水族館は夜も眠らない。
この水族館のスタッフとして働き始めて何度目かの遅番の夜だ。暗がりに淡く浮かび上がる魚たちや珊瑚などは幻想的で美しいが、朝までに終えるべき業務が山ほどあって楽しんでいる心の余裕はない。
餌やり、観察日誌の記帳、館内清掃。そして一番の大仕事が、ウェットスーツと酸素ボンベという装備で行う水槽内の掃除である。アクリルはすぐ汚れてしまうのだ。
仕事は重労働で正直、きつい。好きでないと続けられないですよと面接の時に言われたのも納得だ。ただ、大変だけれど辛いと感じたことは幸いにもまだない。
館内清掃もフィニッシュに近づいてきた零時頃、私は信じがたいものをそこに見た。
水族館一大きい大水槽の前に、女性がいる。
少女、と言った方が正しいかもしれない。波打った髪を背中に垂らし、薄い色のワンピースを着ている。夜行性の魚が泳ぎ回る水槽を前に、ぺたんと座りこみ脚を投げ出して。アクリルを見上げるその表情はぼんやりとしていた。
明らかにスタッフではない。もう真夜中なのに、どうして子供が? 迷子だとしても異常だった。
「あのー」おずおずと話しかける。「あなた、ずっとここにいるの? 保護者の方とはぐれたのかな?」
少女はゆっくりとこちらを振り仰いだ。切れ長の目に、引き結ばれた小さい唇。その間にも投げ出された二本の脚はぴくりとも動かない。まるで立って歩く方法を忘れてしまったみたいに。
じっと見つめられ、何かおかしい、と頭のどこかで警鐘ががんがんと鳴り始める。
違和感の正体に気づいた時、どっと冷や汗が吹き出してきた。そう、彼女はまったく瞬きをしていないのだ。私が話しかけてから、ずっと。通常の人ではあり得なかった。
私はその時点で確信していた。この子は、生身の人間じゃない。
恐ろしさで膝が震えている。私は「ごめんね……」と無意味に謝りつつ、じりじりと後退(あとずさ)りしてその場を後にした。
大水槽が見えない場所に辿り着いても、しばらく動悸が治まらなかった。
「各務(かがみ)さん、笑わないで聞いてほしいことがあるんですが」
担当分の水槽の清掃をびくびくしながら終え、スタッフルームに戻ってからまっすぐに上司の机へ向かう。あの後、空が白み始める頃に大水槽の前を窺ってみたけれど、女の子はいなくなっていた。
私が相対(あいたい)したのは、 幻だったのだろうか。
やや眠そうにしている各務さんはそれでも、私の話を黙って聞いてくれた。
「ああそう、あなたも見たんだね」
開口一番の返答を聞いて思わず仰天してしまう。あなたも、とは、各務さんも彼女の姿を見たということか。
続く彼の言葉に私は更に驚かされた。
「真夜中になるとね、あそこに時々座ってるんだよ。もう五、六年は続いてるかな。危険ではなさそうだからみんな放っておいてるの」
「それで……いいんですか?」
少女の存在はスタッフ全員の共通認識らしい。怪現象が続いているのに、皆見て見ぬ振りをしているなんて。
各務さんは見透かすような視線を私に寄越す。
「じゃあ、あなたが何とかしてくれる?」
「それは……」
水槽を見上げる少女の横顔を思い返す。今落ち着いて考えると、彼女の表情はどこか寂しげで、途方に暮れているようにも思えた。
何年もずっと、独りでああしているのか。
「……やってみます」
請(う)け合うと、上司は意外そうに片眉を上げた。
私は生来根っからの理系で、オカルト的なものには全然興味がなかった。しかし怪現象をあんなにはっきり見てしまっては、頭ごなしに否定することもできまい。
少女の件の解決を請け負ったとはいえ、私には特別な能力などこれっぽっちもない。ただ確かなのは、『彼女があそこに現れる』という結果を生んだ何らかの原因が、どこかにあるはずだということ。
翌日、クラゲの幼生(エフィラ)に餌をやりながらはたと気づく。
瞬きをしない彼女の目。あれは瞼のない、魚の目ではなかったか。
「あの少女、おそらく人間ではなくて魚じゃないかと思うんです」
さっそく思いつきを各務さんに伝えると、彼は腕組みをしてうーんと唸った。
「魚が人間の姿に化けて出てるってこと? そりゃまたどうして」
「それはまだ分かりませんが」化けて出るという表現はちょっとどうなんだろう、と思いながら返事をする。「未練とか、思い残すことがあって死んでしまった魚なんて過去にいませんかね」
「未練がある魚ねえ……。もしそうだとして、なんで死後に人間になって水槽を見上げてるのさ」
各務さんの疑問はもっともだ。
その時、私の脳裏に閃くものがあった。水族館の魚が死んでから人の姿で現れる結果、の原因となりうるもの。
「あの、飼育員に懐(なつ)いていた魚なんていませんでしたか。それも普通じゃない懐き方の」
人間から見て、飼育員に愛情を抱いてるんじゃないかと思うような懐き方をする生き物はたくさんいる。ヒトに求愛するペンギンやアシカもいるほどだ。
人を想うがあまり、死後に人間の貌(かたち)をとって現れた魚、それが少女の正体ではないかと思い至ったのだ。
私の説明を受け、各務さんはふうむと思案げに顎を撫でる。
「つまり思慕が余って、相手と同じ人間の姿の霊になったってことかい。まるで人魚姫だな」
「確かに、そうですね」
陸(おか)の上の王子に恋し、声と引き換えに脚を欲した人魚姫。けれど彼女の想いが届くことはなく、愛した王子の命を救う代わりに海の泡(あぶく)と消えた。
少女の、床に無造作に投げ出されていた脚が記憶から甦る。彼女の両脚は機能していないのかもしれない。元々、自分のものではないから。
「あなたに訊かれて思い出したことがある。以前スタッフだった深浦(ふかうら)さんという方にすごく懐いていたサメ――ネムリブカだったかな――がいてね。夜行性なのに深浦さんが来ると昼間でも元気よく泳いだりして。その子が死んでしまったのは確か、六年ちょっと前だ」
「本当ですか!?」
タイミングも合っているし、かなりの有力情報だ。だとしたら、彼女を深浦さんに会わせれば想いが成就し、未練もなくなるのではないか。
「その深浦さんという方は、今はどこに?」
「それがね、ネムリブカが死んじゃうちょっと前に退職して、そのまま亡くなってしまったんだよ。まだ定年前で若かったんだけれど、がんでね……」
「そうですか……」
なんともやるせない心持ちになる。突然来なくなった深浦さんに会いたくて焦がれるあまり、そのネムリブカは死んでしまったのでは、とも考えられる話だ。
ひとつ、腑に落ちないことがある。深浦さんの前では昼間でも活発に活動していたのなら、なぜ彼女は真夜中にだけあそこに現れるのだろう。
その問いを各務さんの前で漏らすと、「その子の名前のせいかもしれないな」と遠くを見つめる目で返される。
「名前、ですか」
「深浦さんは独自に、そのネムリブカのことをライルと呼んでいてね」
「どういう意味なんですか?」
「アラビア語で『夜』って意味だそうだ」
深い紺色を思わせるその響きを、舌の上で転がして復唱する。ライル。それが、少女のものかもしれない名前。
それから何度かの夜勤を経て、とうとう私は少女に再会した。
正体に見当がついたとはいえ、尋常ならざる存在に向かい合うのには勇気が要った。時刻は零時を少し過ぎたところ。全身を粟立たせる怖気(おぞけ)を努めて振り払いながら、前回と同じく水槽を眺めている彼女に近づく。
瞬きをしない目がこちらへ向けられた。
「こんばんは。もし間違っていたらごめんなさい、あなたの名前はライル?」
話しかける声が震える。ライル、という音が私の口から出た途端、彼女の茫洋とした目に淡い光が宿ったように見えた。やはり、この子はライルなのか。
一メートルほどの距離を置き、屈(かが)みこんで少女と目線を合わせる。
「あなたに残念な話をしなくちゃいけないの。あなたはきっと、深浦さんを待っているんだよね。でも、深浦さんはあなたと同じ時期に亡くなってしまったの……。だから、ここでいくら待っていても深浦さんには会えないんだ。こんな話をして、ごめんね」
少女がふるふると頭(かぶり)を振ったので私は驚いた。私の「ごめん」を否定してくれる仕草なのか、深浦さんの死を受け入れられずに出たいやいやの仕草なのか、意図は分からない。でも、彼女から感情らしきものが発せられたのは初めてだ。
ふと、私の眼前が急速に暗くなっていく。視界の隅から闇に侵食されていくような、寒気がする変化だ。
私は少女の、やり場のない怒りや悲しみを身に受けて死ぬのだろうか。何の力もないのに彼女に関わったのは、やはり間違いだったのだろうか。
意識が途切れる寸前、どこかから声が聞こえた。ように思えた。
気づくと私は大水槽の前に立っていた。はっとして腕時計を確認すると、少女に話しかけた時刻から五分と経っていない。そんなことがあるだろうか。
大水槽の透明なアクリルの向こうでは、ライルとは違う個体のネムリブカが、白い腹をこちらに見せて悠々と泳いでいる。
視界がブラックアウトする前、最後に響いたのはライルの声だったのだろうか。自己満足の可能性もあるが、私には「ありがとう」と聞こえた。
その夜から、夜(ライル)という名の少女は姿を見せなくなった。
彼女がどこか別の場所へ行ったのか、それとも消えてしまったのか、私には分からない。ただ、この世ではないどこかで、ライルが深浦さんと再会できていたらいい。私はそう心から願っている。
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