大きなベッド、真っ白いシーツ。その上に、シャツをはだけさせた青年が横たわっている。入谷紫音(いりやしおん)だ――彼の眉からは力が抜け、双眸はとろんと蕩けており、視線だけがいやに熱っぽくこちらに注がれていた。ベッドの端から先は塗り込めたような暗がりに沈んでいて、ここがどこなのか考える余地もない。
 けれど、そんなことはどうだっていい。今俺が感じるべきなのは、こちらを誘うような、心をざわつかせる彼の眼差しだけだ。
 闇夜に燃える火に飛び込む蛾のごとく、彼の白い肌に強烈に惹きつけられた。彼の承諾を待たず、性急にほっそりした脚を抱え上げる。掌にひやりとした感覚が広がるのは、相手の肌が冷えているからか、俺の手が熱を持っているからか。入谷の顔以外の肌の部分――体や脚など――をよく見ようとするのだけれど、なんだかぼやけていてはっきりしないのがもどかしい。
 柾之(まさゆき)さん、と相手が俺の名を呼ぶ。吐息混じりの、聞いたこともない甘い声。そのねだるような響きに煽られ、男にしては細い腰を鷲掴みにする。彼の体で一番無防備な部分へ、無我夢中で腰を進めると、敏感になった切っ先が熱くて狭いところに迎えられた。
 自分の呼吸が荒い。なんて気持ちがいいんだろう。欲望のままにずんと奥まで突くと、下にある体が耐えきれないと言わんばかり身を悶えさせ、握りしめた拳によってシーツに襞(ひだ)ができる。

「んん、おっきい……」

 薄い唇から吐息混じりに漏れる切なげな呟き。それから何分と持たず、俺は堪(こら)えられずに青年の中で達した。


 カーテンの隙間から陽の光が射し込んでいる。暴力的なまでの明るさだった。
 今の光景と感覚はもちろん全部、夢だ。俺は彼の肌を見たことがないし、だからこそ服の奥の像がぼやけていたのだろうし、あんな甘い声も聞いたことがない。夢の中でもうっすら気づいていたことだ。なんという不埒な夢を見ているんだ、俺は。どろりとした自己嫌悪が心臓の周りにまとわりつく。
 身を起こそうとしたところで、下半身の違和感に気づいた。それは身に染みついた、慣れ親しんだと言ってもよい感覚だ。確認しなくたって分かる。

「嘘だろ……この歳で夢精するのかよ……」

 頭を抱えるとはこのことだ。久しく忘れていた下着の不快感に、思わずため息が出た。二回しか会ったことのない、名前くらいしか知らない青年とセックスする夢を見て、思春期のように夢精までする。本当にどうかしてる。
 入谷と知り合う前の自分に言って聞かせたら、鼻で笑われることだろう。冗談きついよ、お前はそんな人間じゃない、って。
 鬱々としたままスマホを見る。平日の起床時刻とほぼ同じ、朝7時過ぎ。土曜なのであと1時間ほど寝ておきたいが、下着がこんな状態では二度寝するわけにもいかない。
 着替えるためにベッドから抜け出て、そのまま朝食を摂ることにした。
 朝のメニューは平日も休日も基本変えることがない。バタートースト2枚に、メーカーで淹れたコーヒー、ヨーグルト、バナナ1本。手がかからなくて済む、何年も食べ続けている朝食のメニューだ。飽きないのかと問われることもあるが、毎朝同じものを体に入れると生活リズムが整う気がするし、一人で食べるなら慣れていて手軽なものが一番だ。
 テレビをBGM代わりに眺めつつ、特に何を思うでもなく食事を終える。腹が満たされて歯磨きを済ませると、後ろめたい気分は和らぎ、代わりに思考に浮上してくるのは入谷の幻の肢体だった。夢とどこかで自覚しながらも、俺は自分の意思で彼を抱いた。それって、つまり――。
 ごくりと生唾を飲みながら、寝室のドアにちらと視線をやる。今二度寝したらもしかすると、あの続きが見られるのではないか?
 それにほら、コーヒーを飲んでから仮眠をとるのは良いと聞くし……と自分に言い訳をしながら、俺はまたいそいそとベッドに潜り込んだ。
 結果として、それは失策だった。


 油絵の具を何重にも重ねたような、粘(ねば)ついた暗闇が広がっている。
 闇の中、呆然と突っ立っている自分の姿を、俺はやや上方から別の視点で眺めている。己の分身の前には二人の女性が憤然とした様子で仁王立ちしていて、誰かがスポットライトを当てているかのように、三人の全身はぼんやりと明るかった。女性たちは俺に向かって次々と言葉を放り投げている。投げつけているといった方が正しいか。非難、疑問、悲しみ、怒り、やるせなさといった強い負の感情が甲高い声に滲んでいて、傍観しているこちらの頭の中にも、ぐわんぐわんと反響するようだった。
 不意に気づく。彼女たちは自分の元カノだ、と。高校時代にひとり、大学時代から社会人になるあいだにひとり、それなりに長く付き合っていた元恋人たち。二人が揃って眦(まなじり)を吊り上げ、棒立ちの分身に詰め寄る。

「ねえ、私たち付き合ってるんだよね?」
「だったらどうしてこんな別々に過ごしてるの?」
「恋人だったら普通もっと一緒にいない?」
「柾之くんは私のこと大事にしてくれないよね」
「特別じゃないんでしょ」
「あなたが何を考えてるのか、全然分からない」
「本当に好きなの、私のこと」
「柾之くんのこと、信じられないんだって」
「普通は」「どうして」「普通だったら」「なんで」「普通なら」「いつもそう」
「あなたの人生に、私は必要ないみたいだから」
「さよなら」「さよなら」

 二人は矢継ぎ早に言葉をぶつけて去っていく。まるで機関銃で撃たれたかのように感じられた。全て、聞き覚えのある台詞。交際相手さえ特別扱いできない男に業を煮やして、俺の元から去っていった彼女たち。
 眼下の俺は何も答えない。
 忘れたふりをしていた。そうだ、俺は――。


 30分前に設定しておいたアラームが鳴っている。
 全身に、じっとりとした脂汗をかいていた。彼女のことなんて、久しぶりに思い出した。どうして、こんなタイミングで。
 いや、本当は分かっているのだ。入谷紫音の一件があったからに違いなく、彼女らは釘を刺しに夢の中に現れたのかもしれない。お前は――俺は、特定の誰かを特別に大事にすることができない人間なのだ、と。
 今まで、請われるままに交際してきたけれど、恋人という存在が最後までよく理解できなかった。愛情はあったと思う。しかし、相手との如何(いかん)ともしがたい愛情の量の差が、結局は破局を招いた。親きょうだいに対しても、結局は他人だという気持ちを小さい頃から持っていたから、つまるところ俺は冷たい人間なのだと思う。
 だから。だからこそ。
 入谷紫音に対して湧き出るこの気持ちは何だ。文字通り寝ても覚めても彼のことを考えてしまう、この感情が一体何物なのか、俺は齢31にして戸惑っている。
 昔の嫌な思い出が頭の中をぐるぐると廻り続けている。昼前から出かけるつもりだったのに、完全に気力が萎えてしまっていた。
 今日はもう、自堕落に過ごそう。投げやり気味に決意する。どうせ、自分の裁量で何とでもなる予定しか入れていない。冷房の効いた部屋でソファに寝そべりながら、毒にも薬にもならないテレビ番組を観たり、クラゲが餌を食べるところをぼんやり眺めたりしながら、土曜日は極めて怠惰な時間を過ごした。


 入谷の仕事場に行く期日が巡ってきた。
 彼が構える個人オフィスには、午後から向かう予定である。俺の中には軽い緊張と幾ばくかの高揚感があった。昼休みに入り、ネクタイを少しだけ緩める。
 二回目のギャラリーでの接触のあと、彼からメールで送られてきた指定の薬品は聞いたことのない製品だった。写真の現像に使うという説明以上のものはなく、芸術方面に疎い俺が耳にしたことがないのも当然ではあった。うちの会社で扱える薬品のリストに入ってはいるものの、納入実績はゼロ。平穏な日常をわずかに乱すくらいの波は立つな、と思った。
 彼のオフィスを客先にすることは事前に課長の承認を得ているが、見積書を上司に提出した際、懸念通り一悶着(と言うほどでもないが)あったことを思い出す。
 担当客先の中でもかなり小口の部類。主な取引先である大学の研究室や、分析会社とはまるで異なる新規の客先。扱ったことのない商品。大歓迎されるわけもない。営業一課の課長のデスクに直接呼ばれたときにも、やっぱりな、としか思わなかった。用件なら予想できていたからだ。
 課長は不機嫌でも当惑しているわけでもなく、ただ純粋に見積書に疑問を抱いているようだった。

「新規客先の見積書の件でしょうか」何か言われる前に自分から切り出す。
「ああ、呼ばれた理由が分かってるなら話が早いな。聞いたことない薬品名だったけど、何に使う薬品かな、これ?」
「写真の現像に使う液をセットにしたものです。課長が仰る通り、過去に販売実績はありません」
「写真? 写真ねえ……これ、うちから納入する必要性はあるのかな」

 課長はPCの画面を見つめている。そこに俺が提出した見積書が表示されているのだろう。入谷が指定してきた薬品は別に個人でも購入はできる。自意識過剰かもしれないが、フロアの近くにいる社員たちが聞き耳を立てている気配がした。知らず、手汗が滲む拳を握りしめる。

「その点は先方のご希望ですので、採算が合えば問題はないかと思われます。今回の納品数は少ないですが、今後数量は増えていく予定です。継続しての契約も見込めます」
「ふむ」
「今回の客先にとどまらず、いずれ印刷物を扱う他の客先へと、これをきっかけに販路を拡大していくこともできるかと」

 後半は思ってもいない希望的観測だ。ぎりぎり、虚言にはならない程度の。課長は俺に視線を戻して表情をやわらげる。

「まあ、毎月の売上ノルマはいつも達成してくれているからね。何か問題があるわけではないし。じゃあ、このまま進めて下さい」
「ありがとうございます」

 努めて冷静に頭を下げたが、心の中では大きくガッツポーズをしていた。
 そんなこともあって、無事に薬品が手元に届き、この日を迎えられたことに俺はひとまず安堵していた。
 オフィスの皆が社食を食べに引き払ったタイミングを見計らい、グループ企業用のメーラーを立ち上げる。入谷から貰ったメールを開き、そこに記されていたホームページのURLをクリックした。小綺麗に整えられたトップページが現れる。
 そこには当然と言うべきか、彼が撮った写真があしらわれていた。仕事場で息を乱すわけにはいかないので、それらをあまり見ないようにしながら目的のリンクを探す。自分が今見たいのは入谷のプロフィールだった。
 俺は、入谷紫音についてほとんど何も知らない。二度もあんなことをしたにもかかわらず、だ。
 目的のリンクの先には、彼が辿ってきた足跡が簡潔に列挙されている。どこにも顔写真はない。あれだけ綺麗な顔ならメディアが放っておかないのに、と思ったところでその浅はかな考えを打ち消す。だからこそ、入谷は顔を公開していないのだろう。写真家より作品に目を向けてほしい。そんな無言のメッセージが、ページのそこここから聞こえてくるではないか。
 入谷のプロフィールを頭に入れておく。生まれ年(自分より二学年下だ)、出身地、経歴。幼少の頃からカメラに親しみ、俺でも知っている有名な美大を卒業後、ヨーロッパでの大きなコンテストで受賞、逆輸入的に日本でも知名度が上がりつつあるようだ。名の通った写真家のアシスタントを経て、個人オフィスを立ち上げたのが二年前。絵に描いたような順風満帆の人生である。
 そんなにすごい人だったのか……と圧倒され、感慨深くコンビニで買った弁当の容器に手を伸ばしたとき。

「いりやしおん」
「うわっ」

 すぐ後ろから声がして、てっきり無人だと思いこんでいた俺は椅子の上で数センチ飛び上がる。反射的に振り返ると、後輩の常葉(ときわ)がいつの間にか背後に立っていた。長身を屈(かが)めて俺の肩越しにPC画面を覗きこんでいる。かなりの顔の近さに胆(きも)が冷えた。

「びっくりしたなあ……どうかした?」
「橘さんこそ、昼休みに写真家なんて調べてどうしたんですか」

 芸術なんて興味ない人なのに、という言外の台詞が聞こえるのは被害妄想が過ぎるだろうか。背筋を伸ばした常葉は無表情でこちらを見下ろしている。いつものことだが、感情がまるで読めない。

「ああ、今日これから仕事で会うんだよ。新しい客先の人で」
「ふうん。そんなに美人なんですか」

 淡々と尋ねてくる声に、思わずえっと返してしまう。なぜ常葉が、美人かなんて訊くんだ? 入谷の繊細な顔立ちが脳裏を過(よぎ)って、動揺に心臓が落ち着きをなくす。
 美人かと問われたら、確かに彼は美人だ。
 そこに立つ後輩は、見間違えでなければ少しだけばつが悪そうな顔をした。

「いや、橘さんが楽しみそうな顔してたんで、よほどの人なのかと思って」
「あー……まあ」

 非常に居心地が悪い。そんなに顔に出ていたのか? そもそも、俺は入谷に会うのが楽しみなのだろうか。分からない。心をなんとか平静に保ち、誤魔化し笑いを常葉に向ける。

「いや、そうかも……しれない、かな」

 煮え切らない返事に、ふうん、と気のない相槌を打った後輩は、それきり入谷への興味を失ったようだった。表情を一ミリも変えないまま、片手に提げていたコンビニの袋を胸のあたりに掲げる。

「ところで、橘さんも弁当なら一緒に食べません?」

 後輩の誘いに否やはない。
 無人のミーティングルームに連れ立って歩く道すがら、常葉と雑談を交わす。自分より背の高い後輩と並びながら、俺も普段の調子を取り戻していた。

「社食でも外で食べるのでもないなんて珍しいね。今日は何かあったの?」
「あー俺、週に一度は社内で一人で食ってんスよ。騒がしいのがどうにも苦手なんで」

 そうなのか、知らなかった。理由が彼らしくて、思わずほほえんでしまう。
 会社内で昼食を二人きりで食べるなんて不思議な気分だった。ハンバーグ定食風の弁当と、お湯を注ぐタイプのスープを長机に並べている俺に対し、常葉が袋から取り出したのはサンドイッチと、おにぎり二個、スポーツドリンク。若者の昼食としては心許ない要素が多く、少々心配になってくるラインナップだった。
 プライベートに立ち入るようだけど、と断ってから、

「常葉くん、普段からちゃんと食べてる? ちょっと栄養バランスが気になって」
「大丈夫スよ。けっこうそういうのは気にしてますから」
「ああ、そうなの?」
「ええ。こう見えて俺、家で飲んでるのは大概野菜ジュースなんで」

 それだけだと駄目なんじゃ? と咄嗟には返せなかった。真顔で繰り出されたそれが冗談なのかどうか、一瞬迷ったからだ。
 しかし――もつもつとサンドイッチを咀嚼し終え、おにぎりの包装を剥こうとする彼の動向を見るに、どうも真面目な発言だったらしい。
 クールで効率のよい生活を送っていそうな常葉の意外な言動に、俺は笑うこともできなかった。せめて今度、野菜食べ放題のしゃぶしゃぶにでも連れていってあげようと心に決めた。
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