いつも通りの朝、いつも通りの会社、いつも通りの仕事。
 しかしながら、今日の俺は少しばかり緊張している。恋人となった入谷からの、ささやかなミッションを拝命しているからだ。
 忘れてないよな、と駅へ行きしなにこっそり鞄の中を確かめる。先日入谷に貰ったばかりの、香水を小分けにしたアトマイザーのキャップが、その存在を主張するようにきらりと光った。


 遡ること数日。
 金曜日の就業後、俺は入谷と連れ立って馴染みの居酒屋に来ていた。いつか常葉と変な空気になった、あそこだ。
 テーブルを挟んで対面している、おしぼりで手を拭く恋人を見やる。彼の背筋はここでもすっと伸びていて、清々しい空気を半個室の空間へ放っているようだ。それでいて白木造りの店内の雰囲気にもすんなりと馴染んでいる。付き合っていても美人だな、と事ある毎に思ってしまう俺はやはり、浮かれているのだろうか。
 彼のオフィスへの納品の予定がなくとも、こうして好きなときに気兼ねなく連絡が取れ、予定が合えば顔を合わせられる。今となっては当たり前の事実に、ほこほこと胸の内が温かくなる。
 常連として通う店に恋人がいる、という事実を不思議に感じながら口を開く。

「紫音くんは今日休みだったんだよね? ごめんね、付き合わせちゃって」
「とんでもない。柾之さんこそお疲れでしょうに、時間をとって下さりありがとうございます」

 恋人はつややかな黒髪を揺らしてほんのり艶っぽく笑む。端から聞けば他人行儀にも思える言葉遣いだろうが、今の俺はそれが彼の素だと知っている。

「いや、今週は今日を楽しみに乗り切ったと言っても過言じゃないから。前々からこの店の紹介もしたかったし。気に入ってるんだ、ここ」
「僕も楽しみにしていましたよ。楽しみすぎて、休みなのに早起きしてしまったくらいです」

 相手は冗談交じりに言ってちろりと舌先を出す。その様がやたら可愛く見え、喉の奥からぐう、と変な声が出た。
 何気ないやり取りに心が潤う。一週間の仕事の疲労が、入谷の纏う清涼な空気感の前にすうっと消えていくようだ。この店での一件以来、常葉と若干ぎくしゃくしていたことも気にならなくなる。入谷にとっても、俺と顔を合わせることが何かしらプラスになっているなら嬉しい。
 俺たちの生活は、恋人関係になってもさほど変わらなかった。
 お互い仕事があるし、事業主である入谷の休みは不規則だ。会えるのは週に一回以下、こういった食事も月に数回できたらいい方だろう。順番が前後したが、俺には二人の時間が持てるときに、撮影先で印象に残った国や出来事など、訊いてみたい話がたくさんあった。
 店員に飲み物と食べ物の注文を伝え、さて、とお通しに意識が向きかけたとき。
 テーブルの上に、すうっと小ぶりの紙袋が差し出された。腕を辿って見ると、入谷の顔にはほほえみが浮いている。

「食事の前に、こちらをどうぞ。ささやかなプレゼントです」

 え、と声が出てしまう。プレゼントなんて、体感では会う度に貰っている。素直に受け取るのは気が引けた――そう、入谷はもう俺の気を引く必要なんてないのに。

「紫音くん……あんまり俺に気を遣わなくていいんだよ。貰ってばっかりだし、さすがにちょっと申し訳ない」
「僕が差し上げたいだけですので、あなたが気に病む必要はありません。貰って頂けるのが嬉しいのです。……でも、柾之さんの負担になっているのなら今後は控えます」
「あ、ううん……負担とか、そういうわけではないんだけど」
「では、受け取って頂けますね?」

 笑みを深くされ、念押しされては折れるしかない。実際のところ、彼の手土産やプレゼントは俺のセンスでは到底選択肢に入ってこないものばかりなので、貰うと新鮮な気持ちになれるのは事実だ。
 見てみて下さい、と促されて袋の中身を取り出せば、小さい紙袋と有名ブランドのロゴが入った紙箱のふたつ。紙袋は軽いが、箱の方は液体らしい重量感があった。
 紙袋の中身はアンティークっぽいシンプルなデザインのカフスとタイピン、箱の中身は洗練された形状の香水瓶だった。今までとんと縁がなかったものが手中にある。なんだかふわふわした心持ちだ。

「カフスとタイピンはフランスの蚤の市で見つけて、あなたに似合うと思って購入したものです。香水は僕が好きなブランドのもので、柾之さんをイメージして選びました」

 入谷は指先で示しながら説明してくれる。ああ、と溜め息が漏れそうになった。出国前にあのような別れ方になったのに、彼も異国の地で俺の顔を思い浮かべてくれたのか。

「……ありがとう。俺のこと、撮影先でも考えてくれてたんだね。嬉しいよ」

 どうしようもなく自分の口元が綻んでいるのが分かる。締まりのない、だらしない表情になっているかもしれない。それでも、入谷も嬉しそうだから良いと思えた。
 漂い始めた甘い雰囲気に居たたまれなくなっていたところへ店員が来て、内心ほっとする。俺はそそくさとプレゼントを仕舞って鞄の脇に寄せた。
 テーブルにビールと枝豆、だし巻き卵、サラダがに並ぶ。入谷が目をきらめかせながらジョッキを手に取った。

「柾之さん、見て下さい。このジョッキはすごいですよ」
「そう? 普通じゃない?」
「だってこんなに大きくて、濡れていて……すごく硬いです。この白いのも、美味しそうじゃないですか?」

 恋人は今夜も絶好調らしい。にんまりと口元を弧にする入谷の前で、はは……と乾いた笑いを漏らしてしまう。

「前から思ってたんだけど……紫音くんってそういう、オヤジくさいのけっこう好きだよね」
「おや、心外ですね。僕が好きなのはあなたをからかうことですよ」
「言い直してもどっちもどっちなんだよな……」

 苦笑するが、こんな掛け合いも嫌ではなく、むしろ心地好い。何より相手が楽しげにしているのが文句なしに満たされる。弛緩した空気のままジョッキをかちんと合わせ、乾杯をした。冷める前にどうぞと厚焼き卵を勧めると、頬張った入谷が少し目を瞠り目を輝かせる姿が見られ、「美味しい?」「すごく美味しいです」と言葉を交わす。自分も箸を伸ばして口に放りこむと、だしの上品な旨味と卵の甘味とが体にじわりと染み渡るようだった。
 不意に「柾之さんは……」と名を呼ばれて正面を見る。入谷は深い色の瞳をじっとこちらに向けていた。

「僕が海外にいるあいだ、僕のことを考えたりしましたか?」

 思わず枝豆に伸ばしかけていた手が止まる。
 会えなかった期間、入谷のことを――考えた。考えたどころではない。貰ったネクタイの残り香を嗅ぎながら、入谷が外国人に組み敷かれるところを想像して、抜いたのだ。
 でもそんな倒錯的な想像、正直に言えるわけがない。

「それは、うん。考えたよ……君のこと」
「考えただけですか? 僕はホテルで一人寂しく、自分を慰めていましたが」
「ッ、いや、俺も……した」
「それは嬉しいですね、どんな風に?」

 どうしてこんな、急に変な雰囲気に。入谷は身を乗り出してこちらを見つめている。まるで誘導尋問だ。脈拍が上がってきて、頬が熱を持つ。店の中なのに、それが不快ではない。
 ええい、もう、言ってしまえ。

「紫音くんに貰ったネクタイの、匂いを嗅ぎながら、してた……」
「可愛いですね」

 入谷の目の奥がぎらりと光る。彼の右手が伸びてきて、俺の左手の甲に触れる。それだけで、びくんと大袈裟に反応してしまう。
「僕の残り香で抜いていたあなたも、照れている今のあなたも、どちらもとても可愛いです」
「そんなこと……。っ!」

 肩が跳ねる。入谷のたおやかな指が、俺の手の中指と薬指をするりと握りこみ、ゆるゆると往復し始めたのだ。入谷の指はさらさらして、俺の手に吸いつくよう。指に触られているだけなのに、昂りを扱(しご)かれているみたいだった。快い圧迫感が、今は無性に淫らに感じられる。
 ちょっと、という抗議の声は掠れ、もう熱が混じり始めていた。

「紫音くん、駄目だって。こんなところで」
「何が駄目なんです? 手を触るくらい、友達同士でもやるでしょう」

 だから見られても大丈夫だと言いたいのか。そんなはずがない。いつ店員が残りの品を持ってくるか分からないのに、入谷の手の動きはいっそう艶かしくなる。ちゅく、ちゅく、という淫猥な幻聴まで聞こえてきそうだった。
 そこで新たな刺激が加わり、全身がぞわりと震える。掘り炬燵になっている足元部分で、俺の足に触れるものがあったのだ。きっとこれは、入谷の足先だ。視覚では捉えられない部分を想像力が補おうとする。土踏まずから足首にかけてつう、とご丁寧に伝っていく彼の靴下に包まれた足先。味わったことのない種類の刺激に、ぞわぞわと背中あたりが震撼した。刺激は踝(くるぶし)をなぞり、足首からふくらはぎを這い登ってくる。
 俺の手の指はまだ入谷に扱かれ続けている。このまま足が進んできたらどうなるのか。きっと入谷の脚は届くだろう、俺の股間に。足裏でされるなんて無造作で嫌なはずなのに、脳が勝手に揉まれるところを想像してしまう。店員も客も近くにいるのに、半個室の一角では目も当てられない痴態が繰り広げられている――その一翼を担っているのは、他ならぬ自分なのだ。
 入谷がうっとりた様子で囁く。

「こんな場所で感じるなんて、柾之さんはいけない大人なんですね?」

 違う、と言いかけた喉からおかしな声が迸りそうになり、慌てて掌で口元を覆った。ああどうか、店員よ早く来てくれ、と願う。

「いけなくて、可愛い人だ。店員さんに見せつけたら、どんな反応をなさるでしょうね」

 次に囁かれた入谷の言葉が、まるで俺の心の内を読んだような内容で、途端に肝(きも)が冷えた。

「どうして、店員さんの話なんか……」
「だって彼女、あなたのことが気になっているみたいですから。気づいていなかったのですか?」
「へ……?」

 予想外の返答が来て、間抜けな声が漏れる。
 ぱたぱたと注文を取り配膳をしている店員は、以前常葉に連絡先を渡していたらしい彼女だ。その人なら、気にしているのは二枚目な後輩であるはず。

「いや、そんなわけ」
「移り気は駄目ですよ? 柾之さん」
「そんなのしない、しないって……!」

 ふるふると首を振る間にも、股間に血がどんどん集まっていくのを感じる。下半身だけでなく、全身がどうしようもなく熱い。こんなところで、と思うものの、入谷との最初の邂逅でも公のスペースで興奮した姿を見せてしまったのだから、今さらではあるのだ。
 もう、いいか。誰に見られても、別に。
 快楽が理性を完全に覆い尽くそうとした、その直前。
 ギリギリのタイミングで入谷の指と足が離れ、「お待たせしましたー!」と店員の朗らかな声が響いた。あまりにも心臓に悪すぎる。
 悪印象を与えるだろうが、店員から顔を逸らして乱れた息を必死に押し殺す。かき混ぜられた感情と感覚の整理がつかない俺を尻目に、入谷は焼き鳥や揚げだし豆腐などをにこやかに受け取っている。彼の変わり身の速さには舌を巻くしかない。
 その後もやや脈が速まったままの俺の前で、入谷は背筋を伸ばし、涼しげな様子のまま料理やアルコールを味わっていた。
 彼にこうしてやや過激な悪戯を仕掛けられるのも――あまりおおっぴらに認めたくはないが――嫌ではなく、さらに恥を忍んで言うと少し期待している部分もある。それはきっと、俺が嫌だと感じる境目を入谷が見極めて、僅かに手前で止めてくれるからだと思う。それを信頼、と名を付けてしまうにはへんてこな気持ちだが。
 その後はおかしな空気になることもなく、談笑しながら場を楽しんだ。そういった時間ほどすぐに過ぎる。
 帰り仕度を進めるも名残惜しさを感じ、「次会うときは紫音くんのオフィスだね」と声をかけると、容姿に似合わず茶目っ気あふれる青年はどこか蠱惑的な微笑を浮かべた。

「それなんですけど、ひとつお願いがあるのです」
「お願い?」思わず目を瞬く。
「今日プレゼントした香水を、会う予定がある日につけてきて頂きたくて。実際にどんな香りがするか知りたいのです。よろしいでしょうか?」
「ああ、それくらいなら。もちろん」

 軽く請け合うと、何やら相手の目が肉食動物めいた光を宿したように見えた。不穏さを感じて体のあちこちに緊張が走る。
 既に立ち上がっていた俺の腰へ、入谷の腕がするりと回ってきた。耳元に寄せられた恋人の唇から、ごくごく小さい声が耳管に吹き込まれる。
 湿度を含んで甘くかすれた、プライベート用の声音。

「今、よろしいと仰いましたね? 僕が知りたいのは、あなたがつけた香水のラストノートの香りですよ」
「ラ、ラストノート?」

 聞き慣れない言葉だ。無意識のうちに握りこんでいた掌が汗ばんでくる。なんだか雲行きが怪しい。

「香水の匂いというのは、時間経過で段階的に変化します。ラストノートは数時間経った後に残る最後の香りです。ですから……お分かりですね?」

 甘えるような、それでいて愉悦を含んだ囁きが、耳から俺の思考を侵食する。
 入谷のオフィスを訪問するのは平日だ。つまり彼は、会社にいるときから香水をつけろと言っているのだ。俺はそれを、既に了承してしまっている。
 香水など関心を持ったこともないのだから、無論会社にそんなものをつけていったことがあろうはずもない。極力目立たないように生きてきた男が、突然人工的な香りを振りまいていたら。何かしら勘づく人が出てきても、おかしくないだろう。
 しかし、拒むという選択は残されていない。入谷から貰った香水を持って会社に行き、どこかのタイミングで香りを身に纏う。それは既に、決定事項だ。
 小刻みに頷くと、柔らかいものが愛おしげに頬へと触れる。それを咎める余裕もない。

「楽しみにしています。約束ですよ」

 空調が効いているといえど室内は暑くはないのに、変な汗が背中を伝い落ちるような心地がした。

 
 入谷との約束の日。午前中ずっと、彼から貰った香水のアトマイザーが脳裏のどこかにちらつき、そわそわと浮き足立っている。
 香水自体はまだつけていない。デオドラント製品は使ったことがあるものの、俺が香水の香りをぷんぷんと放っていれば、違和感を持つ人もいるだろう。そうならないよう計画を立ててある。昼休み、昼食後にこっそり香水をつけたら、すぐさま社外へ出て客先を回り、入谷のオフィスへ直行するのだ。そうすれば普段交流のある社内の人に気づかれる可能性はなくなる。我ながら完璧な計画である。おそらく入谷は俺の身の回りの人間に勘づいてほしいのだろうが、そうは問屋が卸さない。
 味がよく分からない社食のAランチを平らげてから、こそこそと男子トイレの鏡の前でアトマイザーを手にする。香水のこの字も知らないので、暫時ためらった後に手首へと一吹きした。袖の匂いを嗅げば複雑な香りはするものの、これで充分なのか足りていないのか、よく分からない。おそらくほのかにでも香れば入谷は満足するだろうと予測し、アトマイザーを内ポケットに仕舞う。
 と、その動作が終わるか終わらないかのうちに、背後を通り過ぎる影があった。普段ならそんなことをしないのに、気を張っていたためか防御反応のようにばっと振り向いてしまう。
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