街のすべてが燃えている。
 あたしが生まれ育った家も、兄とよく追いかけっこをして遊んだ市場も、尖塔を持つ協会も、立派な図書館も、嫌な臭いの煙を苦しげに吐き出しながら、揺らめき燃え広がる炎に舐めつくされようとしている。そこかしこで上がる火柱が赤々と惨状を照らし出す。熱風があたしの目を、頬を、喉を焼く。
 とにかく、街から出なければ、とあたしは駆けた。
 火は圧倒的な暴力だ。不定形の悪魔だ。
 火は、あらゆるものを灰に変える。そこに慈悲はない。あるいは、灰という同一のものに還ること、それはある種の救いなのかもしれない。
 なぜこんな事態になったのか、分からなかった。頭は混乱してぐちゃぐちゃだ。心はまだ、これが夢であることを信じたがっていた。この悪夢を抜ければ、優しく笑う兄との日々が、元通りになって戻ってくるのだと。
 しかし、左の肩の激痛が、目の前の煉獄は紛れもない現実なのだ、とあたしに突きつけてくる。


 "彼ら"はどっとやって来た。報せもなく、前兆もなく。
 幾度となく繰り返された、どこにでもある穏やかな晩。鍋のスープが芳しい匂いを立てる。兄はまだ図書館から帰らず、家は静かだった。
 唐突に、ものすごい数の馬の足音が静寂(しじま)を破った。と思うと、人の悲鳴と怒号があがり、窓の外がぱっと明るくなった。ガラスの割れる音、乾いた破裂音が続く。
 なんだろう、と顔から血の気が引き、心臓が早鐘を打つ。あたしは息を潜めて、事の沈静化を待った。明日新聞の一面に、何らかの事件がでかでかと載るかもしれない。被害者が知り合いだったらどうしよう――。
 だがその想像は悠長にすぎた。一息もつかないうちにドアが乱暴に蹴破られ、銀色の甲冑を着た人間たちが無遠慮にどかどかと入り込んできた。あたしは唖然として、反応できずに硬直する。
 頭部を丸ごと覆う兜、胸に羽ペンの紋章が刻まれた鎧。鈍く輝く甲冑が一体、二体、三体。全員の手には銃剣が握られ、刃先は漏れなく赤黒い液体でぬらぬらとてかっていた。滴(しずく)がぼたぼた垂れて床に染みを作る。

「何者だ」

 震える声で誰何(すいか)する。甲冑たちは無言のまま、家の中を見回す。一体の甲冑が無造作に、床や家具や兄の蔵書に油を撒く。他の一体が、ランプから松明に移した火をそこへ近づけ、

「やめろ……!」

 あたしは後先考えずその腕に取りついた。兜の隙間から、ぎょろついた双眸が覗いて、ぞっとする。紛れもない人間の目だ。甲冑が勝手に動いて凶行に及んでいるわけでもなく、この内部にいるのは、確かに生身の人間なのだ。
 あたしは蚊を払うような仕草で簡単に振り落とされ、床に突き飛ばされる。
 甲冑を着た何者かは、躊躇なく火を放つと、すぐに踵を返した。
 あっと思う間もなく、空間が炎で包まれた。容赦ない熱を感じながら、生命の危険をひりひりと知覚しながら、あたしは呆然としていた。逃げなきゃ、と思うのに、体が動かなかった。
 炎と煙があたしの生まれ育った家を蹂躙する。くらくらした。吐き気がした。この世の理不尽に神を呪った。涙すら出てこなかった。訳も分からずここで死ぬんだ、と思ったとき、すさまじい轟音を立てて家の二階部分が崩れてきた。
 めちゃくちゃな衝撃であたしは揉みくちゃにされ、瞬間的に気を失ったのかもしれないが、例えようもない左腕の痛みで脳が覚醒し、思わず絶叫を上げた。
 激痛で滲む目で左を見れば、あたしの腕は重たい書籍が詰まった本棚で押し潰されていた。見るからに手の施しようがなかった。死ぬにしてもこんな痛いのはごめんだった。
 霞む視界の隅で、何かがきらりと光る。痛さで白熱し明滅する思考に鞭打ち、目を凝らす。二階に置いていたはずの、山に入る時に持っていくナイフが、物質化した天啓みたいにそこに突き刺さっていた。
 右手を伸ばすとナイフに届いた。あたしは、よく手に馴染むそれをできる限り振り上げ、機能しなくなった自分の左腕の根元に、ためらいなく突き立てた。


 火の手を避け、風上に逃れる。
 街から続く丘の上まで来て、あたしは災禍の全容を目の当たりにした。空恐ろしいまでの輝きの中で、街は黒い影絵と化していた。目まぐるしく形を変える赤い魔物が天を焼き、雲底をおぞましい色に染めている。街のある方から――あった方から、誰かの泣き叫ぶ声が耳に届く。
 何もかもが遠く思えた。
 あたしはどうして、こんなところまで逃げてきたのだろう。たった一人で。どうせ助からないのに。
 あるべき腕のない、左腕の跡地を残りの右手で押さえる。傷口からは血が流れ続けていて、絶望的なほどに滑(ぬめ)っていた。
 まばらに木が生えた木立へふらふらと歩み入る。林と呼べるほどに木々が密になったところで、あたしは力尽き倒れ込んだ。もはや痛みによって、痛いという感覚が麻痺してきていた。
 腹の奥から、弱々しい笑いがこみ上げてくる。あたしが、あたしたちが、何をしたっていうんだ。こんな不合理が、不条理が、許されていいもんか。自分の命がここで潰えるのなら、誰でもいい、あたしたちの街を焼いた奴らを、許さないでいてほしい。
 上着のポケットの中に手をやる。いつでもそこにある、兄と交わしたおまじないの具現。その輪郭を指でなぞると、血まみれの手へと兄の無事が伝わってくる。兄はどこかで、生きている。そのことに希望を託そう。
 すう、と意識が細くなる。意識が自分の体を離れ、遠ざかるのを感じた。まるで空へ浮かんでいくように。
 これが死なのか。人って死ぬとき、本当に天に昇るんだな。
 ――兄さん。
 薄れてゆく意識の中で、その名だけが一条の光芒となって、脳裏にちらつく。
 やがてそれも、闇に飲まれて消えた。
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