若干驚いた表情のできる後輩・常葉がそこにいた。

「お、お疲れ様」何もなかった振りもできず、ぎこちなく声をかける。
「お疲れ様ス。なんかありました?」
「いや、特別……ないんだけど」
「そっスか?」

 常葉は小首を傾げたが、それ以上は興味を失ったようにトイレの奥へとまた歩きだす。ほっと胸を撫で下ろすのも束の間、「橘さん……」と今度は相手から呼び止められた。
 はっと体を反転させると、俺のことを形のいい双眸で見つめる後輩と視線が合う。髪で隠れて片方しか見えない眉は訝しそうにひそめられていた。
 張り詰めるような沈黙があって。

「いえ、やっぱ何でもないス」

 先に目線をあっさり外して、常葉は俺の視界からさらりとフェードアウトしていった。
 完璧な計画には常に横やりが付き物、ということなのか、何か言いたげだった常葉との邂逅イベントを乗り越えても次があった。荷物を取りに自分の机へと向かったところで、事務員の女性に声をかけられたのだ。なんでも、フロアでオイルライターを拾ったらしい。この階で喫煙者と言えば片手で数えられるほどだが、オイルライターを使っている者は更に限られるだろう。掌に乗せて差し出されたものを確認したが、自分のものとは種類が違っていた。

「僕のではないみたいです」
「そうですか、じゃあ常葉さんのですかね」

 かもしれませんね、と相槌を打とうとしたところではたと気づく。彼は――常葉はいつも、煙草に火をつける時に何を使っていた? まさかマッチではあるまいが、どんなライターを使っていたかまるで思い出せない。何度も見かけているはずなのに、ただ視界に入っているだけで、俺はちゃんと見ていないのだ。

「……常葉くんならさっき会ったんで、まだ会社にいると思いますよ」
「そうですか、ありがとうございます!」

 相手は曇った俺の内心には気づかない様子で、にこやかにぱたぱたと走り去っていった。今度こそ荷物を、と気を取り直したところでまたも、気になる光景が目に飛び込んでくる。

「どうぞ」

 女性事務員が背伸びをして棚の上のものを取ろうとしていたものだから、認識した以上無視するわけにいかず、目当ての品に手を伸ばして相手に渡した。
 相手はさも嬉しそうに口角を上げる。それを見て、俺も意識的に微笑を作った。

「ありがとう、橘くん。助かったよ」
「いえ、これくらいならいくらでもやりますよ」
「じゃあ、今度困ったら頼もうかな」

 ええぜひ、とややおかしな返事を放って、三度目の正直とばかりにぐっと鞄の持ち手を掴む。そのまま客先へ向かうつもりだったが、廊下へ出たところで気が変わった。
 自分の脆弱な計画が儚くも崩れたせいか、一服したくなったのだ。足先を喫煙ルームへ向け、まだ昼食を摂っている人がいる休憩室の前を通り、無人の目的地のドアを開ける。煙草に火をつけながら、香水と紫煙の匂いが混ざったらどうなるのだろうとぼんやり考える。いい香りにはならない気がする。けれど、入谷からは何も言われていないのだから構わないだろう。
 少々やさぐれた気分で一服を終え、頭を仕事に切り替えようとする。部屋を出て休憩室の近くを通り掛かった、そのとき。

「橘さんのこと、先輩気づきました?」

 ガラスの向こうから飛び出てきた自分の名前。はっとして反射的に足が止まる。そちらから見えないようにこっそり中の様子を窺うと、昼食を食べていた人々は去り、先ほどフロアで会話をした二人の女性社員が飲み物を飲みながら何やら話をしているようだ。
 気づくって何を、と思うか思わないかのうちに、先輩の方が苦笑混じりに言葉を返す。

「あー、香水でしょ?」

 その単語を認識した一瞬だけ、心臓が止まる。驚きで声を発しそうになるのをすんででこらえた。あんなわずかなやり取りのあいだに感づかれてしまうとは。
 後輩社員は大袈裟に天を仰いでみせた。

「それです! うう〜、やっぱり私の鼻がおかしいんじゃないんですね……はあ、橘さんにもとうとう恋人かあ。この前の飲み会じゃそんな気配なかったのに〜」
「そんなに残念がるならアタックしてみれば良かったのに。あ、アタックって言い方はもう古いか」
「いやー、それはなんか違うというか。橘さんはみんなの癒し枠〜って感じなので。そういう人が誰か一人のものになっちゃったってところが一番、ショックみたいな。あ、伝わりませんよね、これじゃ」
「まあ、分からないでもないよ。橘くん私ら事務にも優しいし気が利くから、話すと和むよね。機嫌悪そうなところ見たことないし」
「いやもう全部それですよー! 同期なのに望月さんとは全然違いますよね。満杯になったシュレッダーのごみ捨てとかコピー機の紙の補充とかしてくれてますし。この前なんか給湯室の掃除してくれてたんですよ? 営業の人がそんなことするの、私びっくりで」
「分かる分かる、そういう些細なことって案外みんな気づいてるよねえ」
「ねー、ですよねえ」

 自分の喘鳴(ぜんめい)が聞こえる気がした。これは、俺が聞いていい会話じゃない。それなのに脚がちっとも動かない。さっきからずっと動悸がしている。
 癒し枠、だなんて。他人からそんな風に思われていたなんて知らなかった。俺は何も、知らなかった。
 シュレッダーとかコピー機とか、そんなの当たり前じゃないか。自分の機嫌を自分で取るのだって、大人として当然のことだろう。休憩室を拭き掃除していたのだって、自分が汚したと思われたくないからであって、いい人に見られたいとか思っていたわけじゃない。それら諸々を、誰かの癒しのためにしてきたわけじゃない。
 じゃあ全部、やらなければ良かったのか? 望月みたいに自分の管轄外のことは他人に自然に押し付けてくれば良かったのか?
 それはきっと違うのだろう。異性に好感を持たれるのだって、一般的には良いことなのかもしれない。けれど俺にはそう思えず――堂々巡りにぐるぐる考えてしまいそうで、その場をそっと離れた。
 休憩室の前を通らないとエレベーターホールには行けなくて、この先は非常階段しかない。まあ、もやもやを消化するためのいい運動にはなるだろう。動揺する心を叱りつけるように、そう無理やり自分を納得させた。


 入谷と会う前に、今日はなんだかどっと疲れてしまった。
 客先回りの最後に彼のオフィスを訪ねると、いつも最初に顔を合わせる事務員の須藤さんの姿が見えない。エントランスまで出てきて「上着をお預かりします」なんて何やら甲斐甲斐しい様子の入谷にそれとなく訊いてみると、半休を貰っているらしい。彼女が自発的に取ったのか、事業主が与えたのか。なんだか嫌な予感がするな。
 入谷との仕事上のやり取りは慣れたものだ。サインを貰って、次回納品する薬品の数を増やす旨の依頼を了承する。
 俺は業務中の癖で、愛想笑いを口元に貼りつけたまま頷いた。

「数量の件、承りました。それでは、またひと月後に伺いますね」
「はい。よろしくお願いします」
「あ、こちらは私どもの新しい取り扱い商品でして、よろしければご覧下さい」

 テーブルの上のクリアファイルからパンフレットを一部取り出したところで、耐えきれないとばかりに入谷がぷっと噴き出した。いや、気づいてはいたのだ。さっきから笑いをこらえて肩がぷるぷる震えていたことを。

「ちょっと、笑わないでよ!」
「だって僕以外に誰もおりませんのに……無理です、可笑しすぎます」

 入谷は息も絶えだえにころころと笑い転げ、目元を拭う。そんなに面白かったのか? 大笑いされたのが恥ずかしくて、頬がかああと熱くなる。

「いや、俺だって変だとは思ったけどさ! どうすればいいのか分からないんだから仕方ないでしょう……その点、紫音くんは普段から口調が変わらないから狡(ずる)い」
「おや、狡いときましたか。可愛い言いがかりですね」

 俺の難癖を難なくかわし、相手は俺の隣へとやってくる。今の顔を至近距離でまじまじと見られる羞恥はかなりのものだ。入谷は俺の心境など知らない様子で、そのまま革張りのソファへ腰を下ろした。

「その話はもういいでしょう? 今日はこれからが本題ですので」

 そのままこちらに身を寄せた入谷が、獲物を狙う目をして囁く。う、と喉の奥から呻き声が漏れそうになった。昼間の苦い気持ちがそこまでせり上がってきたのだ。

「香水、つけてきて下さいましたか?」
「う、ん……昼過ぎに」
「ふふ、偉い子です。さて、どこにつけたのか僕に探させて下さいね」
「え……? あっ」

 湿り気を含んだ声が何やら宣言したと認識した時には、びくりと全身が反応してしまっていた。入谷に首筋を舐め上げられたのだ。その濡れた熱い感触は、仕事に必要なもの以外がないオフィスには、まったく似つかわしくないもので。

「ここではないみたいですね。こちらでしょうか」
「ちょっ、紫音くん……!」

 身を捩(よじ)るが、背中側からよく動く指が伸びてきて、寛げたシャツのあわいから侵入してくる。出会い頭に上着を預かるなんて初めての申し出があったのは、きっとこれの下準備だったのだ。胸元をまさぐる動きがいやらしく感じられ、じわじわと下腹部が熱くなってくる。
 普通に考えたらそんなところに香水なんてつけるはずがない。入谷は確実に、分かっていてやっている。
 このまま下半身までいじくり回されたら……と想像がもたげてきたところで、さんざん上半身を触り舌を這わせていた入谷が、俺の左手首に鼻先を近づけた。すうっと深く空気を吸い、にんまりとほほえむ。

「ああ、ちゃんとラストノートの香りが分かります。奥行きのある香りに煙草の匂いが混ざって……あの香水をあなたが使うとこうなるのですね。大人の男の香り、素敵です」
「紫音くん……でもこの香水のせいで、恋人ができたんじゃないかって噂されてたんだけど」
「不思議なことじゃ、ないでしょう? そうでないと意味がありませんから。……ね?」
「……っ!」

 甘く耳元に吹き込まれ、総身がじんと痺れる。
 入谷は俺を押し倒すようにソファへ仰向けに寝かせると、腹の上へ半ば跨がるようにして笑みを深くした。彼の指先は、俺のネクタイを掬い上げている。他の手持ちのネクタイとは決定的に違う、それを。

「ねえ、柾之さん。このネクタイ……僕がプレゼントしたものですよね。それはお会いした瞬間に分かりましたが――」

 入谷が袖口に触れる。ああ、気づいてもらえて嬉しいのに、それと同時にこんなにも恥ずかしいのはなぜだろう。

「ネクタイに、先日贈ったタイピンと、カフス。すべてつけてきて下さったんですね。香水と一緒に身につけてもらえるなんて……あなたは僕を喜ばせる天才です」
「ん……っ」

 俺の返答など不要と言わんばかりに、入谷が身を乗り出してきて口が塞がる。触れた唇はちゅ、ちゅ、と角度を変えて交わるが、それだけで済むはずがない。俺と入谷は淫猥な水音を空間に響かせながら、深く浅く口づけを続ける。幾人もの取引相手が座ったであろうソファの上で。
 ああ、入谷から贈られたものをすべて身につけるのを、ちょっと良い思いつき程度に考えていた朝の自分を蹴り飛ばしたい。そして言ってやるのだ。後でものすごく恥ずかしい思いをするぞ、と。
 そんなことを考えているうち、相手の指が下腹部を弄り始め――ちょっと待った、止める気がないんじゃないか、これ? 嘘だろう、ここは彼の仕事場なのに。

「しお、ん、くん」制止のための呼び声はみっともなく上擦り、熱を孕んでいた。
「ここでしたいです。駄目ですか?」

 至近距離から俺の目を覗きこむ年下の恋人が、ストレートに欲求を伝えてくる。
 色が深すぎて紫色に見える瞳の中に、自分の顔が映っていた。表情までは見えないがきっと、蕩けて締まりのない顔をしているのだろう。
 駄目だよ――その一言が言葉にならず、かちゃかちゃとベルトを緩める入谷のなすがままになる。呆気なく外気に曝された俺のそこは、既に隠しようがないほど固くそそり立っていた。入谷は切れ長の双眸をぎらりと輝かせる。

「ふふ、もうこんなに物欲しそうにして……柾之さんもしっかり興奮してるじゃないですか。ちょっと憧れがあったんですよね、オフィスセックスって」
「お、ふぃ」

 そうして言葉にされると、背徳感が物理的な手触りを持つように感じた。仕事をするために誂えられた部屋で、仕事とは最も遠い行為をこれからしようとしているのだ。
 俺は往生際悪く、施錠されていないエントランスのドアを思った。

「でも、誰か来たら――」
「そうですね、来るかもしれませんね。僕は別に見られてもいいですが。……ほら、柾之さんのここ、今のでまた大きくなりましたよ。想像しましたか?」
「ちが……」

 否定したいのに、触られると条件反射のように気持ちよくなってしまう。鈴口をちゅくちゅくと音が出るほど弄られて、腰が抜け落ちそうなほどの快感に襲われ、顎が上を向きかける。上擦った声にはもう熱がこもり始めていた。

「本当に? ここであなたとセックスしたら、僕はソファが視界に入る度に思い出すでしょうね。別の人が座っていたら、ああ、そこは柾之さんの肩のくぼみがあったところだ――とその度に考えてしまうでしょう。今からそんなことを予想して興奮しているなんて、僕はとてもいけない人間です」

 入谷の囁きは彼自身に向けられているのに、俺を苛んでいるように聞こえるのは、なぜなのだろう。
 入谷の器用な指は俺の昂りを優しく、ねちっこく扱いている。泣きぼくろのある右目に捉えられたら、もう駄目だ。オフィスセックスなんて常識外れだと分かっている。分かっているのに、してしまいたくてたまらない。恋人の指は気持ちいいけれど、物足りなくてもどかしい。
 常識的にしてはいけないことを破ったら、ものすごく気持ちいいに決まっているのだから。
 入谷がふと、寂しげに眉尻を下げた。

「本当にお嫌なら、無理にとは――」

 目の奥あたりがかっと熱くなる。ここでやめる? 冗談じゃない。俺はもう、君の奥深くに自分を刻みつけたくて仕方ないのに。

「もう、いいから。早く……ッ」
「入れさせろ、と?」入谷の眸が野生動物みたいに爛々と光った。その輝きの光源は、欲情の炎であるのかもしれない。「ふふ、柾之さんは欲しがり屋さんですねえ。いいですよ。いけないことを、ぐちゃぐちゃになるまで、二人でたっぷりしましょうね?」

 挑発的に口の端を引き上げて、入谷は自らのシャツのボタンに手をかける。
 生身の情欲をぶつけ合う予感に、胸の内で歓喜が弾けた。


 午睡(ごすい)から目覚めたときのような気怠さを全身に感じつつ、熱めのシャワーを浴びる。
 熱に浮かされて一頻りの行為を終えた後なので、なんてことをしでかしてしまったんだ、という賢者タイムの反動が酷い。
 幸いにもと言うべきか不運にもと言うべきか、俺以外に来客はいなかったから盛り上がれるだけ盛り上がってしまった。最後には上に乗られるのだけじゃ満足できず、入谷の後ろから激しく腰を打ちつけたため、腰回りの倦怠感がすごい。
「興味があった」という入谷の言葉通り、彼はいつもより感じ入っていたように思う。お互いの汗でしっとりした肌の火照り。こちらを熱っぽく見つめる潤んだ切れ長の双眸。ほのかに混じり合う二種類の香水の匂い。抗議するように鳴るソファのスプリングの音も、恋人の甘くとろけたしどけない嬌声もまだ耳に残っていて――いや、もう考えるのはよそう。さんざん体を重ねたのに、また熱(ほとぼ)りが蘇ってきそうだ。
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