ざり合った二人ぶんの精液が見えた。言いようもなくエロティックな光景だった。
 入谷は汗ばんだ顔で蠱惑的にほほえむ。

「気持ち良かったですね」
「はい、とても……」
「じゃあ、次はこちらで――いかがですか?」

 相手はボクサーパンツを穿いたまま、俺の股間ですり、と腰を動かした。入谷の目つきも口元も仕草も、俺を強く誘っている。思わずぎょっとした。その意味するところはどう考えてもひとつしかない。

「あの、ちょっと、待っ」
「大丈夫ですよ。柾之さんは寝ているだけで構いませんから。指よりももっと、気持ち良くしてあげられるはずです……」

 達(い)った直後だというのに、入谷の双眸にはぎらぎらした光が宿ったままで、ほとんど舌なめずりまで始めそうな雰囲気だった。このままだと、俺は、食われる。
 ――指であんなに良いのにもっとだなんて、俺はどうにかなってしまうのではないか。
 そんな逸(はや)る好奇心を無理やり打ち消す。興味だけでしていいことじゃない。相手の動きを一旦止(と)めたいのに、竿の部分をまた上下に扱かれ始めると、手に力が入らなくなるのが情けない。

「い、りや、さ」
「ふふ、そんな風に呼ばれると、余計たまらなくなってしまいます。あまり煽らないで下さい」
「違っ……」

 決して嫌なわけでは、ないのだけれど。体に心の準備が追いついていないのだ。理性を置き去りにして、俺の体はまた快楽を貪ろうと準備を始める。

「また硬くなりましたね」

 入谷が確かめるように、とろかすように感嘆を漏らす。ああ、このままでは、本当に――。
 そこで突然。
 二人きりの空気に、無機的な電子音が割って入った。自分の、会社用の携帯の着信音だった。

「ちょ、ちょっと、すみません」

 ソファに横たわったまま、近くにある鞄から手探りで端末を取り出す。画面には同期社員である望月の名前が表示されていた。この時間に電話とは、何かしらの緊急事態の気配がした。
 片手だけで操作して着信を受けると、すぐに望月の性急な声が耳に飛び込んできた。

「橘、今大丈夫か?」
「ああ……何かあった?」
「それがちょっと、急ぎの用件でさ――」

 望月の後ろから、何か大きいものがごうんごうんと音を立てているのが聞こえる。確か彼は今日、納入した薬品を循環させる大型機械の試運転に立ち会っているはずだ。まだ、現場にいるのだろう。作業着姿でヘルメットを被り、潜(ひそ)めた声を通話口に吹き込んでいる望月の姿を想像する。
 彼の説明によると、インターンシップで来ている学生のミスがついさっき発覚したのだという。本日納入するべき薬品の注文を受けたのに発注を忘れており、指導員をしている望月のところに客先から問い合わせが来た。
 該当の薬品自体は、注文の全量ではないにしろ会社に在庫がある。しかし、学生は先ほど定時になった際に帰宅してしまい、インターン生なので今から呼び戻して独りで客先に向かってもらうことはできない。運悪く営業は皆出払っていて、緊急のヘルプとして俺にお鉢が回ってきたわけだ。

「今日中にいくらか持ってきてもらえば何とかなるとは言われてるんだ。悪いけど橘、何とか頼めないか? 俺はあと一時間はこっち離れられなくて」
「分かった、行くよ。まだ客先だから一度会社に戻って、40分くらいで着くと思う」
「すまん、恩に着る! 持っていってほしい薬品名と数量はメールしておくから」
「ああ、よろしく」
「頼むな! ほんとにありがとう」

 電話を切る前、相手はしきりに謝っていた。
 同僚との通話を終了し、ふと目の前の現実に引き戻されると、入谷が静かな目で俺を見下ろしていた。いつの間にか、馬乗りになったまま衣服を整え終えている。
 俺はといえば下半身を曝したまま、腹を白濁で汚したままの、心底間抜けな姿だった。こんな状態で同期と通話していたのかと思うと、恥の感情が今になって湧き上がってくる。

「行かれるのですね」
「そう、なりました。すみません」
「いえ、どうぞ仕事を優先して下さい」

 入谷は淡々と言ってティッシュで俺の下腹部を拭いてくれる。その感触がなんだか名残惜しくて、不覚にもきゅんとしてしまいそうだった。
 入谷の家を辞去する直前、彼は出入口まで見送りに出てくれた。それでは、と会釈する俺を、相手はきゅっと抱き寄せた。触れるだけのキスが唇をかすめて、胸騒ぎのように心臓が跳ねる。

「お気をつけて。またお待ちしています」

 微笑するその顔は、まるで行ってらっしゃいと言っているようだった。
 定時で帰る人々の波に揉まれながら、電車内で今日の訪問を反芻する。
 あれは完全に、完全にセックスをする流れだった。望月からの電話がかかってこなければ、おそらく俺は――あのまま流されて先に進んでいただろう。中断されたのが良かったのか、悪かったのか。あの時の熱の残滓が、車内にこもる熱さに関係なく、まだ体の内部に残っている気がした。
 付き合っているわけでもない、三回しか会ったことのない同性とセックス直前までいったという事実が肩にのしかかる。
 その重さを、嫌だとは感じていない己を、自分でも不思議に思った。
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