異常と言うほかにない。こんな状況は、異常だ。
 椅子に腰かけた自分は、スラックスと下着を腿の中ほどまで下ろされ、他人に見せてはいけないところを剥き出しにしている。写真家の青年は俺の膝に跨がるような格好になっていた。入谷は間近で見ても変わらず美しかったが、至近距離で顔を見合わせることに恥じらいと戸惑いを隠せず、視線は斜め下方に逃がしている。股にぐりぐりと硬いものが当たって、ああ彼も起っているんだ、こんなに綺麗な人でも勃起するんだな、と頭の片隅でそんな由無し言を思った。
 既に先走りでたっぷり濡れていた俺のそれは、入谷が指の腹で扱くと、粘着質の水音を立て始めた。過重に耐えかねた椅子がそれに合わせてギッギッと擦れ、塞ぐことのできない耳を犯してくる。入谷の指は細く華奢な印象だが、それでも女性の手とは全然違っていた。指の節が刺激になって、快感が奥からどんどん引き出されていく。
 こんなことは駄目だ。こんなの、許されるはずがない。断って、拒んで、さっさと帰宅すべきだったのだ。分かっているのに、それでも本能の深いところが入谷を求めてしまう。何かに衝き動かされているように、彼の指に合わせて腰が勝手に揺れてしまう。
 橘さん、と出し抜けに名を呼ばれ、顔を上げると真剣な目が俺を見返した。

「つかぬことをお伺いしますが、橘さんはご結婚されていますか」
「え……いえ」

 問われるままに答えを返す。どうして今そんなことを訊くんだ、と尋ねる余裕もない。入谷はさらに問いを重ね、

「それでは、現在お付き合いしている方はいますか」
「いえ、いませんが……」

 あっと思う間もなく、性急なほどのスピードで華奢な指が伸びてくる。下から顎を捕らえられ、だらしなく半開きになっていた口が、入谷のそれで塞がれる。

「ん……っ」

 柔らかい唇だった。男も女もあまり変わらないものなんだな、と思考の一部が妙に冷静に分析する。キスするから事前に恋人の有無を確認したのか。律儀なのか大胆なのか分からない人だ。
 キスは触れるだけでは終わらない。下唇をつつく舌先に促されて口の力を抜くと、熱い舌がぬるりとこちらに入ってきた。快と不快が奇妙に混じった感覚がぞわりと背骨を伝い昇る。
 キス自体久しぶりで刺激が強かった。歯列を撫でられて背中が粟立ち、唇を柔らかく食まれて脳が溶けるような快さを感じる。かと思えば、ぴちゃぴちゃと音を立てて、ねっとりと舌同士が絡む。年下であろう青年の上手さに若干おののきながら、負けじとキスに応えていると、息もつかせぬようなテクニックの応酬に目の前がくらくらしてきた。
 その間も入谷の手は止むことがなく、こちらのいいところを的確に攻めてくる。上も下もどろどろにされていた。物理的にも、精神的にも。
 頭が霞がかってきたところで入谷の唇が離れ、焦点が合わないほどの距離で見つめ合う。入谷の怜悧な頬もほんのり紅潮していて、艶やかな瞳の表面に、俺の顔が映っていた。
 橘さん、と吐息混じりに呼ばれれば、腹の奥がずくりと脈打つ。

「あなたのこと、もっと知りたいです」
「なん、で」
「好きだから」

 好きって、なんだ。その真意を問う前に、入谷は俺の首筋に吸いついてきた。ちゅ、ちゅ、と啄むように口づけを落とされる。それが何とも愛おしげな様子で、まるで恋人にするものみたいで混乱が余計深まってしまう。それでも体は正直で、彼が触れたところから熱が広がっていくように思われた。
 考えを巡らす余裕など俺にあるはずもない。ただただ快感を享受させられ、それが体内にとぷとぷと満ちていって、早く放たないと頭も体もぐずぐずに崩れてしまいそう。
 やがて、体の芯の方から何かがせり上がってくる感覚があり、体の輪郭が溶けそうなくらい、いよいよ悦楽がのぼりつめていく。

「ぁ、もう……っ」
「出していいですよ」

 言葉尻を待たず、俺は入谷の掌に盛大に白濁を散らした。椅子の上で仰け反り、背骨が背もたれに強く押しつけられ、足先までがびくんびくんと大きく震える。射精する瞬間が信じられないほど気持ちよくて、手で口を覆って声と吐息をなんとか抑えた。
 赤熱していた快感の波が、一転して急速に引いていく。脱力する身体とは裏腹に、脳は目覚めるように冷静さを取り戻し、今度は後ろめたさに溺れそうになる。
「たくさん出ましたね」と掌を見下ろしながら言う入谷の声は淡々としていた。まるで実験結果を確かめる科学者のような口ぶりだ。
 ティッシュで手を拭う入谷を眺めながら、俺はまた逃げ出したい衝動に駆られていた。ああ、またやってしまった、という自責の気持ち。年甲斐もなく流されてしまった、という気恥ずかしさ。胸の内側がずっしりと重たくなり、後悔に苛まれる。
 入谷が俺の股間をも拭き取ろうとするので、さすがに固辞して萎えた自分自身を拭う。その間も、青年は透徹した瞳で俺を見下ろしていた。三十路を過ぎた男のへたったモノなど、見ていて愉快な気分にはならないと思うのだが。誰かに見られながら後処理をすることほど惨めなものはなかった。
 その後、尻尾を丸めた犬のように帰り支度に取りかかろうとするも、「少しお話ししていきませんか。色々訊きたいことがおありかと思いますので」という入谷の声に引き留められる。
 話? 一体何を話そうというのだろう。この空気で顔を合わせる自体気まずくないのか。俺は非常に気まずい。
 入谷はこちらの困惑にも頓着せずに、てきぱきとカップとポットの用意をし始めた。さっきまで濃厚すぎるキスをしていたのが嘘だったみたいに。

「今お茶を淹れますね。お茶請けがないので、申し訳ないですが橘さんがお持ちになったものを開けさせて頂きます」
「はい……何でも……」

 まだぼんやりとしたまま、青年の様子を窺う。
 和洋折衷らしい、取っ手のない二脚のカップに注がれたのは焙じ茶だった。香ばしい匂いが鼻腔を優しくくすぐる。もしかしたら彼は意外に渋い趣味なのかもしれない。俺が持参した甘くない塩味のクッキーと相まって休憩時間のような雰囲気になり、いくらか場が和やかになる。
 お茶に口をつけ、互いに人心地ついた頃、誘ったくせに何も言葉を発しない入谷に痺れを切らし、こちらから話を切り出した。

「あの……好きって、言いましたよね」
「申し上げました」
「あれって、どういう意味ですか」
「どういう、と言われましても」

 入谷が持ち上げていたカップを下ろす。ことり、という音がいやに大きく響いた。

「そのままの意味です」
「いや、だって……初めて会ったのが二日前ですよ、俺たち。顔を合わせるのも二回目だし」
「好意に時間や回数は関係ありません。一目見て、あなたのことを好みだと思いました。俗に言う、一目惚れというものでしょう」

 青年の目は恐ろしいほどにぶれがない。あまりの事態に、俺は二の句が継げなくなってしまう。
 好みという単語に、俺が知らない意味があるのだろうか。万が一にもその可能性はないが、そう考えてしまうくらいには現実逃避したくなる言い分だ。
 俺が、この美形男性の好み。訳が分からない。はぐらかされたわけでもなさそうだ。

「えーとそれは、冗談ではなくて?」
「もちろん、真面目に言っていますよ」
「うーん、でもそんなことありますかね? 俺が入谷さんに、ならまだ分かりますけど。顔の偏差値的に」
「僕が一目惚れしたと言っているのに、可笑しい方ですね」

 入谷は蕾がほころぶように、ふふっと笑みを漏らす。その雪解けに似た微笑には、人目を惹き付ける強い力があった。

「あなたはご自分の魅力にまだ気づいていないようですね。きっとご自身で思っているよりも、実際はもっと魅力的なのに」

 万人の目を釘付けにできそうな微笑をたたえながら、入谷はそんなことを言う。これも冗談ではないらしい。自分の魅力。それは蜃気楼のように茫漠とした言葉だった。
 仕事柄、己を客観的に分析することには慣れている。外見だと上背はそこそこあるものの、目鼻立ちは十人並みだし、特別劣った部分こそないにしても、一目惚れされるようなタイプじゃ決してない。営業職だから身なりにそれなりに気を遣ったり、取引相手の話題についていけるように広く浅く知識を身につけてはいるが、そもそもの話、他人への興味が薄い人間なのだ。そんな自分に一目惚れ? 何かの間違いとしか思えない。
 2日前のも、さっきのも、おかしな性癖の男を懲らしめてやろうという算段なのでは、と疑ってもいたのだが、その線は捨てて良さそうだ。加えて、俺の勘違いかもしれないが――入谷は感情を表に出すのがただ不得意なだけ、という説すら浮上してきた。
 考えこむ俺を見つめながら、入谷は茶を一口啜る。

「同性に好きだと言われた割には、落ち着いていらっしゃいますね」
「いや、まあ……その前に色々ありすぎて、頭がぐちゃぐちゃというか、それどころじゃないというか」
「確かに、少々苛めすぎたかもしれません」
「いじ……」
「男に体を触られて、嫌ではありませんでしたか」

 入谷がまっすぐこちらを注視してくる。
 え、と気の抜けた声が出た。今さらそれを訊くのか、という心持ちでもあったし、そういえば自分も気にしていなかったな、と言及されて思い当たったからだ。
 言葉を選びながら問いに答える。

「嫌では、なかったです。自分でも不思議なんですが、意識の外にあったというか……。入谷さんのこと、美人だなと思ってはいましたが、男性だということは……そうですね、忘れてました」

 入谷の目が丸くなる。無表情のときは冷たく近寄りがたい雰囲気なのに、心の動きが自然に表れたときは、それがだいぶ薄れてやや幼い印象になる。そして、俺はそういう表情の方が好きだ、と思う。好きというのは、好ましいという意味で。
 あなたは変わっている、と入谷は独り言を呟いた。

「そう言う入谷さんこそ、嫌じゃないんですか? ご自分の写真で、男に興奮されるのって。あんなに綺麗な写真なのに――」
「いいえ。むしろ興味深いですよ。僕はそういうつもりで撮ってはいませんが、あなたと同じような反応をした人が、これまでに数人いらっしゃいましたし」

 そういえば、2日前にそんな話を聞いた覚えがある。ということは、その人たちとも俺と同じような行為をしてきたのだろうか――。
 名も顔も知らぬ人の前に跪き、淫らに口元を動かす入谷の姿。その誰かと深く濃いキスを交わし、ほのかに頬を赤らめ、相手の下半身に伸ばした手を上下に動かす青年写真家。その幻の光景に下半身が熱を持ちかけ、慌てて妄想を取り消す。

「それじゃあ、今日とかこの前みたいなこと……他の人にもしているんですか」
「いいえ。誰彼構わずしているわけではもちろん、ありません。あなたが初めてですよ」

 入谷は机に身を乗り出して、内心どこかほっとしている俺を、組んだ両手越しにじっと見据えた。

「自分の好みの人が僕の写真を見て感じて、辛そうにしている。そんなところを見たら、たまらなくなってしまいます。僕がなんとかしてあげなくては、と」

 静かな夜のような入谷の瞳には今、青白く燻る情欲の光が灯っている。その瞳を見るとなぜか冷静ではいられなくなって、心臓がどくどくと高鳴り始めた。緊張が高まって唾を飲み込めば、相手に覚られるくらいの音量で喉がごくりと鳴ってしまう。
 入谷は不意に机に両手をつき、上半身を腕に預け、こちらに顔を寄せた。ちゅっと軽い音とともに口の端にキスが降ってくる。不意打ちにかあっと頬が熱くなる。

「な、何を」
「ふふ。そんなに身構えなくても、取って食べたりしないですよ」

 さっきまで食っていたに等しいのはどの口か。そんなオヤジくさい反論は喉元で飲み込む。
 こちらの動揺を察してか、入谷の両目にいたずらっぽい色が混じるのを、俺は見逃さなかった。

「橘さん、お煙草を吸われるんですよね」
「え? ええ、まあ」

 入谷の前では吸っていないのに、どうしてそのことを。尋ね返す前に、彼は声のトーンを落として続けた。いたって真面目な顔で。

「先ほどキスした時に苦かったので分かりました。意外ですね、そんな可愛い顔をしてらっしゃるのに。人は見かけによらないですね」
「え、かわ……?」

 冷や汗だか何だか分からない汗が噴き出してくる。大胆な台詞の合間に流れで可愛いと言われた気がするが、たぶん空耳だろう。それか、彼は視力が低いのだ。単に乱心という可能性もある。

「見かけによらないと言えば、あちらの方もご立派でしたし。剥いてみないと分からないこともありますね」
「むっ……」

 畳み掛けられた言葉が追い打ちで顔に熱を持たせ、居たたまれなくさせる。あちらってどちらだ、と瞬時に惚(とぼ)けられるほど器用でもない。この熱さは興奮によってではなく、羞恥によるものだ。なぜこの人は真顔で口にできるんだ? 真っ赤になっているであろう顔を両手でぱたぱたと煽る。それを見られるのも嫌で体ごと入谷から背けた。
 写真家の青年は、初めて声を立てて笑った。からりとした、邪気のない笑い声だ。

「おや失礼、褒めたつもりだったのですが」
「褒め……知りませんよ、比べたことないですし……!」
「そうでしたか。こういった話題は恥ずかしい?」
「そりゃそうですよ……! 入谷さんも見かけによらないですね。下ネタ苦手そうに見えるのに」
「下ネタが苦手なら初対面の方のモノを口に咥えたりしません」

 それはそうだろうが。わざわざ真顔で正確に言い返してくるあたり、ふざけているのか真面目なのか解釈に困る。けれど、先日にはほとんど感じなかった人間味の一端を、今日はわずかばかり目の当たりにしたように思う。
 俺が恨みがましく横目でじっとり睨む先で、入谷の唇がほんのり弧を描く。

「僕は冗談も好きなので。そういうことにも、これから慣れて下さればいいですよ」

 これから? これからがあるのか、俺たちの関係に。
 入谷の中ではもう二人の展望がはっきり見えているらしい。彼は少々強引なのかもしれない。そう、見かけによらず。
 思わず苦笑いすると、今度は入谷がなぜか顔を逸らした。
「やっと笑ってくれた」とぼそりと言ったのが聞こえた気がしたが、たぶんそれも聞き間違いだろう。そうに違いない。
 再びこちらを向いた入谷の顔からは、もう感情の発露は読み取れなかった。彼はおほんと空咳をひとつして、居ずまいを正す。それに合わせ、俺も背筋を伸ばした。

「ところであなたにひとつ、ご相談がありまして。仕事についてなのですが」
「伺いましょう」

 何かと思えば真面目な話らしい。脳が営業用に切り替わるのを感じる。年下の青年に翻弄されていた自分と、ビジネス向けの仮面を被った自分は、我ながら乖離して感じられた。

「ちょうどこれから新しいチャレンジをしようと思っていたのですが、そのために入り用の薬品があるのです。何かの縁だと思いますし、それをあなたのところで扱っているか教えて下さい。薬品名を後ほど仕事用のメールアドレスに送信するので、そちらを確認した上で、一度僕のオフィスに来て頂けませんか。商談という形で」

 うんうんと頷きながら話を聞く。願ってもない至極まっとうな依頼だった。向こうから持ち込まれることなど皆無と言っていいうちの業界で、新規の客先が増える絶好の機会。降って湧いた商機とあれば、俄然腹の底から意欲が漲ってくる。

「商談ですか。そういうことでしたら、ぜひお伺いさせて頂きます。よろしくお願いします」
「こちらこそ」

 ぺこりとスマートに頭を下げたあと、入谷は感心したように言う。

「橘さんて、仕事の話になると雰囲気が変わりますね。きっと仕事中は優秀なんでしょう」
「仕事中、はって……ひどくないですか」
「冗談ですよ」

 宥めるような笑顔を見て、鼓動が弾むように跳ねる。そういう表情はやはり、幼く見えた。
 通算2回目の別れ際、ギャラリーの逆光で影になった入谷と向かい合う。

「それでは、またご連絡しますね。柾之さん」
「お待ちしています」

 今夜ここへ来たとき、まさか仕事の依頼をされるなんて夢にも思わなかった。行きとは比べものにならないくらい、帰りの足取りは軽い。入谷の思う壺だった気もするけれど、気分は悪くなかった。今夜は帰って一人酒でも飲もうか。
 そういえばさっき名前で呼ばれたな、と時間差で自覚したのは、車のハンドルを握ってからのことだった。
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