午後、二つの客先を回ってから一旦帰社し、必要な持ち物を確認して入谷紫音のオフィスへ向かう。
 彼のオフィスは住宅街の一角にあった。外観は白っぽい箱に似て、それと知らなければ洒落た個人邸宅にも見える。入谷と知り合う前の自分であれば事務所のプレートにも気づかずに見落としていただろう。
 一階部分はガレージ、三階がオフィスで、二階部分は彼の住居になっているらしい。今日は荷物が鞄と手に持てる薬品のケースだけなので電車で来たが、次回からはガレージを使わせてもらう必要がありそうだ。
 夕刻と言えど陽はまだ高く、気温も湿度も衰える気配がない。暑さで吹き出た汗をハンカチで拭う。外階段から三階へ向かい、対応に出てくれた女性に案内されて入谷の城へ足を踏み入れる。空調の効いた空気が頬に心地好かった。外観から想像したより、内部は小ぢんまりして見える。奥に見えるドアが開いて出てきた人影は、果たして入谷紫音その人だった。
 会うのは三回目だというのに、朝露に濡れて咲き初(そ)める花を目にするような、はっとする新鮮な美しさを彼は纏っている。ブラウンのベストとスラックスを身につけているという、それだけの理由だけではないはずだ。
 俺を視界に収め、入谷はほくろのある目元を緩ませた。

「お待ちしておりました、橘さん。こちらはうちの事務員の須藤さんです」
「須藤です」と俺と同年代か、少し上くらいの女性が会釈する。
「あと一人アルバイトの子がいるんですが、今日は早めに帰ってもらっています。このとおり、三人きりの小さなオフィスです」
「そんな、ご謙遜を」

 二十代で自分のオフィスを構えているのはどう考えても成功者だ。苦笑してしまうが、入谷が言うと嫌味に聞こえないのが不思議である。それに、自分より遥かに成功している同世代を羨ましいと思う地平など、とうに通り過ぎてもいる。
 その後アンティーク風の衝立(ついたて)で区切られた、革張りのソファが設(しつら)えられた場所に通された。商談スペースなのだろう。さっそく、入谷に指定された薬品を取り出す。数種類の液体のボトルがひとまとめになったものだが、俺は内容物についてあまり理解していなかった。

「ご希望のものはこちらでよろしいでしょうか」
「ええ、これです」相手はボトルのひとつを手に取り、嬉しそうにラベルを見やる。俺はどうしても、ひとつの懸念を口にせずにはいられなかった。
「不躾な言い方になってしまいますが、こちらを弊社から納入する必要性をお聞かせ願えませんか。個人事業主の方でも注文には支障がないはずです。弊社としては問題ありませんが、入谷さんにとっては二度手間なのでは……」
「必要性? それは自明だと思いますが」

 若き写真家はほんのりと笑う。そう言われても困惑するばかりだ。押し黙る俺を見かねたか、入谷は声をひそめて囁いた。

「あなたの会社に頼めば、必ずやあなたが担当者になる。僕はあなたに定期的にお会いできる。理由ならそれで十分でしょう」
「会える……って」まるで彼が俺に会いたがっているような言い方だ。会ってどうするというのか。顔がちりちりと熱くなる。
「変な意味ではありませんよ。僕の写真について、少し意見を頂けたら嬉しいなと思っているのです。もちろん、橘さんが良ければ、ですが」
「相談役ということですか? 私に……その役が務まりますか?」

 余計困惑が深まり、入谷の深々とした色の瞳を見返す。自分は芸術のセンスもなければ写真の技術も分からない。相談に乗れと言うなら断る理由もないが、入谷のために何かできるとは思えなかった。
 目の前にある顔が、にいと笑みを深くする。

「僕の写真を見てあんな風になる方ですよ。他に適任がいますか?」
「……っ」

 今度は全身がじわっと火照った。会話が須藤さんに聞こえているのではないか、と衝立の向こうを窺ってしまう。
 同時に、脳の冷静な部分が告げてくる。俺は、お誂(あつら)え向きだというわけだ。薬品の卸の営業で、変態性という弱みがあり、勢いに流されやすい性格でもある。利用価値は文句なしだ。入谷が「好きだ」と言ったのも、もしかしたらその価値を見込んでのことかもしれない。それでも、俺の仕事は変わらないが。

「……入谷さんのご希望であれば、ご相談もお受けします。私で宜しければ」
「僕はあなたがいいんです」

 聞きようによっては熱烈な台詞を、入谷は涼しい顔で口にする。このままでは雰囲気に呑まれっぱなしだ。おほん、と俺は咳払いをする。

「以前、新しいチャレンジ、と仰っていましたよね。本日お持ちしたものが関係しているのでしょうか」
「覚えていて下さったんですね。そうですよ」入谷は口元をほころばせる。
「橘さんがご覧になった写真はすべてモノクロでしたでしょう? 注文した試薬はカラープリントの現像に使うものでしてね。カラー写真にもチャレンジしようかと思案していたところ、頃合いよくあなたに出会ったわけです」
「カラープリントの現像、ですか」

 説明してもらってもあまりぴんと来なかった。俺にとって写真とはスマートフォンで撮ったり、せいぜいがデジカメで撮ってプリンタで印刷したりするものでしかなく、それ以上の想像がうまくできない。現像と聞くと、暗い部屋で某(なにがし)かの作業をするイメージがあるが、それがどこまで正しいのか。
 入谷は小さく頷くと、おもむろに立ち上がった。

「一度実際の作業場を見てもらった方が分かりやすいかもしれませんね。良かったら説明させて下さい。こちらへどうぞ」

 入谷が導いていく先はさっき彼が出てきた部屋で、そのドアを開けながら彼は「現象室です」と言い添えた。
 扉をくぐるとすぐ暗幕が垂らしてあり、区切られた空間は六畳ほどの薄暗い部屋だった。テーブルの上に見たことのない器具が並べられている。酢のような匂いがつんと鼻腔を突く。
 それらよりずっと印象的なのは照明であろう。室内の様子をぼんやりと浮かび上がらせる弱い光源は、そのいずれもが暗い赤い色をしていた。様々な機械や道具を朧気に照らすそれが、自分にはいかがわしい雰囲気に感じられ、落ち着かずそわそわしてしまう。
 ドアと暗幕が閉められた。ここには、俺と入谷しかいない。
 相手が説明を始める。まるで洞窟内で話しているみたいに、その響きはどこか非現実的だった。

「現像作業をするとき、モノクロプリントではこのように赤い光の下(もと)で行います。ですが、カラープリントではほとんど暗黒状態にして作業を進める必要があるのです。カラーの現像が難しい要因はいくつかあるのですが、それも理由のひとつですね」
「なるほど……」
「ちょっとライトを消してみますね」

 入谷がいくつかあるライトを操作していくと、室内はやがて完全な闇に包まれた。誇張ではなく本当に何も見えない。目が慣れてきても見えてくるものはなく、距離感が消失したように感じた。
 不意に、現像室が何倍にも拡張したかのような、同時に部屋の壁がすぐそこまで迫っているような妙な感覚に陥り、急速に不安が募ってくる。それは初めて味わう知覚状態だった。

「あの、入谷さ……」
「いかがです。僕がどこにいるのか、お分かりですか」

 声はすぐ傍から聞こえる。吐息混じりの艶やかな声が。
 一秒ごとに緊張を増す体が、入谷の気配を、息遣いを、体温までをも敏感に感じとる。きっと彼は暗闇の中でこちらをじっと見つめている。そこまで伝わってくると思うのは――俺の錯覚だろうか。
 写真家は含み笑いを漏らしたようだった。

「暗闇だと、視覚以外の感覚が鋭敏になりますよね」

 そう言ったが早いか。
 入谷の手が正確に俺の左手を捕らえた。突然の物理的接触に、全身がびくりと反応してしまう。ひんやりした、そして吸い付くような彼の指が、掌に生き物めいた動きで絡みついた。俺の指の間(あいだ)をくすぐり、弄んだ細く長い五指はやがて、つつつ、と手首を辿ってもっと上へと伝いのぼっていく。
 アルコールを飲んだときのように、体の内部がかっと熱くなっていた。反対に、肌の表面は敏感に刺激を感じとり、ぞわぞわと粟立ってしまっている。自分の方が年上なのに、これでは翻弄されるばかりだ。
 なんだか良い匂いがして、くらくらする。――香水だろうか。
 これ以上はまずい、暗幕とドアの向こうに人がいるのに、どうにかなってしまう。入谷の手を振り払う決心をした俺をからかうように、腕を這っていた指は離れていった。
 ふっと息をついたのと、赤色ライトが灯されたのがほぼ同時だった。先刻よりも妖しさを増して感じられる光に照らされながら、入谷は妖艶とも言える微笑を浮かべていた。

「おや橘さん、いかがされました。少々お顔が赤いのでは?」
「……きっと、ライトのせいですよ」

 意地の悪い質問に返すその台詞は、相手には負け惜しみめいて聞こえたに違いない。


 脱力感を覚えながら、応接スペースに戻る。須藤さんが持ってきたのだろう、席にアイスコーヒーが置いてあった。
 ソファに腰を下ろすと、暗闇での出来事など嘘だったみたいに、入谷が平然と「いかがでしたか。現像室は」と尋ねてきた。まるで映画の感想を訊くような、気軽な調子で。
 俺も頭を切り換えよう。動揺を見せたら何かに負ける気がする。何にかは分からないが。

「そうですね、不安なような、安心するような……何とも言えない感覚でした」
「分かります。自分も考え事をするとき、現像室にこもることがあります。身体感覚がなくなって、思考が宙に浮いているような気持ちになるのです」

 俺の感想を受け、入谷は教師のような顔で頷く。
 しかし俺が抱いた感情は、そんな穏やかなものだけではないのだ。

「暗闇とは、不思議なものですね。……しかし、現像室で伺ったことは、一般常識なのでしょうか」
「というと?」
「写真の知識も現像室も、自分にとっては初めて耳にして体験するものでした。それでなんだか――急に不安になったんです。自分がとても無知に思えて」

 座ったままで膝をぐっと握りしめる。自分の口調は、客先の責任者に対するものではもうなくなっていた。
 自分は、人並みに常識は持っていると思っていた。ところが入谷と共にいると、あらゆる物事が新鮮に感じられて、己の空洞の大きさを知らされる思いがする。しかも、31年間その虚(うろ)の存在に薄々気づきながら、それでもいいかと放置して生きてきたのだ。口にはとても出せないが、羞恥すら感じるほどだった。
 青年写真家は表情を変えず、思案げに小首を傾げる。前髪が一房、はらりと額(ひたい)に落ちる。

「一般常識かどうかは……僕には分かりかねます。けれど世間的には、現像室に入った経験がない人の方が多いのではないでしょうか。それにあなたは不安と仰いますが、僕は知らないのが悪いこととは思いません。知らないと自覚したなら、その時点から知っていけばいい。器を知識で満たすのはいつからでもできますから」

 そう言って入谷はこちらを安心させるようにほほえむ。彼の言葉は岩に染みこむ雨水のように、俺の心にすっと入りこんだ。
 この青年は、何者なのだろう。まるで俺の言外の気持ちが分かっているかのようだ。
 もっと、彼の本質に迫ってみたい。もっと入谷紫音という人間を知りたい。昼に読んだプロフィールのように、無味乾燥なものではなく。それは初めての感情だった。
 コーヒーで唇を潤してから入谷が真顔に戻る。

「偉そうに言ってしまいましたが、僕もそんなにたくさんのことを知っているわけではありません。 小さい頃から、写真だけだったもので」
「ああ、入谷さんのホームページでプロフィールを拝見しました。そんなに昔からなんですか」
「ええ。きっかけは小学生になる前だったと思います。僕が写真に興味があると知ると、父がいきなり高価なカメラを僕に買い与えましてね。子供にはあまりに不相応なカメラを」
「お父様が……」
「彼は画家なので、息子が芸術方面の分野に興味を抱くのが嬉しかったのかもしれません。そこからはもう、一本道です」

 ほほえましいエピソードが披露されたというのに、俺は少々困惑していた。語られた内容とは裏腹に、入谷の声は真冬の厳しい風くらい冷えきっていたからだ。俺への慈雨に似た温かい励ましとは正反対の、その冷ややかさ。
 父親と何か確執があるのかもしれない。
 ほのかな予感はあったが、その場では上手い返しを考えることもできず、そのまま流れで事務的な打ち合わせへと移行した。
 今後納入する薬品の数量・納品のスケジュールのすり合わせと確認を行い、納品書にサインを貰う。これで今日の必須業務は完了である。ちらりと時計を確認すると、まだ定時にはなっていなかった。

「これから少しお時間ありますか? 良かったら、僕の自宅にもいらっしゃいませんか」

 俺の心理を読んだかのような誘いが降ってくる。直帰の予定にしていた俺に、断る理由もなかった。
 入谷が住んでいる二階の住居部分へは、オフィス内部から続く階段で降りることができた。二階へのルートは、この三階からの下り階段と、ガレージの奥からの登り階段とのふたつあるらしい。
 入谷からの誘いに軽く乗ったものの、彼が普段寝起きしている空間に入るというのは、パーソナルスペースに踏み入る行為だと遅れて気づく。当然、入谷だって常に写真家として生きているわけではない。人間なのだから風呂にだって入るし、寝間着に着替えて睡眠だってとる。オフィスと違い、そこには少なくともいくらかの生活感が漂っているだろう。
 そう自覚し始めるとどうにも変な緊張感が拭えない。生唾を飲みこみながら、通されたリビングのソファに腰かける。

「少々お待ち下さい。美味しい栗羊羹をお持ちしますので」
「あ、お構いなく……」

 俺の断りに構わず、入谷はリビングを出ていった。
 それにしても、栗羊羹とは渋い。やはり彼の趣味なのだろうか。
 待つあいだに、部屋を見渡してみる。壁紙は淡いグレーで、八畳ほどのゆったりしたリビングだ。入谷のイメージ通り、部屋中小綺麗に片付けられている。置かれているソファや棚やテーブル類は見るからに質のいいものだし、窓際にいくつか置いてある観葉植物はきちんと手入れされているのが分かる。
 しかし最も目につくのはやはり、壁にたくさん飾られている写真だろう。それが入谷のものではないことが俺にはすぐ分かる。画面全体の雰囲気や被写体の選択も判断材料だが、何より自分がじっと見つめていても体に変化がないからだ。我ながらその判別方法はどうかと思うが……。
 彼はいつもこの部屋でどう過ごしているのだろう。コンポで好きな音楽を聞いたり、テレビで衛星放送を観たり、ソファに身を横たえてうたた寝したり、植物に優しく水を遣り、満足げな表情をしたりすることもあるだろうか。その横顔はきっと、どんな瞬間でも美しいのだろう。
 そこまでぼんやり考えて、いかんいかんこれでは妄想じゃないか、とはっとする。初めて彼女の部屋に来た男子学生じゃないんだから。俺と入谷は、あくまで仕事上の付き合い。それを忘れてはならない。
 入谷が栗羊羹と、水出しだという緑茶を持ってきて、勧められるままにそれを口にする。そういえば前にもこんなことがあったっけ。あれは、最初にギャラリーで出会った日のことだった。入谷にされた(または、してもらった)ことを芋蔓式にずるずると連想してしまい、無理やり思考を断ち切る。
 緑茶を上品に飲みながら、入谷がふと口元を笑ませた。

「橘さん、オフィスではとても他人行儀でしたね。ご自身のことを"私"なんて仰って……少し面白かったですよ」
「それは……他にどうしようもないじゃないですか。他に人もいるのに……」
「あんなことをした仲なのに、今さら?」相手はくつくつと笑う。「それに須藤さんなら、僕の嗜好を理解してくれていますので大丈夫です。彼女は口が堅い人ですよ」

 全然大丈夫じゃない。嗜好って何をどこまでですか、とは恐ろしくて訊けなかった。
 話題を変えたくて、目だけで周りを見る。やはりここは、写真の話題がいいだろう。

「そういえば、この部屋には入谷さんの写真は飾ってないみたいですね」
「ええ。僕はまだ、自宅に自分の作品を飾るほどナルシストにはなれませんから。ここにあるのは尊敬する写真家の作品です」
「へえ……以前ギャラリーで見ましたけど、写真って10万円くらいなんですよね」
「――高いと思われますか」

 すっと目を細める入谷。その声に険が滲んでいて、慌てて言い添える。

「ああいや……むしろ逆で、一般の人でも手が届くくらいの値段なんだなと思いまして。俺も入谷さんの写真、何か買おうかな」
「ふむ。それを毎晩オカズになさるおつもりで?」

 真顔で繰り出されたそれに、危うくお茶を吹き出しそうになる。俺はキャッチボールをしていたつもりだったのに、ものすごい勢いでボールを打ち返された気分だった。あまりのことに、含んだお茶を飲み下すまで何秒か間(ま)が生まれる。

「……っち、違いますよ! そういうことじゃなくてですね」
「ふふ、冗談です。まあ、僕としてはそうして下さってもいいのですが」表情をやわらげて写真家は言う。少し怒ってみせたのも、どうやら演技だったらしい。「最初から写真の値段を好意的に捉えて下さる方は少ないので、嬉しかったですよ」
「ああ、そうなんですか……」

 順調な芸術家人生を歩んでいるように思える入谷だが、彼にも思うところはいくつもあるのだろう。

「写真なんていくらでも複製できるのだから、何万円も対価を求めるのはおかしい、と露骨に口にする人もいますから。現像はけっこう手間がかかるのですけどね。条件によって、同じフィルムを使っても人それぞれ個性が出ますし。カメラも、フィルムも、現像液も、撮影場所への移動費も、もちろん写真の技術だってただじゃない」

 淡々と続けられる言葉に、俺は口を挟めない。それらは決して言い訳がましいものではなく、自分の作品に対する矜持と誇りが伝わってくるものだった。俺は仕事にそのような感情を抱いたことはない。給料や生活のためだけとも言わないが、少なくとも愛と呼べる思い入れは一切ない。
 入谷は写真を愛し、また写真に愛されているのだろう。生きて見ている世界が違う。そんな風に感じた。
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