昨日の体験が、すべて夢だったらいいのに。
 そんな風に考えてしまうこと自体、あれが現実であったことの裏返しだ。


 日頃なら機械的に済ませているメールの送受信作業が、今日は遅々として進まない。昨夜の後ろめたい、ある意味では目眩(めくるめ)く経験のせいだ。
 偶然立ち寄ったギャラリーで、風景写真を見てなぜか興奮してしまい、写真家本人に知られた挙げ句、公用の場であんなことを――。
 俺の心は朝から戦々恐々とし、大荒れの状態にあった。大変なことをしでかしてしまったという思いに留まらず、今にも入谷から、または警察から、電話がかかってきそうな気がしているからだ。お宅の橘という社員は、風景写真を見て性的に興奮する異常性癖者なんですよ。そう告げられたら、俺は社会的に完全に終わる。
 社内の固定電話や個人の携帯が鳴るたび、ぎくりと体に緊張が走る。同じことを堂々巡りに想像してしまい、緊張感が引き伸ばされ、だんだん吐き気さえしてきた。今のところ警察や入谷本人から電話はかかってきていないし、どこかから噂が広まっている気配もないが、安心はできない。
 問題はそれだけではなかった。パソコン画面を見ていても、入谷が自分の前にうずくまっている情景がちらつき、一向に集中できないのだ。昨晩ベッドに入ったあと、どうにも体が疼いてしまい、入谷の指先と熱い舌を思い出しながら、寝るまでに2回も抜いてしまったことも要因だろう。寝不足になると理解しながら止められなかった。青年の凪いだまなざしを思い出すと、なぜか頭の芯がじんと痺れ、全身が熱を持つのだった。
 俺はどうにかなってしまったのかもしれない。己の意思で理性を制御できなかったことなど、これまでに一度もなかったのに。もっと若い頃、女性と付き合っているときでさえ、だ。
 嘆息しながら目頭を押さえていると、営業一課の課長の声がフロアに響いた。

「おーい、倉庫使ったの誰だ? 鍵閉まってなかったぞ」

 ぼんやりとしていた意識が急に明瞭になる。倉庫とは廃盤になった薬品や試験品などが納められている薬品庫に近い場所で、中には有害なものもある。1時間ほど前、所用があって倉庫に入った。そのあと、俺は施錠したか? 覚えがない。犯人は確実に自分だ。

「すみません課長、それたぶん僕です」

 立ち上がって正直に白状すると、課長は吊り上がっていた眦(まなじり)をやや和らげる。

「なんだ、橘か。珍しいな。気をつけろよ」
「はい……面目ないです」

 自分の体が小さくなった心地で、すごすごと椅子に座り直す。隣席の女性社員が気遣うような笑みを向けてきたのへ、曖昧に愛想笑いを浮かべて応じておいた。これでは仕事にならないどころか、致命的なミスまでしかねない。しゃっきりしろ俺、と自分に言い聞かせる。
 芳しい匂いが鼻腔をくすぐって、ずい、とマグカップが視界に差し出された。そこから伸びる腕を目でたどる。無表情の常葉がそこにいた。
「顔色悪いッスよ、橘さん」と湯気の立つコーヒーを二人ぶん持ちながら、仕事のできる後輩が言う。

「はは、後輩に心配されるなんて、駄目な先輩だな。俺は」
「具合でも悪いんスか? 半休取るなら俺が仕事やっときますけど」
「いや、そこまでじゃないよ。少し眠れなかっただけだから、気にしないで」
「じゃ、眠気覚ましにちょうどよかったですね」
「ああ、ありがとう」

 外が紺色、内が白色のカップを受け取りながら、中堅社員として情けないところを見せてしまったな、と若干凹む。そんなに顔に出ていたのだろうか。プライベートを仕事に引きずるなんて、社会人としてあり得ない。

「そういえば常葉くん、俺のカップがどれか知ってたんだね」
「まあ、よく話す人のくらいは、さすがにね」

  話題を誤魔化すと、後輩は整った顔のパーツをほとんど動かさずに答える。
 そうか。俺は自分以外の持ち物が誰のものかなんてまったく把握していない。興味がないからだ。自分のカップを使っている人なんて、このフロアだけで20人以上いる。常葉も俺と似た者同士だと思っていたが、彼は意外に周りを見ているようだ。なんだか姿勢をたしなめられた気になって、ますます肩身が狭くなる。寝不足の胃とエアコンの冷気で冷えた体に、コーヒーの熱さが染みた。
 メール業務を再開して、眉間をぐりぐりと揉む。後輩相手にはああ言ったが、このままでは大丈夫でないことは明らかだ。もう一度、入谷紫音に会いに行くべきではないのか。キーを叩きながら思考を整理しようとしたが、迷走する思いは形になってくれなかった。
 なんとか目立ったミスなく一日の仕事を終え、常より若干遅い時間に家に帰る。俺を出迎えた明かりのない空々しい部屋では、飼育しているクラゲの水槽だけが冷ややかな淡い光を放っていた。暗い室内をそのままに、緩い水流に乗って浮遊するクラゲたちをしばし眺める。彼らは俺にとって唯一の癒しだ。かといってペットというほど愛着はなく、自分にとっては観賞物に近い。
 それでも、ゆったりとした収縮と拡張のリズムを見ているうち、毛羽だった心が少しずつなめらかになっていく。
 やがて俺は決意する。明日、またあのギャラリーを訪問しようと。


 あんなことがあった翌日に入谷に会いに行くのもおかしい気がするから、1日挟んだのはたぶん正解だったんだろう。そんな自己弁護をしつつ、気を落ち着かせるためには駐車した車内での一服が必要だった。
 折しも日付は金曜日で、ギャラリーがある通りは一昨日よりもさらに混雑している。時間帯はギャラリーが閉まる20分ほど前。ギャラリーから人がいなくなる時間を狙った結果だ。
 歩くたび、左手に提げられた袋と菓子折りがかさかさと摩擦音を立てる。感じたことのない緊張感にいつもの歩き方を忘れ、ぎこちなく歩みを進める俺を、ありがたいことに誰も気にしていない。
 ギャラリーの前まで来たところで気合いを入れ直す。ここまで来たら後戻りする選択肢はない。怖じ気づく前にギャラリーのドアを開け放つと、真っ白い光に目の前が染まるようだった。
 整然と並ぶ写真の数々には目もくれず、奥まった一角へと足先を向ける。そこに彼はいるはずだ。心臓が痛いくらい早鐘を打っている。
 椅子に腰かけて、何やら書き物をしている人物。彼はもう確信しているかのように、ゆっくり面をこちらに上げて、うっすらとほほえんだ。
 どくりと一段強く鼓動が跳ねる。やはり入谷紫音は美しい男だった。身のこなしが洗練されていて、纏う雰囲気は涼やかで。鋭い尾根を持つ雪山のようだ。
 髪を耳にかける仕草に、同性でも惹き付けられる妙な色気を感じてしまう。

「橘さん。また来て下さったんですね」
「……こんばんは」

 こちらが会釈し終える頃には、入谷の柔らかな笑みはもう消えていた。彼が俺に対してどういった感情を抱いているのか、現時点では判断がつけられなかった。
 袋から菓子折りを取り出して、慎重に入谷に差し向ける。

「先日は失礼致しました。これ、お詫びの品と言ってはなんですが、どうか受け取って頂けないでしょうか」
「お詫びというと? 何のお詫びでしょう」

 艶やかな黒髪を揺らして小首を傾げる青年。その口調にはわずかだが、面白がっているような響きがあった。こちらはここで失敗したら身が滅ぶかもしれないという背水の陣、または一世一代の正念場のつもりでいるのに。
 もどかしい気持ちを抑えて、「ですから、先日私がここで――」と言いかけて、2日前のあられもない光景が脳裏にフラッシュバックした。そうだ、目の前にいる彼の咥内に、俺のものが迎えられて、熱くて濡れていて――。頬が熱を持ち、青年の薄い唇が急に艶かしいものに見えてくる。
 絶句してしまった俺に代わり、入谷が目元を和らげて話を引き継ぐ。

「すみません、意地の悪いことをしてしまって。でも、あなたがお詫びというのは、不思議な感じがしませんか」
「そ……うですか?」
「だって、同意を得ずにあなたの体に触れたのは僕の方ですよ。法的には僕の方が罰せられると思いませんか」

 そうなのだろうか。分からない。あってはならない振る舞いを先にしたのは俺なのだから、やはり咎は自分にあるように思える。
 そこで至近距離から目を覗きこまれて、ぎくりと全身がこわばった。
 入谷の目は、危険だ。右目の泣きぼくろに視線がいったら最後、深い色の瞳に捕らえられ、逃げることができなくなってしまう。まるで罠だった。あるいは、甘い蜜で虫を誘う食虫植物のような。

「もしかして、心配していましたか? 僕が警察に相談したり、あなたの会社に報告するんじゃないかって」
「……仰る通りです。正直、生きた心地がしませんでした」
「その点はご安心下さい。僕はあなたとのことを他の誰にも知らせるつもりはないし、怒ってもいないし、ダシにしてあなたを脅したりもしません。ですから、このようなものは不要です」

 そして、菓子箱を突っ返すようなジェスチャーをする。それでは困る、と俺の気持ちが色めき立った。受け持ってもらえないとこちらの気が済まないし、心情的に休まらない。口を開きかけるも、入谷に視線で制される。

「というのが僕の気持ちなのですが、それだとあなたが困るでしょうし、せっかく下さるというなら頂いておきますよ」

 すらりと長い指がお詫びの品を受け取ってくれて、ようやくほっとした。これで来週から、職場でびくびく過ごす必要もなくなるだろう。

「すみません、こちらの気持ちまで汲んで頂いて。では、私はこれで」
「それから、あなたに訊きたいことがあります」

 さっさと引き下がろうとしたのに言葉尻を捕らえられる。だけでなく、引っこめる前の俺の左手首を、入谷の右手ががっしり掴んだ。存外に強くこめられた力と、有無を言わさぬ様子に顔が引きつる。これ以上、何を話すことがあるのか。
 恐る恐る相手の表情を窺うと、切れ長の双眸が鋭く俺を見据えていた。物々しい雰囲気に呑まれそうになる。

「……何でしょうか。なんでも、正直に答えます」
「まあ、そう慌てずに。少々お待ち下さい」

 相手は先日と同じように、俺を残してパーティションのあちらへと消えていった。案の定、ややあって施錠の音が届く。デジャヴにくらくらした。既視感と言い捨てるほど生易しいものではないが。今日は一体何が起こるんだ?
 身を固くしていると、迷いない足音がすたすたと後ろから近づいてくる。振り返るよりも早く、入谷が背中側に肉薄してきて、低く耳元で囁いた。彼の肉体の気配に、ぶるりと総身に震えが走る。

「どうか教えて下さい」
「な、何を」
「僕の作品を見ると、あなたの心と体がどう変化するのかを。実際に写真を見ながら、僕に教えてほしいんです」

 ――感じたんでしょう。僕の写真で。
 吐息混じりの声が耳朶をくすぐり、ぞくりと背中が粟立つ。口調は穏やかなのに、首筋に冷たい刃物を当てられているような心地がした。感情を読み取れるものがほとんどないから判断しにくいが、入谷はやはり怒っているのだろうか。
 彼の頼み事は自分にとっては命令に等しい。元より俺に拒否権などない。
「分かり……ました」と受け入れる声が緊張で掠れた。
 どの写真が最も性的に感じるのかと問われ、俺は一昨日の興奮を思い出しながら、夕暮れの風景の前に立つ。草原に立つ一本の老木。雲の多い空。その切れ間から、星の光が点々と覗いている。
 どこからどう見ても、森閑として静謐な写真なのに、俺の体は女性のヌード写真を見るよりも激しく、それどころかアダルトビデオを観るより覿面(てきめん)に反応し始める。これはおかしいと細々と主張する理性を、大波めいた情動がたやすく飲み込んでいく。
 入谷は俺のすぐ後背に立って、どうですか、と無感情に問いかける。

「体と心境の状態はいかがですか」
「――体が、熱くなってきました。写真の中の空気に、体を……撫でられているような感じがします。そういう写真ではないって頭では分かってるのに、止まらないんです……」
「なるほど」
「こんなことは初めてで、自分でも混乱しています。脈拍もかなり早まって、息も熱くなってきて……少し、涙も出てきたような感じです」
「そうですか」

 自分の身体に起こる変化を列挙していく。何の羞恥プレイなんだ、これは? しかしその時の俺には置かれている状況を顧みる余裕はなかった。そばに感じる入谷の気配が、さらに自分から思考能力を奪っていく。堪えきれずに膝がぶるぶると震えてきた。誰でもいいからどうにかしてくれ、と捨て鉢のように心が叫ぶ。
 あの、と絞り出した声はみっともなく震えていた。

「だんだん、考えるのが辛くなってきて、もう」
「感じすぎて辛抱できないと」

 淡々と状況をまとめた入谷が、やおら両腕を後ろから伸ばしてきて、俺の下半身に触れた。突然の物理的刺激に全身がびくりと跳ね上がる。瞬間的に漏れそうになったおかしな声を、なんとか奥歯で噛み殺した。
 股間をまさぐる入谷の指は、下から上につうと撫で上げてくる。

「確かに、固くなっていますね」
「ちょっ、と、入谷さん……ッ」
「ここは外から見えませんから、ご心配なく」

 そういう問題ではないのだが。スラックスの股の部分を、入谷の手が二度三度と往復する。腕の動きしか見えないのが何ともいやらしい。淡い快感ともどかしさに、息がいっそう熱くなっていく。もっと、直接触ってほしい。つい2日前、この場でしてくれたように。

「いりや、さん」
「この体勢だと少し辛いですね。椅子に座りましょうか」

 優しげに告げられた言葉を、ゆっくり吟味する余裕もない。年端もいかない子供のように、俺はこくこくと頷いた。
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