寂しさと寒さはどこか似ている。


 独りで住むにはがらんどうすぎる家で、今年も12月24日の夜を越した。
 この街の大方の人々は家族と過ごしているのだろうが、生憎僕には肉親がいない。遠縁の親戚さえいない。養父のものだったこの大きい家で、今は人間一人と猫一匹だけが暮らしている。
 習慣というのは体に染みついているもので、12月に入ってから馴染みの店で買った巨大なシュトレンを粛々と食べ続けたり、室内をクリスマスツリーやらオーナメントやらで華やかに飾りつけたり、クリスマス当日には時間をかけてじっくりワインを飲み続けたりするのを、全部一人だけでやりきった。
 うっすらと二日酔いの残滓が残る頭が覚醒したのは、25日も夕刻に差し掛かった頃である。横たわる僕の傍らで、行儀よくごはんを待つ愛猫のためにのそのそとベッドから抜け出すと、窓の外のベルリンの景色は粉砂糖が振りかけられたように白くけぶっている。染みこんできた寒さがこめかみに突き刺さって、つきりと痛んだ。
 かりかりとごはんを食む猫の側にうずくまり、その様子を見ているうちになんだか、昔のことが思い出された。寒いのに暖かい、不思議な記憶のこと。
 あれは自分がまだ幼い日のWeihnachtsmarkt(クリスマスマーケット)だ。僕はクリスマスマーケットが好きだった。きらびやかにドレスアップした巨大なツリー、ところ狭しと並べられた土産物や縁起物、ホットチョコレートやホットワインの芳しい匂い。目に映るものすべてがきらきらと眩しく、集った人々は皆幸せそうに笑っていた。
 けれど、僕の目に一番焼きついているのは、輝かしいそれらのものたちではなかった。それは、7歳年上の兄――ヴェルナーさんの、赤く澄んだ綺麗な瞳で。
 自分には肉親がいないというのは嘘ではない。兄とは言うものの血は繋がっていなくて、養父が同じというだけの、僕たちは義理の兄弟だ。だから自分が金髪碧眼であるのに対し、ヴェルナーさんは赤髪に赤目と、容姿はまったく似ていない。
 それでも、僕は彼のことを最も大切に思っていた。この世界で、一番だ。ヴェルナーさんも同じように感じてくれていると思っていたのだけれど、彼は数年前に結婚して、この家を出ていってしまった。義兄夫婦に子供が産まれてからは一回も会っていない。相手方が忙しいだろうからと連絡を控えたり返事を素っ気なくしたりしているのは僕の方なのだが、ヴェルナーさんから連絡が途絶えてしまうとかなり堪えるものがある。
 数年前まではこの家も人の会話で賑やいでいた。僕にとって一番大切な人がここにいた。――それなのに。
 所詮はヴェルナーさんにとって、僕はごく細い糸で繋がっていただけの、他人同士でしかなかったのだろうか。その頼りない糸も、今や切れてしまったのだろうか。
 20代も後半に差しかかり、一人で生きるのに慣れきって、クリスマスの夜にも一人で深酒なんてして、僕は何をやっているのだろう。
 ヴェルナーさんはクリスマスマーケットに行くとよく、遠くのものが見えやすいように、幼い僕を抱き上げてくれた。ほこほこと温まる心を感じながら、逞しい腕に抱かれ、色とりどりのものを眺める彼の楽しげな瞳を、じっと見上げたあの日。その記憶はもはや、限りなく遠い。
 とめどなく溢れてくる追想に沈んでいきそうになっていると、不意に家のチャイムが鳴らされた。
 約束など何もない。アルコールの靄がかかったままの頭でのろのろと体を動かし、着替えもせずにドアを開けて、思わず目を見張った。
 そこには、つい先刻まで思い起こしていたまさにその人――ヴェルナーさんが立っていたのだ。首元を深くマフラーに埋めて、仕立てのいい艶のあるコートを羽織っている。右手にはワインの袋を提げていて、手袋もしていない空いた方の手がひらひらと振られると、薬指の指輪が薄暗さの中でちらちらと光った。
 ようハンス、という相手の短い挨拶で、呆気に取られていた僕は我に返った。
 久しぶりに再会して嬉しいはずなのに、元来の天邪鬼な性格が祟って、素直な気持ちを口にすることができない。

「……何ですか、いきなり。何しに来たんですか?」
「久々に会ったのにそんな言い方ねえだろ〜? 別にいつ来たっていいじゃんか。ここは俺の家なんだからさ」

 ヴェルナーさんはこちらの嫌味にも気分を害した風もなく、からからと清々しく笑う。

「そう言って、自分で出ていったくせに……」
「そんな言い方すんなよな。ほら、一緒にワインでも飲もうぜ」
「ワインはもういいです。昨日しこたま飲んだので」
「なんだよォ、お前一人で飲んでたのか? まあ、二人で飲んだらワインの味も違うだろ。チーズもあるしな」

 渋る僕をものともせず、義兄は肩を抱いてきて部屋の中へぐいぐい押しこむ。絶対に顔や口には出さないけれど、その強引さは僕にとっては好ましいものだった。人の好き嫌いも激しければ、性格も難だらけの僕に拘泥せず、自然体で関わり合ってくれるのはヴェルナーさんくらいだ。心臓のあたりがぎゅっとなって、無意識にそこを掌で押さえていた。
 身支度を整えたり、ワインを飲む用意をしたりして、ソファへ向かい合わせに座って人心地つく。数年ぶりに会う兄の外見はほとんど変わっていないのに、なんだか別の人のように見えた。配偶者がいるからなのか。子供ができたからなのか。それらの経験が、人を変えていくに違いない。そしてきっと、僕と彼との間は、どんどん開いていくばかりなのだろう。
 ヴェルナーさんが心底愉快だと言わんばかりに、嬉々としてチーズを齧っているところへ、投げかけたい質問はたくさんあった。何にもだらしないヴェルナーさんが、ちゃんと結婚生活をやっていけているのか? 昔みたいにまた台所を爆心地のように黒焦げにしていないか? 仕事の約束をすっぽかして、こっぴどく怒られたりしていないか? 子供は健やかに育っているのか? そういえば子供の名前を何に決めたのかも聞いていない。訊きたいことはたくさんあるのに、自分の中の変な意地がストッパーとなり、それをせき止めている。

「お前、元気にしてたか? ちゃんと食ってる? ちょっと痩せたんじゃないか」
「……まあ」
「どれに対する返事だよ? お前ももっと連絡寄越せよ。こっちの家に遊びに来てもいいしさ」

 ヴェルナーさんはこんなに、何の気負いもなく言葉を紡げるのに。彼と対峙していると、自分の不器用さが恨めしくなる。

「……。迷惑じゃないですか?」

 誘ってくれるのは、社交辞令なのだろうか。そう疑った僕が尋ねると、ヴェルナーさんはあからさまに眉をひそめた。

「はあ? 何言ってんだ。迷惑なわけないだろ」
「でも……もう、ヴェルナーさんには別の家族がいますし」
「おいおい、なんでそんなに他人行儀なんだよ。俺たち兄弟だろ。今までさんざん迷惑かけあってきたのに、今さら変な遠慮されても気色悪いわ」
「じゃあ、いいんですか。……僕が、そっちの家に行ったりしても」
「当たり前だろ。俺とお前も家族なんだからさ」
「家族、ですか? 一緒に暮らしてもいないのに?」
「どこにいるとか関係ないだろ。お前はずっと俺の弟で、家族だよ。何があっても、俺かお前が死んでも、二人とも死んだって、永遠にな」
「……ッ」

 さらりと放たれた言葉に、一瞬で目頭が熱くなって、慌てて目を逸らす。ヴェルナーさんが僕たち兄弟をそんな風に捉えているなんて、思ってもみなかった。義兄弟の繋がりとは、彼の中ではそこまで強いものなのだ。
 突然沈黙した僕を不審がるでもなく、ヴェルナーさんは間延びした呑気な声で、どうかした? と訊いてくる。僕は滲んだ目元をこっそり拭って、何かを振りきるように、勢いよくソファから立ち上がった。

「別に、何でもないです。ホットワインでも作ってきますね」
「おう、いいね。頼むわ」

 僕の心の揺れ動きには微塵も気づいていなさそうな、上機嫌なヴェルナーさんの声が追ってくる。
 底冷えのするキッチンに一人立つと、あの感覚がこみ上げてきた。外気は寒いのに心は温かい、クリスマスマーケットの日の感覚だ。
 これからはもう少し、自分の気持ちに素直になってみようか。急にべたべた甘えるなんてできないから、ヴェルナーさんに気づかれないくらいに、ほんのちょっとだけ。
 ラム酒や香辛料を準備しながら、こんな遅れてきたクリスマスも悪くないな、と思った。


 寂しさと寒さは似ている。
 けれど、厳しい寒さがあるからこそ、ささやかな温かさがじんわりと身に染みるのだろう。












ここまでお読みくださりありがとうございました。以下、セルフ二次創作のようなおまけの文章があります。
読了後の雰囲気が壊れても大丈夫! という方はこのままスクロールしてお読みください。







 キッチンでホットワイン作りを進めていると、リビングからのドアが開く音がした。
 勝手知ったる元自宅、どうせヴェルナーさんが冷蔵庫でも漁りに来たのだろう、と振り向きもせずに手元を動かし続ける。
 しかし、唐突な軽い衝撃と、背中側に密着する熱に、息が止まりそうになった。おなかあたりに腕が回されて、後ろからヴェルナーさんが抱きついてきたのだと知る。知覚すると、一瞬思考が真っ白になった。
 ――何をしてるんだ、この人は?

「な……んですか」

 一瞬で体温が上がる感覚があって、この感じは絶対に顔どころか耳や首まで真っ赤になっているに違いない。高鳴る心臓と混乱する感情とを気取られぬようにと祈りながら、僕は意図を問う。
「ホットワイン作るの、見に来た」ヴェルナーさんは事も無げに答える。

「別に見なくていいでしょ……そういうことされると困るんですよ」
「なんで?」

 ――好きだからだよ!
 とは言えるはずもない。

「そんなにくっつかれたらやりにくいんですって」
「ん〜?」

 冷たい声を繕ったのに、ヴェルナーさんはなおも離れようとしない。んふふ、と彼が軽く笑って、吐息がうなじあたりを優しくくすぐる。その時体を跳ねさせなかった自分を褒めてあげたい。
 逞しい肉体の気配と、冬でも熱い彼の体温。それらが、僕のすぐ後ろにある。
 ため息を装って、なんとか呼吸を落ち着けた。

「……またそうやって、意味の分からないことをして。もう酔ってるんですか?」
「えー、酔ってなんかないよォ」
「それ、酔っ払いが言うやつじゃないですか。邪魔なんですけど」
「ハンス君、冷たーい。もっと優しくして〜」
「あのねえ……」

 こちらの気持ちなんてお構いなしに、ヴェルナーさんはさらに体を肩から脚までべったり密着させてくる。僕をただの弟としか捉えていない兄の無邪気な行動に、僕の理性が限界の悲鳴を上げだした。
 ――このままじゃ、どうにかなってしまう。
 心の中では、僕を抱き締める男への逆恨みめいた呪詛が渦巻いていた。なんでそうやって後先考えずに体にも心にも近づいてくる? こっちの気持ちも知らないで。僕に何されたって文句言えないんじゃないか、ええ? そうなったら困るのはそっちのくせに。
 この困難な状況の打開策は、

「いい加減離れろ!」

 相手の鳩尾への鋭い肘打ちだった。
「ふごぅっ」変な声を絞りだしながらヴェルナーさんが倒れていく。キッチンの床に勢いよく尻餅をついた彼はしかし、「痛(いって)ぇなあ、なにすんだよォ」と不平をぼやきながらもへらへら笑っている。元来痛みにはめっぽう強いマゾ気質なので、気にした風もない。
 それどころが、ヴェルナーさんは更なる爆弾を落としてきた。

「機嫌悪ぃのか? 久々にちゅーしてやろうか」
「は……?」

 無様に転倒したさっきの情けなさはどこへやら、ヴェルナーさんがたちまちのうちにこちらへ迫ってくる。思わず後退りすると、キッチンカウンターに腰が触れた。義兄はあたかも子供をあやすような眼差しで僕を見ていて、一連の行動に何の他意もないことを目が物語っている。
 悔しくて臍(ほぞ)を噛む。だって、ヴェルナーさんはただ弟にじゃれて機嫌を取ろうとしているだけなのに、僕だけが変に意識しているだなんて。

「やめて下さいって……」
「なんで? 昔はお前からねだってたじゃんか」
「いつの話してるんですか、僕ももう子供じゃ――」

 親愛が満ちる視線から逃れようと、目を背けた。けれど、頬に熱い掌を添えられて、ヴェルナーさんの方を向かされてしまう。

「ほら、こっち向けよ」
「あ……」

 迫る兄の目とがっちり視線が絡む。同じ瞳だった。つい先刻思い出していた、幼き日のクリスマスマーケットで見上げた、あの慈愛の瞳と。
 逃げたくても逃げようがなかった。背部はカウンターだし、脚はがっちり彼の脚でホールドされている。ヴェルナーさんの首筋から、かすかに彼の匂いと香水の香りがした。結婚する前はそんなものほとんどつけなかったのに、奥さんの趣味なのだろうか。
 胸の内が僅かにちりちりとひりつく。知らない義兄が増えていくことへの、それは嫉妬や苛立ちにも満たない、小さな羨望だ。
 僕はぐっと覚悟を決めて、

「やめろ変態!」

 叫ぶと同時にヴェルナーさんの左肩あたりを思い切り殴りつけた。
「あぐぅ」と奇妙な声を上げながら彼は壁に叩きつけられる。間髪入れずにヴェルナーさんの両肩を掴み、むりやりに回れ右させ、キッチンのドアからリビングへ強引に追いやった。

「ほら、出ていって下さいって! あなたがキッチンにいると、ろくなことにならないんだから」
「えー」

 不満げにぶーぶー言う兄を閉め出して、後ろ手にドアを押さえながら歯噛みする。
 ヴェルナーさんの中ではまだ、僕はこの家に来た時と変わらないほんの子供なのかもしれない。もうひとつの家では彼の子にも同じように接しているのかもしれず、自分の弟がこんな焦れた感情を抱えているなんて、知る由もないだろう。
 さっきは家に遊びに来いなんて言われたけれど、僕はあまりヴェルナーさんとは顔を会わせない方がいいのかもしれない。彼に会ってこんな思いをするその度に、心臓が破裂してしまいそうに感じるから。
 完成したホットワインをその場でぐびりと呷って、頬の火照りや惑乱(わくらん)やらを、僕は全部アルコールのせいにした。

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