頬に熱い風を感じ、目を開ける。
 どのくらい気絶していたのだろうか。
 意識が戻った途端、左腕の痛みでまた気を失いそうになる。ああ、生きている。この痛みこそが生だ。
 ここまで炎が迫ってきたのか、と思ったけれど、熱風の原因は火ではなかった。眼前、手を伸ばせば触(さわ)れる距離に、棘だらけの竜の頭部がある。竜の熱い息が、あたしの顔にかかっている。
 頭から伸びる太く長い首。巨体を支える強靭な四肢。上に百人は乗れそうな、広々とした翼。そのいずれもが、鈍くきらめく黒い鱗に覆われている。わずかに開いた口元から、あたしの掌より長く、比類ない殺傷力を持った牙が覗く。
 空を我が物顔で悠々と飛び回る竜の姿は、そりゃ何度となく見ているけれど、こんなに近くでまじまじと竜を眺めるのは初めてだった。そしてこれが、最初で最後になることは疑いようがなかった。
 竜が人を襲ったという話は聞いた記憶がないが、この竜はどうやら腹を空かせているようだった。瀕死の状態のあたしは格好の獲物というほかなく、抵抗する意志さえ自分の中から消えていた。
 あたしは不思議と安らぎを覚えた。恐怖は感じなかった。死んでしまえば、もうこの地獄を味わわなくてすむのだ。どうか一思いに食ってくれ、と願った。凪の海面と同じくらいしんと穏やかな心持ちで、竜の顔を見つめた。
 驚くほど澄んだ青い瞳が、こちらをじっと見返していた。海水を凝縮したらこんな色になるのではないか、とぼんやり考える。そこには知性が宿っていた。こんなときなのに、綺麗だなと思った。しかし青いのは左目だけで、右目の虹彩と瞳孔が白く濁ってしまっているのに気がついた。
 失明している。
 隻眼の竜と、隻腕のあたし。片方を失った者。なんだか、このままここで終わらせるには、勿体ない取り合わせではないだろうか。何故だか不意に、暗闇で小さなロウソクを灯すみたいに、そんな考えがぽっと心に生まれた。

「なあ……あんた、片目が見えてないんだろ」

 声を振り絞る。竜の研究をしている兄から、竜は人語を解するのだと聞いたことがある。呼びかけると、竜はぴったりと口を閉じ、ぐるる、と遠雷に似たうなり声を発した。それが驚きなのか怒りなのか蔑みの意味なのか、竜に詳しくないあたしには分からない。
 もうどうにでもなれ、何があってもあとは死ぬだけだ、という捨て鉢の心情で、言葉を続ける。

「隻眼じゃ竜でも獲物をとれないんだな。あたしみたいな、弱った生き物しか――。あんた、腹が減ってるように見える。ひとつ提案があるんだけどさ、あたしたち、お互いに埋め合わせができるんじゃないかって思うんだ。あんた、あたしに」

 手を貸してくれないか、とあたしは竜に持ちかけた。
 あたしの頭蓋くらいある目が、わずかに見開かれたようにも思えたが、ただの気のせいだったかもしれない。
 とにもかくにも、隻眼の竜は竜の姿を解いた。
 一陣の旋風(つむじかぜ)が起こり、やむ。するとそこに立っていたのは、見上げるほどの長身の、夜と同じ深みの黒を纏った偉丈夫だった。顔立ちも雰囲気も野性的なのに、どこか気品を漂わせてもいる。

「竜は人助けはしない」

 重々しい口調で、竜は簡潔に答えた。
 やっぱり駄目か、と落胆する。でも、人の姿になったということは、少なくともこちらの話を聞くつもりはあるんじゃないだろうか。
 あたしはひとつひとつ言葉を選ぶ。

「なら――一方的に手を貸せとは言わない。あたしがあんたの右目になる代わりに、あんたはあたしの左腕になる。等価交換ってわけ。それでどう」

 竜の男は瞑目する。しばらく思案する様子を見せる。開眼ののち、口元に不敵で獰猛な笑みが浮かんだ。

「人間が竜である俺に取引を打診するか。なかなか肝の据わった小娘だ。面白い」
「……なら」
「――よかろう。その契約、受けてやろう」
「……良かった」

 張りつめていたものがどっと緩む。精神が弛緩してから、自分が緊張していたのが分かる。全身から力が抜け、安堵と引き換えに、体の自由を失う。もう指先ひとつ、動かせそうになかった。

「おい、取引を交わした途端に死ぬつもりか」

 ため息とともに呆れ声を吐き出しながら、竜がしゃがんであたしを抱き起こす。

「まずその血をどうにかしないと死ぬぞ」
「分かってる……」
「分かっているだけではどうにもならんのだ、痴れ者が」

 厳しい語調に反し、竜は迷うことなく自分の上質な衣服を尖った歯で引き裂いた。細割きにした布を手際よくあたしの傷口に巻きだす。あたしは意外に思いながら、彼の動作をただ眺めていた。

「これで助からなかったら、生きようとするお前の意志が薄弱だった、ということになるのだからな」
「……あたしはお前じゃない、アイシャ。あんたの名前は」

 釘を指す男の言葉。それには答えず、無愛想に問う。
 無知な奴はこれだから困る、と言わんばかりに、竜があからさまにふんと鼻を鳴らす。
 
「人の名など覚えるに足りん。それに、竜の名は人間には発音できんのだ。お前の好きに呼ぶがいい」
「それなら、ジーヴと……そう呼ぶよ」

 呟いたあと、ジーヴと呼ぶことに決めた契約相手の逞しい腕の中で、あたしは気絶に近いまどろみに落ちていった。
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